2017年11月9日木曜日

摂津池田家の政治体制についての研究発表 その2

池田勝正を中心とした、摂津池田家の政治体制について研究発表を行います。

日時:平成29年12月10日(日) 午後1時30分より
テーマ:摂津池田家の政治体制を見る(発展から滅亡までと荒木村重の台頭)
場所:共同利用施設「池田会館」 池田市新町1-8

文字通り、池田家の発展の概要をお伝えできればと考えているのですが、何分、日曜研究者ですので、専門的なところが見えていないところはあるかもしれません。摂津の最有力国人となる、道程の輪郭が少し見える様になればと想います。
 また、その過程で、荒木家が、いかに関わり、地位を上昇させたかもご紹介し、荒木村重のその後の台頭の意味(イメージ)が、ご興味のある方の好奇心に結びついたらと、思います。

ただいま、鋭意、準備中です。ご期待にお応えできますように、頑張ります。



2017年7月30日日曜日

摂津池田家の政治体制についての研究発表

今年の12月10日に、「摂津池田家の政治体制について」研究発表の機会をさせていただく事になりました。私が所属する池田郷土史学会での会員発表なのですが、ご興味のある方は、どうぞお越し下さい。

詳細が決まれば、また、このブログ上でお知らせ致します。


2017年6月9日金曜日

摂津池田家とその領知内の人々の所属意識について考える(津池田家から荒木村重へ)

例えば、「大阪人」とか、「○○市民」とか、「日本人」といった、生きるための所属(帰属)意識というのは、その社会の真っ只中に居ればあまり必要ないのですが、個人の本拠(物理的・意識的な)や文化圏は必ずあり、古今東西、絶えたことはありません。自分自身の経験からも、それは必ずあり、状況に応じて必要になります。

しかし、現代よりももっと生存環境が厳しく、個人がどこかに所属しなければ生きていけなかった戦国時代には、そういう感覚はどうなっていたのかと、個人的に興味がありました。勿論、一番身近な運命共同体である、家族や村といったところの感覚はある程度理解できますが、その範囲を拡げたところの「郡」や「国」といったところの感覚はどういうものだったのかという部分です。この内、「国」もある程度想像はつきます。
 この感覚は、協働や連帯には必要な事で、逆にそれが無ければ社会はまとまらず、地域社会(コミュニティー)は成立しません。この所属意識は、その社会や生活の「核」になる重要な感覚であり概念(文化)だと考えています。

それで、こういった感覚が、戦国時代の摂津池田一族の中にどのようにあり、また、それに関係する人々にもあったのかどうか、とても興味がありました。しかし、確たる資料も見つけられないまま、また、あったとしても膨大な史料の言葉の何が、それにあたるのかも判らず、漫然と史料を読み飛ばしていました。

そんな中にあって、ある日、大変興味深い論文と出会い、その自分の永年の疑問が氷解し理解も進みました。やはりそういう意識はあったのです。
 『中世後期畿内近国の権力構造』の中で、田中慶治氏は、中世後期の宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。、と見解を述べています。
 
以下、同論文を続けて少し引用します。なお、史料番号は、『中世後期畿内近国の権力構造』の番号に倣います。
※中世後期畿内近国の権力構造P268

(史料14)----------------------------
【坂合部氏定書】
一、木原村・畠田村ハ牧野殿ノ御領中ニテ御座候へ共、知行ハ坂合部へ取、万事人足百姓是也。
(中略)
一、坂合部幕之文(紋)ハ井筒ニ山鳩、然共同名エモ前々ヨリ井筒計ユルシ申候。
一、石井喜兵衛エモ同名ニナシ申候事ハ、世ニカハリテカラノユルシニテ候、是ハ紀州伊都郡ノ侍衆宇智之郡侍衆ノ中ニテ手柄ヲモツテ同名ニナシ申候。其時両郡之侍衆より御褒美トシテ具足太刀刀被下候ニ付、坂合部殿モ是ニコシス御喜候テ井筒ニ山鳩ノ紋クタサレ候。是ハイマモツテノ事ニテ候。井筒ニ山鳩ノ紋ハムカシヨリ後々マテ有間敷候也。

 永禄11年9月19日
  坂合部兵部之大夫頼重(花押)
  辻元伝助政清(花押)
  誠神蘭之助正経(花押)
  古沢又之丞正次(花押)
----------------------------(史料14おわり)

これについて、『中世後期畿内近国の権力構造』は史料解析し解説を加えています。簡単に触れます。

(史料解析)----------------------------
【史料14】は、大変興味深い史料である。この史料から、石井喜兵衛という侍が手柄を立てたことにより、同名成していることがわかる。池上裕子氏は、伊賀惣国一揆が百姓の侍成を行っていることに注目された。そして惣国一揆による侍成を戦国大名が行使した権限と同じであるとされ、伊賀惣国一揆を惣国一揆の到達点とされた。
 とするならば、坂合部同名中の行っている侍の同名成という身分変更も、戦国大名が行使した権限と同じである、同名中の到達点を示しているといえるのではないか。
 また宇智郡、伊都郡両郡の侍衆が石井喜兵衛に褒美を与えていることから、この時期、国人衆や百姓衆ばかりでなく、侍クラスの者も一揆を結んでいたこともうかがえる。(後略)
----------------------------(史料解析おわり)

とあります。更に続けます。
※中世後期畿内近国の権力構造P281

(史料22)----------------------------
【畠山政長判物】
為郡衆使者、大岡参洛、誠感悦不少候。殊従惣衆中太刀一腰、金200疋到来今時分祝着至候。明春者早々可令進発候之間、各堪忍肝要候。併憑入候之外、無他候。謹言。
 12月12日    政長(花押)
  三ケ殿
----------------------------(史料22おわり)

(史料23)----------------------------
【畠山卜山(尚順)判物】
就き其方働之儀、度々注進趣、得其覚候。尤神妙候。敵未大澤小峯楯籠之由候。然者早々伊都郡衆申談可被取懸候。此口之儀者、近明ニ可合戦候。委細猶林堂忠兵衛可申候。謹言。
 8月21日    卜山(花押)
  宇智郡衆中
----------------------------(史料23おわり)

「史料22」と「史料23」の史料解析をまとめてご紹介します。
※中世後期畿内近国の権力構造P281

(史料解析)----------------------------
【史料22】は宇智「郡衆」が、「惣衆中」として、畠山政長に金品を贈ったことに対する政長からの礼状である。この中で政長は、宇智郡の武士を「郡衆」、「惣衆中」として把握している。畠山氏が宇智郡を一郡として掌握していたことがわかる。
【史料23】は宇智郡の武士に、畠山卜山が出陣を命じたものである。卜山はこの文書の宛先を「宇智郡衆中」としており、宇智郡の武士をグループで把握していることがわかる。この史料からも畠山氏が、宇智郡を一郡として把握していたことがわかる。
 また【史料23】では、卜山は、宇智郡衆に伊都郡衆と相談して攻撃するように命じている。第2節であげた【史料14】でも、宇智郡と伊都郡の武士が緊密な関係にあることがうかがえた。これらのことから、戦国時代の宇智郡の武士と伊都郡の武士が連携して行動していたことが指摘できる。
 中世後期の宇智郡には、一郡・惣郡という意識があったものと思われる。この一郡・惣郡という意識が、宇智郡に独自性・独立性を与え、惣郡一揆の成立に影響を及ぼしたものと思われる。(後略)
----------------------------(史料解析おわり)

こういった戦国時代の人々の所属意識について、それに関する論文を全て調べた訳では無いのですが、偶然に読んだ論文に、私の疑問を解く研究があり、非常に驚くと共に巡り合わせに感動しました。

この論文の視点を元に、摂津池田氏関連の史料を見てみます。すると、いくつかの気になる要素があります。何れも摂津国豊島郡箕面寺(現箕面山瀧安寺:大阪府箕面市)への文書ですが、それらを年代順にご紹介します。
 また、それらの文書形式は「直状形式」で、これは上位権力からの下達で、横並びの関係ではなく、上から下(身分)への通達です。

先ず、後の考証などで天文22年(1553)とされている池田勘右衛門尉正村・同十郎次郎正朝・同山城守基好・同紀伊守正秀などいわゆる池田四人衆が、「当郡中 所々散在」へ宛てたものを見たいと思います。日付は12月15日です。
※箕面市史(史料編2)P411

(史料1)----------------------------
箕面寺山林従所々散在盗取(剪)者言語道断曲事候。宗田(池田信正)御時之以筋目彼寺へ制札被出間、向後堅可令停止旨候。若背此旨輩於在之者則可加成敗由候也。仍件如。
----------------------------(史料1おわり)

【史料1】については、史料には元々年記が無かったようで、後年の考証などによっているので、本当に天文22年のものかという根本的な課題はあるものの、今のところ、この史料を額面通りに受け取るとすると、この頃は池田家当主の信正が不慮の切腹をさせられた事により、家政の混乱があった時期でした。
 正式に次の当主も決めていなかった状況だったようで、その空白を補うために、近世江戸時代でいうところの「家老」のような人物が一時的に家政の中枢を担っていたようです。
 文中の「宗田」とは信正の法名(入道号)で、信正の時の取り決めを今後も踏襲する旨を約す内容です。
 そして中でも重要なのは、宛先に「当郡中 所々散在」とある事で、豊島郡内という範囲を設けています。これは池田家の力の及ぶ範囲と思われ、また、池田家にとってはその責任の範囲の表明であったと考えられます。
 ですので、その中に住んだり権利を持っていたりする場合は、池田家から保護を受け、被対象者はそれを意識する訳です。

続いては、永禄6年(1563)3月30日付けで、池田勝正が箕面寺岩本坊に宛てた文書です。この時は、勝正が池田家当主になった直後で、対外的な新体制表明の意味があったと思われます。また、岩本坊は、箕面寺の中心的な存在です。
※箕面市史(史料編2)P413

(史料2)----------------------------
当郡其外拝領之内御買徳之事、縦雖為売主欠所■行々徳政之儀、当知行之筋目■不可有相違者也。仍為後日状如件。
■=欠字
----------------------------(史料2おわり)

【史料2】は、少し時代が下っていますが、池田家の当主が変わっても豊島郡内と箕面寺が持つ権益に対して、郡外であっても保護を約束する旨を伝えています。これは岩本坊に宛てられており、寺との直接的な契約を行っていることが判ります。

更に、池田勝正の史料が続きます。永禄12年(1569)3月2日付けで、筑後守(任官・名乗りはこれより前と思われる)となった勝正が箕面寺岩本坊へ宛てています。
※箕面市史(史料編2)P413

(史料3)----------------------------
当郡其外拝領之内散在御買徳分儀、縦売主雖欠所並徳政 公方(将軍義昭)徳政成候令免除者也。殊先年折紙進之候上者、尚以不可有別儀候。仍如件。
----------------------------(史料3おわり)

【史料3】は、この頃、中央政権である京都で、新将軍の就任がありました。足利義昭がその座についたのですが、永年続いた三好氏系の関連勢力では無く、その敵対勢力が最高権威の座に就きましたので、それについて地域社会の動揺を抑える意味もあってか、これまで通りに契約を履行する事を確認する内容になっています。
 また、文面はそれまでとほぼ同じですが、新政権で実施される「徳政」についての文言が追加され、寺の利益を損なわないようにする事を約束して、不安の払拭に努めています。

続いては、荒木村重が池田四人衆のメンバーに混じって署名している史料です。この史料は年記を欠きますが、個人的には白井河原合戦に勝利した後の新体制の表明として発行した音信と考えており、元亀2年(1571)と年代を推定しています。
 日付は11月8日で、署名者は、池田十郎次郎正朝・荒木信濃守村重・池田紀伊守正秀、宛先は「当郡中 所々散在」です。
※箕面市史(史料編2)P411

(史料4)----------------------------
箕面寺山林自所々散在盗取由候。言語道断曲事候。宗田(池田信正)御時以筋目彼寺へ制札被出間、向後堅可令停止旨候。若背此旨輩於在之者、則可被加成敗由候也。仍如件。
----------------------------(史料4おわり)

【史料4】は、この前年(元亀元年:1570)に池田四人衆の内、当主池田勝正寄りの2名が殺害され、残り2名となったところに荒木村重が加わって、3名体制になっていた事を示す史料と考えられます。
 この体制を「池田三人衆」と個人的に呼んでいますが、この新たな主導体制に替わった事で、関係する各所に保証についての表明を行っていると考えられます。内容は天文22年とされる池田四人衆の発行した文書と、それは全く同じです。宛先も同じで、豊島郡中の所々散在です。
 またこれは、池田家の権力の中心を示すものであり、顔ぶれとその人物の行動が実現できる環境としては、地域闘争で圧倒的な勝利を得た、白井河原合戦の直後でしかないと考えられます。

続いては、荒木村重の統治下となった摂津国豊島郡に村重とその一族の同名平大夫重堅が、村重の禁制に対する副状を発行しています。天正3年11月26日付けで、重堅が「当郡中 所々散在」に宛てています。
※箕面市史(史料編2)P415

(史料5)----------------------------
箕面寺山林盗取之者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以彼寺へ村重御制札被出置之間、堅可為停止旨候。万一於異儀者可加成敗由候也。仍如件。
----------------------------(史料5おわり)

【史料5】は、この時期、織田信長政権下での荒木村重の地位も確立され、安定的な地域内評価も得られ始めていた頃です。
 この前年、天正2年いっぱいまでは、京都周辺でも足利義昭の勢力も侮れず、動乱の余震は続いていました。池田家との闘争にも打ち勝ち、遂に池田家存続の核心的要素である、箕面寺にも禁制を下し、池田家当主と同内容の文書も下す事となった村重は、池田家に取って代わる勢力である事が認められた証拠でもあります。
 
これらの史料を見ると、やはり「郡」という単位を一定の基準として持っていた事が判ります。同時に、権利と義務といった契約やその中で生きるための生活も必ずありますので、意識というものも存在した事は確実です。
 池田家はこの豊島郡を中心に活動した勢力ですが、時代を経ると勢力を拡大させ、その周辺にも影響力を持つようになります。豊島郡という旧来の概念とは別に「下郡」という、千里丘陵以西から西宮あたりの平地を指す概念も戦国時代にはあって、豊島郡内にとどまらず勢いがあれば、旧来の郡域の外側にはみ出していきます。

今の自治体単位に置き換えると、豊島郡である池田市・箕面市・豊中市・豊能町を中心として、吹田市や川西市などにも池田家の勢力が及ぶようになっていました。
 それ程の地域を池田家が中心となって統治するのですから、相当な人数が必要になりますし、そこに暮らす人々の安全や営みの支えも築く必要があります。そういう中での信頼関係も結ばれなければ、地域は成立しません。
 それが地域の「核」であり、池田家の活動の「核」だと思います。歴史を見るには、その核がどこにあるのかを見る必要がります。対象によって色々ありますけども、摂津池田家の存続の「核」は、豊島郡への意識だったのだと思います。


参考サイト:箕面山瀧安寺公式サイト

2017年3月29日水曜日

天正4年5月、天王寺砦救援の軍議で織田信長の命令に異儀を立てた荒木村重

四天王寺
独裁的で、なんびとにも畏れられていたかのような、怖いイメージのある織田信長ですが、そんな信長の命令を荒木村重は、理由を述べて、それを請けなかったエピソードがあります。
 天正4年5月、織田信長が出席の上で、軍議が開かれました。本願寺勢に包囲されている天王寺砦の明智光秀・佐久間信盛などを救援するためです。
 この時は本願寺方の勢い強く、天王寺砦の陥落が心配され、非常に切迫した状況でした。既に塙直政(原田備中守)一族など、名だたる武将が戦死し、この勝ちに乗じて、天王寺砦が多数の本願寺勢に攻囲されていました。

以下、その時の様子を『信長公記』から抜粋し、ご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料1)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
(前略)
5月3日、早朝、先は三好笑岩、根来・和泉衆。2段は原田備中、大和・山城衆同心致し、彼の木津へ取り寄せのところ、大坂ろうの岸より罷り出で、10,000計りにて推しつつみ、数千挺の鉄砲を以て、散々に打ち立て、上方の人数崩れ、原田備中手前にて請止(うけとめ)、数刻相戦うと雖も、猛勢に取り籠められ、既に、原田備中、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎、枕を並べて討ち死になり。其の侭、一揆ども天王寺へ取り懸かり、佐久間甚九郎、惟任日向守、猪子兵介、大津伝十郎、江州衆、楯籠もり候を、取り巻き、攻め候なり。其の折節、信長、京都に御座の事にて候。則ち、国々へ御触れなさる。
----------------------------------(資料1 終わり)

これは本願寺方が瀬戸内海を通じて、毛利方から補給と支援を受けていた事から、このルートを断つために、織田信長がその封鎖を行う中で起きた闘争です。それについて、再び信長公記の抜粋をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P193

(資料2)----------------------------------
【原田備中、御津寺へ取出討死の事】
4月14日、荒木摂津守・長岡兵部大輔・惟任日向守・原田備中4人に仰せ付けられ、上方の御人数相加えられ、大坂へ推し詰め、荒木摂津守は、尼崎より海上を相働き、大坂の北野田に取出(砦、以下同じ。)を推し並べ、3つ申し付け、川手の通路を取り切る。惟任日向守・長岡兵部大輔両人は、大坂より東南守口・森河内両所に、取出申し付けられる。原田備中守は、天王寺に要害丈夫に相構えられ、御敵、ろうの岸・木津両所を拘(かか)え、難波(なにわ)口より海上通路仕り候。木津を取り候へば、御敵の通路一切止め候の間、彼の在所を取り候へと、仰せ出さる。天王寺取出には、佐久間甚九郎正勝、惟任日向守光秀おかれ、其の上、御検使として、猪子兵介、大津伝十郎差し遣わされ、則ち御請け申し候。
(後略)
----------------------------------(資料2 終わり)

楼の岸跡
そんな中での想定外の出来事が起き、織田信長はこれに緊急対応した訳です。信長はこういう時、対応が非常に迅速ですし、自ら先頭に立ち、戦死も厭わず行動します。
 対応が遅ければ相手が有利になりますし、第2・第3の被害が自軍に及び、益々状況が悪化します。心理的にも不利になり、戦意が萎えます。

信長は、原田備中守が戦死した事を知ると、直ぐさま陣触れを出し、京都を発ちます。河内国若江城に入り、ここで情報収集と準備を整えます。これは天王寺砦の後詰めの役割りも兼ねます。若江から天王寺までは、ほぼ直線に真西の方向で、距離も2里(8キロメートル)余りの至近距離です。この時の様子です。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料3)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
5月5日、後詰として、御馬を出だされ、明衣の仕立纔(わず)か100騎ばかりにて、若江に至りて御参陣。次の日、御逗留あって、先手の様子をもきかせられ、御人数をも揃へられ候と雖も、俄懸の事に候間、相調わず、下々の者、人足以下、中々相続かず、首(かしら)々ばかり着陣に候。然りと雖も、5、3日の間をも拘(かか)えがたきの旨、度々注進候間、攻め殺させ候ては、都鄙の口難、御無念の由、上意なされ、
(後略)
----------------------------------(資料3 終わり)

公記にもあるように、出陣が急な事であり、人数が揃いません。現代の信長イメージとは少し違うような感じがしますね。
 この時期、信長は政治的にも優位に立ち、社会的地位も上昇させ、全体の戦況も余裕が無かった訳ではありません。それでもこのような状態ですし、信長といえどもいつでも行動の強制ができる訳でもなかったようです。
 信長は勝たなければならない「戦」には「必ず勝つ」という事を強く認識し、その通りの結果をもたらします。また、救わなければならない対象も同じで、見捨てる事もありません。
 この時も、その通りの行動を取り、味方を救援に成功します。そして、2次被害も何とか食い止める事ができました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料4)----------------------------------
清水坂(この付近では良質な水が湧く)
【御後巻再三御合戦の事】
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣、上意に候。
 爰にて、各々御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く寄り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は二段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大阪城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の砦々に、10ヶ所の付城仰せつけらる。
 天王寺には佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、松永右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定番として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、真鍋七五三兵衛、沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
(後略)
----------------------------------(資料4 終わり)

しかし、こんな時に荒木村重は、軍議の席で織田信長の作戦構想に異儀を立て、独自の見知を述べて、信長に認めさせます。
 この時、村重にとっても当面の危急は脱した状態で、さ程の苦しさ(政治・軍事的に)は無かったと見られますが、なぜこのような態度になったのでしょうか。

この頃、村重はそれまでの「信濃守」から「摂津守」の官途を叙任しており、これは信長の計らいや尽力もあった筈ですが、「それとこれとは別」といった態度にも見えなくはありません。
 織田政権の緊急事態に応えてこそ、日頃の恩に報いる事だと一般的には感じますが、村重には村重の立場があり、視点と考えがあったのでしょう。また、敵の数が多く、苦戦が予想されるため、自分の側の被害を避けたりする事を考えたのかもしれません。
 村重はこの2年前、摂津国内の中嶋・崇禅寺付近で合戦を行い、大きな損害を出しています。同じ事を繰り返す訳にはいかないと、考えていたかもしれません。

いずれにしても、村重は信長の命令を断り、後詰に徹する旨を述べ、尼崎から北野田、木津方面にかけての北方向から本願寺に備え、西方向にも警戒する陣構えを担当することになりました。
※信長公記(新人物往来社)P194

(資料5)----------------------------------
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
5月7日、御馬を寄せられ、15,000ばかりの御敵に、纔(わず)か3,000ばかりにて打ち向はせられ、御人数三段に御備えなされ、住吉口より懸けらせられ候。
 御先一段 佐久間右衛門尉、松永弾正(山城守)、長岡兵部大輔、若江衆。
 爰にて、荒木摂津守に先を仕り候へと、仰せられ候へば、我々は木津口の推へを仕り候はんと、申し候て、御請け申さず。信長、後に先をさせ候はで御満足と仰せされ候へき。
(後略)
----------------------------------(資料5 終わり)

摂津国内での合戦ですし、役割りからして村重が主たる軍勢を担うのは、当然の事だったと思います。
 しかし、村重のこの時の行動が不自然にも感じられ、後に村重は信長に対する謀反を起こした事から、『信長公記』の作者である太田牛一は、対比的に扱い、その出来事を特記したのかもしれません。

とに角、信長はこの緊急事態を打開しなければならない事を強く意識していましたので、自ら先頭に立って指揮する事を決します。そして、何とか危急を脱する事はでき、明智光秀や佐久間正勝などの武将は討死を免れました。
※信長公記(新人物往来社)P195

(資料6)----------------------------------
安居神社から北方向を望む
【御後巻再三御合戦の事】
(前略)
かくの如く仰せ付けられ、信長は先手の足軽に打ちまじらせられ、懸け廻り、爰(ここ)かしこと、御下知なされ、薄手を負わせられ、御足に鉄砲あたり申し候へども、されども天道照覧にて、苦しからず、御敵、数千挺の鉄砲を以て、放つ事、降雨の如く、相防ぐと雖も、噇っと懸かり崩し、一揆ども切り捨て、天王寺へ懸け入り、御一手に御なり候。然りと雖も、大軍の御敵にて候間、終に引き退かず、人数を立て固め、相支え候を、又、重ねて御一戦に及ばるべきの趣き、上意に候。爰にて、各御味方無勢に候間、此の度は御合戦御延慮尤もの旨、申し上げられ候と雖も、今度間近く取り合い候事、天の与うる所の由、御諚候て、後は2段に御人数備えられ、又、切り懸かり、追い崩し、大坂城戸口まで追いつき、首数2,700余討ち捕る。是れより大坂四方の塞々(とりでとりで)に、10ヶ所の付城仰せつけらる。天王寺には、佐久間右衛門尉信盛、甚九郎、進藤山城守、松永弾正、右衛門佐、水野監物、池田孫次郎、山岡孫太郎、青地千代寿、是れ等を定盤として置かれ、又、住吉浜手に要害拵え、まなべ七五三兵衛・沼野伝内、海上の御警固として入れ置かる。
 6月5日、御馬を納められ、其の日、若江に御泊まり、次の日、眞木嶋へお立ち寄り、井戸若狭守に下され、忝き次第なり。二条妙覚寺に御帰洛。翌日、安土に至りて御帰陣。
 (後略)
----------------------------------(資料6 終わり)

それからまた、「天王寺砦とはどこか」という事ですが、わかりやすくまとめられている資料がありますので、ご紹介します。
※大阪府の地名1-P681

(資料6)----------------------------------
勝鬘院の多宝塔
天王寺砦跡(天王寺区伶人町・逢阪1丁目)
織田信長が築かせた城。城跡については月江寺付近とする説(摂津志)があるが、四天王寺の西、勝鬘院と茶臼山の間の上町台地西端に北ノ丸、中ノ丸、南ノ丸の小字が残り、この地は西が急崖で城地として最適の条件にある。江戸時代中頃とみられる石山合戦配陣図(大阪城天守閣蔵)にも、四天王寺に西接して「サクマ玄蕃サカイノ道ヲフサク」と記されている。
 天正4年(1576)3月、本願寺顕如は織田信長に反旗を翻し、石山本願寺に籠もって抗戦を始めた。信長は明智光秀・細川藤孝・原田直政・荒木村重らに命じて攻撃態勢を整え、天王寺口の攻め手を原田直政として城砦を構えさせた。
 本願寺側が木津(現浪速区)と楼ノ岸(現中央区)に砦を築いて、木津川を通じて海上と連絡をとっているのを知った信長は、まず木津川口の占拠を命じ、同年5月3日、原田直政・筒井順慶らに攻撃させた。しかし本願寺門徒の勢力は強く、木津川口の戦で原田直政は敗死、直政にかわって天王寺には明智光秀が布陣した。
 敗戦の報を受けた織田信長は、京都を発って、若江城(跡地は現東大阪市)に入り、5月7日には若江を出て天王寺へ救援に向かった。『信長公記』には「天王寺砦」とあるので、まださほど堅固な城郭ではなかったとみられる。信長は激戦の後、天王寺砦に拠る明智光秀と合流することに成功、門徒勢を石山本願寺の木戸口まで追撃したが、その堅塁を抜くことはできず、長期包囲戦術をとることにした。
勝鬘院に隣接する大江神社の坂
天王寺砦の増強も図られ、早くも5月9日、信長は摂津国平野庄(現平野区)中に「天王寺取立之城普請」のため用材などについて奔走するよう指令している。
 天王寺砦には佐久間信盛・同正勝父子と松永久秀が定番として詰めたが、翌5年8月、松永久秀の背反後は佐久間父子がもっぱら当たることとなった。大軍による長期の攻撃にもかかわらず、信長はついに武力で石山本願寺を落とすことができず、正親町天皇の調停という形で前関白近衛前久らを勅使として本願寺に派遣、和議によって石山を退去させようとした。和議の約定が成立した天正8年3月17日付けで信長は血判した覚書七ヵ条(本願寺文書)を出したが、その第二条で、顕如らが石山本願寺から退去するに先立って、まず信長方の軍勢が「天王寺北城」(天王寺北方にある信長方の付城)から撤兵し、近衛前久らと入れ替わると誓っている。
 和議が成立し、顕如は4月9日、紀州鷺森へ去り、退去を拒んでいた教如らも、ついに8月2日、信長に石山本願寺を明け渡した。その直後の8月中旬、信長は天王寺城の定番である佐久間父子の罪状ををあげて剃髪させ、高野山に追放した。罪状の冒頭で、佐久間父子が天王寺城に在城した5年間になんの戦功もあげず、「取出」(天王寺城)を堅固にさえしておればやがて信長の威光で退散するだろうと考えていたのは、武士道にもとるものである、と叱責している点が注目される。佐久間父子の追放後、天王寺城は壊された。
----------------------------------(資料6 終わり)

若江城跡
村重は、天正4年4月までは、天王寺砦にも出入りしていた可能性もあっただろうと思いますが、5月の軍議は、河内国若江城で行われたようです。また、信長公記では「住吉口」から天王寺の本願寺勢を攻めたようです。軍議の後、配置につくために各所へ進んだと思われます。村重は、河内国内を北上し、摂津国内へ入って木津川口へ向かったと思われます。

この天王寺での合戦の約2ヶ月後、足利義昭を奉じた毛利輝元勢が大船団を組んで、大坂の本願寺方に物資を搬入。この時、木津川口にて大海戦があり、織田方は大敗を喫します。村重も水軍を率いてこれに参戦しているようです。
 詳しくはわかりませんが、村重は早い段階からこの毛利方の動きを掴んでいたため、天王寺砦の戦いでは、木津川口や北野田方面を固めることを具申したのかもしれません。
 上記で記述の、村重が信長の命令を請けなかった理由のもう一方の推測としては、これも成り立つかもしれません。本質的には、村重に下された官途である「摂津守」の意味は、やはり摂津国の知事ですから、その中で起きる事については、主体的に行動することが求められ、期待されることが一般的感覚だったと思います。その意味では、村重のこの行動が、少々の不審を買ったことも否めないのではないかと思います。

この後の約2年間は、織田方の瀬戸内海の制海権はやや不利となり、一方の本願寺方にとっては物資補給のメドも立ちました。両軍共に、作戦の再構築が必要になったようです。


2017年3月23日木曜日

摂津池田家当主よりも地位の高い池田播磨守正久という人物について

摂津国内の有力国人であった池田氏は、その活動範囲の広さから様々な史料が残っています。ただ、それらは断片的で、連続性が無いために、関連性の判断が非常に難しいところがあります。

今回ご紹介する、池田播磨守正久の書状もそのひとつです。いつもの様に、先ずその史料からご紹介します。年記未詳で、無神(10)月20日付けで、今西宮内小輔(春憲)宿所へ宛てたものです。
※池田市史(史料編1)P25、豊中市史(史料編1)P115、春日大社南郷目代今西家文書(本文編)P446

(史料1)----------------------------
前置き:尚々納所仕候様々御馳走所給候。尚此者可申候間、不能懇筆候。
本文:此間不申通御床敷存候。仍去年も以書状申候代物之儀、急度被成御馳走候而可給候。若貴所被仰儀、無同心之体候者、此方へ可被成御引付候。催促付可申候。但寄井筒屋其方へ不被借候哉。こい(乞い)可申候はば、御報に委細可承候。御隙之時進入御奉待候。恐々謹言。
----------------------------(史料1 終わり)

年記未詳の史料という事からその比定なのですが、個人的には『春日大社南郷目代今西家文書』の推定も参考にし、今のところ天文16年(1547)と考えていますが、これについては他の年代の可能性もあります。しかし、確証無く、流動的なところがあります。

それで、その年代比定の理由ですが、宛先である「今西宮内小輔」の活動時期は、天文から天正に渡り活動していて、池田家当主の信正・長正・勝正の3代を跨ぎます。ですので、この視点では、殆ど年代推定の幅を狭めることができません。
 次に、文の内容ですが、「尚々納所仕候様に御馳走所給候」や「仍去年も以書状申候」「若貴所被仰候儀無同心之体候者、此方へ可被成御引付候」などの部分は、天文15年に南郷目代今西家から大規模な代官請けを得た池田家が、今西家との関係を繋ごうとしていた行動で、池田信正失脚中の家政に関する動きと考えてみました。
 この史料のように池田正久は、家政の一端を担って活動していたのかもしれませんが、残念ながら、他に正久の史料は見当たらず、この件についての詳細は不明です。

更に、正久の官名である「播磨守」ですが、これは山陽道(8カ国)に属する大国(他に上国・中国・小国の区別あり)の扱いです。この大国は、地位にすると「従五位」で、池田家当主の「筑後守」の地位「従五位下」を上回るもので、播磨守は一段地位の高い人物となります。
 池田家中には、従五位下を上回る地位の人物は見当たらず、池田正久は家中で一番地位の高い人物という事になります。一般的には、こういう社会的地位を家中の者が得る時には、当主を超えない範囲で地位の配分(栄典授与・論功)が行われますが、何らかの特別な手柄を立てて地位を得ていくという可能性も無い訳ではありません。
 しかし、そういった場合は家中が割れて敵味方となり、激しく争う場合や、家を出た者が別の有力者に属して出世したような場合などに見受けられたりします。

いずれにしても、池田正久の地位の高さの実用性は、当主が健在で正常な家政運営が行われている間には、可能性として低いように思われます。
 それにあたる時期としては、天文16年6月25日に細川氏綱を擁立した池田家が管領細川晴元に背いて降伏し、恭順していた頃(信正は隠居し、宗田との入道号を名乗ったらしい)、即ち、池田家中が主体的で正常な家政を執り行えなくなっていた時期の正久の行動と考えてみました。

ちなみに、この池田家が細川晴元に対して恭順している時期に、池田家にとって大きな出来事がありました。
 池田信正は、義理の父である三好政長を通して晴元に謝罪し、一応は許されていました。政長は、晴元の最側近でもあり、その流れで接点を活かすことは自然な見立ててです。しかし、池田家にとって予想外だったのは、親類として保護するどころか、政長が池田家中の政治に介入を始め、財産なども不当に取り上げる行動に出た事でした。
 信正の妻は、三好政長の娘で、それにつながる一派が池田家中に居て、諍いが起きていたようです。
 もしかすると、池田正久は三好政長一派である可能性もあるにはあります。何事も有利に運ぶために、社会的地位を高くする方法もあるのかもしれません。そうだとすると、姓名も「三好」だった可能性もありますね。これは今のところ、筆者の空想レベルなのですが...。
 
それから、個人的には訝しんでいるところもあるのですが、この播磨守正久が池田勝正の父と推定する研究者もあるようです。その根拠も今のところは、希薄ですが、こちらが完全否定する程の材料も無いといったところです。

また、文中に「但寄井筒屋其方へ不被借候哉」との表現が見られます。「井筒屋」とは商人らしき人物ですが、この井筒屋について、関係無いとは思うのですが、池田の郷土史に井筒屋が関連していますので、一応、参考までにあげてみたいと思います。
※『わたしたちの郷土 -文学に現れた遺跡と人物-』より

(資料2)----------------------------
昭和30年代の池田本町の井筒屋跡写真
写真:昭和30年代の池田本町の井筒屋跡
【井筒屋跡】
本町いづつやの2階に住む豊年の新米坊主呉春(自筆の大黒天図署名より)
天明元年(1781)当時、存充白と名乗っていた松村呉春は京都から蕪村門の先輩、川田田福の好意に甘え池田の本町にあるその出店井筒屋の2階に移り住むこととなった。
 翌天明2年の年頭に当たり全てを新しくしようと考え、池田の古名、呉服で春を迎えるのだから呉服の呉と春とを結びつけて、呉春と呼ぶことにした。時に31才。
 本町井筒屋云々の署名は天明2年9月、呉春が池田荒城氏(満願寺屋)の転居祝いに贈った大黒天図に残されたものであるが、その頃はまだ丸坊主になって日が浅かったので、自分でも珍しくこんな称えをしたものらしい。一説には本町通、現紅屋呉服店ともいう。
【川田田福】
田福は、井筒屋庄兵衛と称した京都の人で呉服商を営み、池田本町に出店を持っていたので、池田と因縁が深い。田福は蕪村について俳諧を学び、その門下の中でも尊敬に値する人物であった。田福は謡曲、蹴鞠にも興味を持ち、また絵画をもよくしたようである。池田の高法寺に川田祐作居士遺愛碣というのが建っているが、これは荒木李𧮾の撰木で弟の荒木梅閭の筆である。
----------------------(資料2 終わり)

さて、史料1の文の内容は、少し音信が途絶えたが、去年も書状で伝えた「代物」の事、必ずの取り計らいを期待する。もし、そちらでそれに同意しない者があれば、催促を行うので、こちらへ報せてもらいたい。ただし、井筒屋よりそちらへ借りられるか。乞う事があれば、報せにより承る。状況次第に進めてもらい、それを待つ。、というような旨で伝えており、「代物」についての用件のようです。代物とは「銭」の事なのかもしれません。
 この音信の時期は、10月ですので、米の収穫時期です。前置きにある文は、その事のようです。しかし、それとは別に、去年から代物の事について伝えているようです。それを南郷目代の今西宮内少輔にも協力を求めているのは、上位の権力からの用件なのかもしれません。

池田正久についての史料は、この1点しか見当たらず、不明なところも多いのですが、今後も調査を続けていきたいと思います。



2017年3月20日月曜日

荒木村重の父、若しくは村重の先代にあたる人物(信濃守勝重)の史料が実在する可能性について

近年、知名度も高くなってきた摂津国の戦国大名荒木村重ですが、それはやはり、織田信長方の武将としての活躍が大きな要因でしょう。もちろん、大河ドラマで取り上げられたり、ゲームや漫画などへの露出もあるでしょう。ここ最近は、加速度的です。
 しかし一方で、この荒木村重という人物は、不明なところも多くあって「謎の武将」といったイメージも強いようです。特に、織田方の武将として名前が知られる前の活動については、殆ど知られていません。
 
筆者はどちらかというと、その前の摂津国の国人大名であった池田勝正の動きを研究している事もあって、その重なりが、この村重(家系)の黎明期から成長期にあたり、自然と並列研究のようになっています。
 それらも追々、お伝えしていきたいと考えているのですが、今回は以前から個人的に気になっていた、村重の父の可能性がある荒木信濃守勝重なる人物が、摂津国人らしき「北與」なる人物に宛てた史料がありますので、ご紹介したいと思います。年記未詳の2月14日の音信(返報)です。
※豊中市史(史料編1)P126

(史料1)-------------------------------
前置き:尚々善へも以別帋可申入候へ共、御意得候て御演説所仰候。
本文:如仰久敷不申承不断御床敷令存候。折節御懇御状本望之至候。随而此間者弥介方に長々逗留仕候。内々に我等も可参心中之候処難去用所共候て不参御残多存候。此由北右へも被仰候て可給候。次以前承候南郷(摂津国垂水西牧)知行分事、勝正折帋之儀も可相調候へ共、無紛儀候者、可為有様候之絛可御心安候。殊に彼庄之事者同美存知之由にて候之間、被仰様体委可申聞候。其方之儀不苦候者、北右善へ被成御同道、ふと御出奉待候。我等もやかて可参候。急申候間此外不申候。恐々謹言。
-------------------------------(史料1 終わり)

先ず、この史料の年代比定をしないといけないのですが、結論から言いますと、永禄8年(1565)かその前年ではないかと考えています。以下、その理由を述べます。

この音信の宛先である「北与」とは、北河原氏と考えられ、同氏は摂津国川辺・豊島郡境付近の豪族とされています。また、文中の「弥介(やすけ)」とは、荒木村重を指すと考えられる事から、弥介を名乗っていたらしい元亀2年(1571)以前から永禄6年(1563)頃までの期間が想定されます。
 他方、「勝正折帋之儀」とは、荒木勝重の上位者である事が伺え、永禄6年2月の当主長正死亡後から元亀元年6月19日の勝正追放までの間が想定できます。なお、永禄4年9月9日には、南郷目代の今西家によって、勝正に対する特別な祝儀が贈られているため、その頃から勝正に代替わりとなったか、南郷の特別(主要)な管理を行うようになった可能性もあります。

更に文中の「同美」とは、荒木美作守宗次を指すと考えられ、その活動時期を見ると、永禄5年4月に荒木美作守が摂津国箕面寺に宛てた禁制の副状(池田長正に対する)を発行し、同年2月23日に南郷に関する問題解決のための音信を受けたりもしています。宗次の史料は、永禄8年2月以降は見られなくなります。当主の交代と共に、荒木美作守にも地位に変化を生じさせたものと思われます。

それらの状況を考え併せると、この史料は、宗次の史料上の活動が見られなくなる頃(池田長正の死亡による当主交代)に近い時期、永禄7年の池田家と今西橘五郎・宮内少輔(春房?)とのやり取りに関係のある史料と想定しています。

さて、文中に登場する人物名の補足をしておきたいと思います。文中には北河原一族の人物名が複数人出てきます。「北與=与右衛門?」「善=善右衛門?」「北右=右衛門?」「北右善=右衛門?と善右衛門?の両者をまとめて書いた」といった具合に、人物名を略して書いています。この件について、何度もやり取りしているためです。

文の内容を見ますと、「荒木信濃守は北河原方へ向かうつもりで、弥介方に長々逗留しており、やがて北与・右・善の3名とも合流し、南郷知行分の懸案解決を図る予定である。これについては、荒木美作守がよく知っているので、委しく申し聞き、事の次第がハッキリすれば、現当主池田勝正から証文を発行してもらうつもりなので安心するように。」との旨を伝えており、信濃守勝重は、当主勝正の奉行人のような行動をしていた事が判ります。
 前当主池田長正の家老荒木美作守から同名信濃守勝重が役を引き継ぎ、活動をしていた一端がこの史料から読み取れるように思います。

そして、折紙発給者の荒木信濃守勝重とは、その名から考えて、「弥介」の後に「信濃守」を名乗る村重に関係が深い人物と思われ、その名の一字に「重」の字を持っています。また更に、勝正と関わると考えられる「勝」の字も持ち、両者に深い関係を持つ人物と推定できます。
 この事から「弥介」すなわち後の村重は、当主勝正から見ると系図的には一世代下であろうことも判明します。この時点で村重は官名を持たず、その父と考えられる勝重が「信濃守」を名乗っているからです。また、概ね「紀伊守」「遠江守」などの官名は、それを代々継ぐ家系があって、当主がその官名を名乗ります。

ただ、荒木信濃守勝重についての史料は、今のところ、この1点のみで、他の活動については不明です。どの時点、どういう理由で勝重が、その地位を譲る事になったのかは、今後も見ていきたいと思います。



2016年11月26日土曜日

戦国武将荒木村重が、摂津国守護職を任された頃(荒木地域政権)の重臣と被官たち

戦国武将荒木村重が、織田信長から摂津国守護職を目され、地域政権を始動(後に正式に任される)した天正元年(1573)以降の重臣・被官と思しき人物を、筆者のノートから簡単にとまとめてみました。まだ途中で、初期的なものですが、皆さんの何かの参考になればと思い、アップしてみます。

以下は、史料・軍記物などに見える人物ですが、地域政権内でどんな役割りを担い、それぞれの人物の地位はどのあたりか、という細かなところまでは今のところ分別していません。
 ですので、以下の一覧の順番もそのようにご理解いただければと思います。また、米印部分は、史料に見られる年月日です。
 大体のところは、荒木一族が政権中枢(重臣)ではあるのですが、細かなところは分類途中ですので、随時、整理していきたいと思います。

<荒木村重の被官>-------------------
  • 荒木重堅       ※天正3.9、同年.11.26、天正4.8.11、天正5.9.29、天正6.2
  • 荒木志摩守(元清)  ※天正6.11.14、天正7.3
  • 荒木与兵衛尉     ※天正元年.6.12、天正4.8.21、天正7.12.16
  • 荒木新丞(同名志摩守兄の息子渡辺四郎の弟) ※天正7.12.16
  • 荒木越中守      ※天正7.6.4、同年6.20、同年12.16
  • 荒木新五郎右衛門尉  ※天正7.12.12 
  • 荒木(本名藤田?監物丞?)重規(重綱) ※天正7.1.20
  • 伊丹安大夫      ※天正7.12.16
  • 伊丹宗○(宗察か。伊丹源内) ※天正7.6.20、同年12.16
  • 伊丹九兵衛      ※天正7.9.11
  • 伊丹新七       ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 宇保真清       ※天正5.3.26(天正11年頃か)
  • 宇保対馬守      ※天正2.3.15、同6.11.22
  • 観世彦右衛門尉(宗拶?・豊次?) ※天正3.9.26、天正6.28、同年.2.16、同年.2.17
  • 観世又三郎(宗拶弟) ※天正2.3.15、同6.11.22
  • 木村弥右衛門尉    ※天正2.4.3、天正6.1.29
  • 高山右近とその一族  ※天正2.7.14、天正3.9.26、天正4.8.21、天正5.11.23
  • 中川清秀       ※天正3.4.12など多数。
  • 石田伊予守      ※天正2.11.10、天正3.12.23、天正6.11.24
  • 石田主計       ※天正7.7.26
  • 北河原(但馬守?)  ※天正3.9.25、天正7.2.28
  • 北河原与作      ※天正7.12.16
  • 塩川伯耆守      ※天正4.12.14、天正7.4.18
  • 塩川伯耆守貞清    ※天正7.4.28
  • 塩川勘十郎      ※天正7.3.14
  • 芝山源内       ※天正3.12.22、天正6.1.29、同年12.1?
  • 芝山次大夫      ※天正6.12.8
  • 池肥某(池田肥後守?・豊前守?) ※天正4.8.21
  • 池田監物丞正遠    ※天正6年11.22
  • 池田和泉守      ※天正7.12.1、同年12.16
  • 池田三郎右衛門    ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 池田(荒木)久左衛門 ※天正7.11.19、同年12.16
  • 池田教正       ※天正2.4.11
  • 栗山佐渡守      ※天正2.4.11
  • 藤井加賀守敦秀    ※天正4.8.21
  • 森弥次某       ※天正4.8.21
  • 中美(中野美作守か) ※天正4.8.21
  • 中野又兵衛      ※天正6.12.8
  • 中西小八郎      ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 中西新八郎      ※天正7.10.15
  • 安部仁右衛門     ※天正6.12.1、同年.12.3
  • 安見新七郎      ※天正4.6、天正5.4.6、天正6.10.1
  • 篠河甚兵衛尉長次   ※天正5.3.25
  • 富松重晴       ※天正4.8.3 
  • 上野某        ※天正7.9.1
  • 築山市兵衛尉     ※天正5.5.18
  • 波々伯部伯耆守    ※天正5.12.6、天正7.12.16
  • 瓦林越後守      ※天正元年.12.10、天正4.8、天正6.1.30、同年11.8、同年.11.14、天正7.6.20、同年12.16
  • 樋口         ※天正6.2.16
  • 村田因幡守      ※天正7.12.16
  • 吹田因幡守      ※天正7.12.16
  • 渡辺勘大夫(同名四郎の父) ※天正6.11.24、天正7.12.16
  • 渡辺四郎       ※天正7.12.16
  • 渡辺八郎       ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 牧左衛門尉      ※天正7.12.16
  • 坂中主水       ※天正6.11.24、天正7.3.5
  • 野村丹後守      ※天正7.10.15
  • 平井久右衛門     ※天正6.12.8
  • 麻植新右衛門尉    ※天正7.6.4
-------------------(一覧おわり)

2016年11月10日木曜日

荒木村重の重臣であった瓦林越後守は、池田育ち(生まれ)か!?

天正7年(1578)12月16日、京都六条河原で行われた荒木村重一族・重臣家族の処刑に、瓦林越後守娘(北河原与作女房)の名が見られます。以下、その処刑の時の様子についての資料をご紹介します。
※信長公記(新人物往来社)P280

(資料1)------------------------
【伊丹城相果たし、御成敗の事】
(前略)
12月16日、辰の刻(午前7〜9時)、車1両に2人づつ乗りて、洛中をひかせられ候次第。
1番(20歳計り)吹田、荒木弟(17歳)野村丹後守後家、荒木妹。
2番(15歳)荒木娘、隼人女房、懐妊なり。(21歳)たし。
3番(13歳)荒木娘、だご、隼人女房妹。(16歳)吹田女房、吹田因幡守娘。
4番(21歳)渡辺四郎、荒木志摩守の兄息子なり。渡辺勘大夫娘に仕合わせ、則ち養子とするなり。(19歳)荒木新丞、同じく弟。
5番(25歳)宗察娘(伊丹源内ことを云うなり)伊丹安大夫女房。此の子8歳。(17歳)瓦林越後守娘、北河原与作女房。
6番(18歳)荒木与兵衛女房、村田因幡守娘なり。(28歳)池田和泉守女房。
7番(13歳)荒木越中守女房。たし妹。(15歳)牧左衛門女房。たし妹。
8番(50歳計り)波々伯部伯耆守。(14歳)荒木久左衛門むすこ自然(じねん)。
此の外、車3両には子供御乳付付7・8人宛て乗られ、上京一条辻より、室町通り洛中をひかせ、六条河原まで引き付けらる。
(後略)
------------------------(資料1おわり)

「資料1」に記載されている順番は、必ずしも荒木一族を筆頭に下る上位順という訳でも無いようで、今のところその規則性は不明です。ただ、組織内の主立った重要人物とその家族である事は間違いありません。
参謀本部陸軍部測量局の地図(北河原村付近)
記述によると、瓦林越後守と北河原与作とは、姻戚関係にあったようです。この北河原氏は、有岡城の北東方向の至近にある北河原村を中心として活動する土豪と考えられ、北河原氏に関する史料も残っています。
 この北河原村は西国街道から枝分かれし、600メートル程南下したところにある、有岡城の北から入る直前の集落です。

一方、今回のテーマの瓦林越後守について見てみると、筆者は西市場村(現池田市)を中心として活動していた可能性を考えており、この西市場村は西国街道の至近にある重要な場所に立地していました。また、ここには城があったと伝えられています。西市場城です。
 以下、村と城についての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P322

(資料2)------------------------
【西市場村】(現池田市豊島北1・2丁目、荘園2丁目、八王子2丁目)
神田村の東にあり、村の南側を箕面川がほぼ西流。古代の豊嶋郡郡家の所在地を当地とする説、「太平記」巻15(大樹摂津国豊嶋河原合戦事)に記される豊島河原を当地の箕面川原にあてる説などがあるが、いずれも憶測にすぎない。
 元文元年(1736)成立の豊島郡誌(今西家文書)などによると、当村にある市場古城に観応年間(1350-52)瓦林越後守が拠ったという。地名は中世の定期市に由来すると考えられるが、史料上の確認は得られていない。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて旗本船越領。寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると村高303石余とあるが、天和3年(1683)頃の摂津国御料私領村高帳では202石余となっており、以後幕末まで同高となっている。溜池として西市場池があったが、現在は埋め立てられ、市民総合スポーツセンターとなっている。
------------------------(資料2おわり)

豊嶋河原古戦場跡(戦前の箕面川の様子)
続いて、西市場城についてのいくつかの資料をご紹介します。推定地は、現池田市豊島北です。出典は文末に示します。

(資料3)------------------------ 
◎西市場にあって、東西180メートル、南北157メートル、周囲700メートルの地域が城跡で、現在は畑地あるいは宅地となって、なんら見るべきものはない。しかし、地形やや高く、南北西の3面に水田を巡らして溝渠の状をなしている。土地の人はこれを堀と呼んでいる。当城は観応年間(1350-52)、瓦林越後守が築いて拠った城地という。【日本城郭全集9(人物往来社)】
◎『北豊島村誌』には「西市場の西、役場の北方、現在”濠”と呼ばれている一段低く細長き田によって囲まれている地がそれか」とあり、周濠を回した館城かと思われるが、現在ではまったく消失。『摂津志』には「瓦林越後守所拠」とあるが、その歴史については未詳。【日本城郭大系12(新人物往来社)】
------------------------(資料3おわり)

また、西市場城の南側の至近距離、箕面川を跨いだ対岸にも今在家城があったと伝わっていますので、それについての資料も参考までにご紹介します。
※日本城郭全集9(人物往来社)P41

(資料4)------------------------
【今在家城】(当時:池田市今在家町)
北今在家の西南にある。天文より天正年間(1532-91)まで、池田城の支城として池田氏の一族が守備していた。
------------------------(資料4おわり)

池田城を本城とする周辺の要所との支城関係については「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(池田城と支城の関係を考える)」をご覧いただければと思います。

さて、このように地域的には北河原村と西市場村は西国街道沿いの要地であり、また、それらの立地も池田城や伊丹城にとっては、重要な地域でもありました。
参謀本部陸軍部測量局の地図(西市場村付近)
上記「資料3」にもあるように、西市場城の城主は瓦林越後守であったと伝わっているようで、その年代は曖昧なところがあるようですが、これが荒木村重の重臣であった同名の人物ではないかと思われます。時代としては、天文から天正年間だろうと思います。
 勿論、伝承の時制が正しく、同名で同じ官途の別人という可能性は、ゼロでは無いのですが、今のところ、筆者の調べている範囲で、その整合性を考えてみます。

瓦林氏は、摂津国武庫郡の瓦林城を中心として活動した国人土豪ですが、その瓦林城の史料上の初見が、建武3年(1336)とされています。また、『瓦林正頼記』にあるように、永正年間(1504-21)頃に瓦林氏は最盛期であったようです。その後、三好長慶が越水城に本拠を構えるようになると、次第に独立性を低下させ、その配下に組み込まれた勢力に変化したのではないかと思われます。
 いつ頃の事かはハッキリとしませんが、三好家中の分裂(三好長慶没後)に相対するように、瓦林家中が分裂したようです。長慶の側近であった松永久秀の重臣として、瓦林三河守や同名左馬允重秀などが見られます。
 ちなみに、元亀元年(1570)9月28日、瓦林三河守は三好三人衆方篠原長房の軍勢に攻められて、一族郎党106名と共に戦死し、瓦林氏宗家は絶えたと考えられます。
 天正5年(1575)12月1日、織田信長が京都等持院雑掌へ宛てて朱印状を発行していますが、これは、等持院が元々持つ摂津国瓦林・野間などの地域の年貢を直接収納する事を認める内容で、この頃には、本拠地においても瓦林氏の活動実態が存在しなかったと考えられます。以下、その資料です。
※織田信長文書の研究(下巻)P338、天龍寺文書の研究P315

(資料5)------------------------
等持院領摂津国瓦林・野間・友行名所々散在事、数通の判形・証文帯し之上者、直務相違有るべからず、然る者近年拘え置く之積もり分早速院納、次ぎに臨時課役等、有るべからず之状件の如し。
------------------------(資料5おわり)

瓦林氏の盛衰は、上記のような流れですので、瓦林家としての「本家(本流)」という核を持ち、一族が有機的に機能している間、つまり、瓦林家が栄えてい時代には、他家へ一族の者が身を寄せるような可能性は低いだろうと思います。池田家中に見られる瓦林氏は、同家の勢力が衰えるような事が無ければ、その必然性はありません。
 家中の内紛などで対立した同族一派が外界の敵対勢力に入るという事例もあったと思いますが、それらの詳しいことは現時点では、残念ながらわかりません。

さて、ここで池田家中での瓦林氏の活動をご紹介します。文書は短いのですが、その内容に20名が署名している文書です。また、この史料の年記は不明ですが、個人的には、元亀2年(1571)と推定しています。6月24日付けの文書です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P503など

(資料6)------------------------
内容:湯山の儀、随分馳走申すべく候。聊かも疎意に存ぜず候。恐々謹言。
署名者:小河出羽守家綱(不明な人物)、池田清貧斎一狐、池田(荒木)信濃守村重、池田大夫右衛門尉正良、荒木志摩守卜清、荒木若狭守宗和、神田才右衛門尉景次、池田一郎兵衛正慶、高野源之丞一盛、池田賢物丞正遠、池田蔵人正敦、安井出雲守正房、藤井権大夫数秀、行田市介賢忠、中河瀬兵衛尉清秀、藤田橘介重綱、瓦林加介■■萱野助大夫宗清、池田勘介正行、宇保彦丞兼家
※■=判読不明文字。
------------------------(資料6おわり)

上記の「資料6」では、瓦林加介某という人物が、池田家中の主要な人物として、連名で署名しています。この加介が、後に「越後守」に身分を上昇させ、荒木村重の重臣に取り立てられるようになった可能性が高いと思われます。
 ただ、いわゆる軍記物ではしばしばその名が見られるものの、池田家中での瓦林氏の一次資料は、この1点のみであるため、断定するには少々の心細さもあります。

しかしながら、奈良春日社南郷目代(荘官)の今西家に伝わる帳簿には、永享元年(1429)8月日の記録に「河原林方」との記述が見られます。
 今西氏は、寿永2年(1183)に摂関家の荘園「垂水西牧」が、春日社に寄進されたのを契機に、現地管理のために派遣された目代です。しかし、その管理方法は時代により変化します。室町時代から戦国時代になると、地域の自立化が進み、武士や有力者の台頭で、独自管理が難しくなり、春日社などの荘園領主層は、地域の有力者(主に武士)に税の徴収などを委託するようになります。
荘園の仕組(西牧江坂郷の場合)
それを「代官請(だいかんうけ)」といいますが、池田氏はこの代官請を周辺の領主からいくつも任されて、収納の代行業務も行っていました。もちろん、池田氏は25パーセントほどの手数料も貰っています。
 この永享という時代には、既に池田氏は既に存在していますが、まだ西牧内の給人の一人(番や番子)で、飛び抜けて大きな勢力には成長していない、発展途上にある段階でした。そんな時代の記録ですので、河原林氏と池田氏は、横に並んだ給人同士といった感じだったのでしょう。
 両者の接点として、興味深い史料です。また、そういう意味で、 この記録は史料上の河原林氏の初見です。
 それから、この河原林氏は、瓦林越後守に直接つながるかどうかは、今のところ不明ですし、この後の今西家の同記録(毎年の記録が残っている訳ではない)では見受けられず、一時的な事だった可能性もあります。
【図の出典】
◎荘園物語 - 遠くて身近な中世豊中 -(豊中市教育委員会 2000年刊)
※図のキャプション:室町時代には、春日社から現地管理のために今西氏が派遣される。有力名主を番頭に、他の名主を番子とし、番頭22人で番を組んで4つの番で年貢の納入を分担した。

時代は下って、「春日社領垂水西牧御柛供米方々算用帳(御柛供米方々算用状)」という天正4年(1576)の記録の中に「瓦林越後(守)方」との記述が見えます。
※豊中市史(史料編2)P494

(資料7)------------------------
 一、垂水之新左衛門扱
伊和寺分半分也
 2石1斗5升5合 池田將監方
同人弁
 2石8升7合
伊和寺分半分也
  2石1斗5升5合 瓦林越後(守)方
蔵納に仕候
------------------------(資料7おわり)

瓦林越後守は、垂水西牧内に給人としての活動も行っていた事がわかります。

一方で、瓦林越後守は、堺商人の天王寺屋宗及の茶席に顔を出していたようで、茶会記の記録で見かけられます。その部分を抜き出します。
※茶道古典全集8(淡交社)

(資料8)------------------------
◎天正元年(1573)12月10日条:
(前略)同 日昼 摂津国瓦林越後守、関本道拙
一、炉にフトン 長板に桶・合子、二ッ置、(後略)
◎天正6年(1578)1月30日条:
耳徳、瓦林越後守、瀧本坊 3人
炉にフトン、後に手桶、備前水下、(後略)
------------------------(資料8おわり)

上記「資料8」では、単なる茶席への出座では無く、その顔ぶれや時期が政治史にとっても重要な意味を持ちます。
 その視点で、天正元年12月10日の茶席について見ると、この時の瓦林越後守は、もしかすると、池田方での行動だった可能性があります。この茶席の前後を見ると、池田清貧斎(紀伊守)正秀が度々茶席に出ており、清貧斎が所持していた名物茶器までもが茶席で披露されるなどの動きが見られます。
 実は、村重が地域勢力の主導者になってから茶席に顔を出すのは、天正4年6月6日に、天王寺屋宗及に招かれてからで、意外な事にそれ以前は、記録に見られません。その被官の名前さえも見られず、それまでは全て、池田清貧斎の名前です。
 また、軍事的にも、村重が摂津国内で優勢になるのは、天正2年11月に伊丹城を落とした後で、少なくともそれ以前は、織田方が五畿内地域で優勢ではありますが、反織田方勢力を圧倒していた程ではなかった状況だと思われます。
 それらの状況を鑑みると、天正元年12月の瓦林越後守の茶会出席は、この時の所属としては、池田方だったかもしれないとも考える訳です。ただハッキリしている事は、この時点で「越後守」の官途を名乗っていた事は間違いありません。

次に、荒木村重の重臣として行動している時期の瓦林越後守に関する資料をご紹介します。村重が織田政権から離反して直ぐの頃、(天正6年と考えられる)11月8日付けで、本願寺宗坊官下間刑部卿法眼頼廉が、備前・美作国大名の宇喜多和泉守直家宿所へ宛てて音信している資料です。
※兵庫県史(史料編・中世9)P476

(資料9)------------------------
諸警固、一昨日6日摂津国木津浦に至り御着岸候。当寺(大坂石山本願寺)大慶此の事候。仍って摂津国表之儀、先書申し入れ候へき。定め而相達すベく候。荒木摂津守村重自り、證人為息女並びに父子血判之誓詞越し置かれ候。即ち同国欠郡中嶋表付城共破却候。瓦林越後守、是の者此の間当寺へ之使者に候。是れも人質為実子両人、神文等到来候。此の方之儀は此の如く相卜(うらなって選び定める。望む、期待する。)候間、御心安されるべく候。将又、(毛利被官)乃美兵部丞宗勝・同児玉就方に荒木村重往来之様、御留守に自り懇ろに伝達為すべく候之間、■申すに及ばず候。其の外方々吉事迄候。現形すべく候間、追々申し伸べるべく候。然者、此の節頓に陸路之御働き肝心に候。猶、後喜を期し候。恐々謹言。
※■=欠字。
------------------------(資料9おわり)

次は、同年の同じ状況下で、同月14日に毛利輝元一族小早川隆景が、同被官粟屋元種へ音信した資料ですが、同日付で同じ人物へ宛てた資料がもう一通あります。そちらは長文なので、以下は短い方をご紹介します。また、元種はこの時、摂津国方面を担当していたようです。
※兵庫県史(史料編・中世9)P476

(資料10)------------------------
追々申し上げ候。一、度々申し上げ候1,000貫之儀、いよいよ差し急がれるべく候。御油断無き之由候間、御上せ待ち奉り候。一、荒木摂津守村重所へ、今度御味方御祝着之段、御使者早々差し上せられ候儀、肝心に候。一、御太刀・銘物・銀子100枚、是者、軽々と仰せ遣わされ分たるべく候と聞き申し候。息新五郎(荒木村次)、並びに今度一味に成り仕り候荒木志摩守元清・河原(瓦)林越後守、両3人へ者、荒木村重への御祝儀御儀定随われ、仰せ付けられるべく候。天下之大忠之致す之間、題目浅からず候。各御談合過ぐべからず候。恐惶謹言。
------------------------(資料10おわり)

村重が、織田政権から離反し、足利義昭方勢力へ復帰するにあたり、人質を差し出して(何らかの事情で、実際には大坂本願寺へ人質を送っている)いるようです。
 それについて、地域勢力を主導する村重が、忠誠の証として実子を入れる事は当然というか、自然な流れだと思いますが、それに加えて、村重と同族の同苗志摩守元清と瓦林越後守も実子を人質に差し出しています。村重と同族の元清についても同上の理由で理解できます。しかし、瓦林越後守は、その流れからすると特異であると思います。
 一方で、対外的に信用を繋ぐためには、権力の中心人物が重要人物を人質として出すというのは、一般的理解としては、自然な事と思われます。
 則ち、瓦林越後守は権力中枢にあって、村重の側近としての地位であった事が、この人質差し出しの行動から判断できるのではないかと思います。

さて、視点を池田家時代に戻します。

そもそも、今も昔も、人間の社会的関係、組織内の個人の役割りや地位は、信用と信頼関係があってこそ附属するもので、それらは急に成せるものではありません。そこに至るまでの数々の実績があって、更に発展・強化されていくのが摂理です。
 この瓦林越後守についても、村重の地域政権の活動の前に得ていた、信用と実績があってこそですし、その視点無くしては、事実の解明も進まないと思います。

西市場城跡の付近(2001年頃撮影)
西市場城についての伝承の通り、そこが池田家中の瓦林氏の本拠だったとすると、戦争になれば常に最前線になる可能性が高い、常に緊張感のある地域であったと思われます。
 そういう環境ですので、池田本城に対する支城的な役割りを持っていたと考えられる要地でもありました。また、地名が示すように「市場」があったと考えられ、且つ、西国街道という官道(国道)に沿った集落であり、経済・軍事的には非常に重要な位置付けでした。
 ちなみに、この付近は「豊島冠者故居(てしまかじゃこきょ)」とも伝わっていて、池田氏の祖にあたる一族が盤踞したところともされています。元歴(げんりゃく)から文治(ぶんじ)年間(1184-90)の頃、鎌倉幕府の開幕前の時代です。
 そんな重要な地域ですので、「資料4」にあるように今在家城の存在も伝承としてあります。西市場城からすると、箕面川の対岸の南側です。西国街道を意識した施設だったのでしょう。
 こちらは、西市場城よりは具体的な伝承で「池田城の支城として池田氏の一族が守備していた」とされています。池田氏の一族とは、もしかすると瓦林氏を指しているのでしょうか?時期も天文から天正年間とし、正に今回のテーマの指向性と合致しています。自然に、また必然として、今在家城は西市場城と協働する施設であったと考えられます。
 ただ、こちらも発掘調査などは行われていませんので、公的な知見は得られていません。ですので、「存在すれば」という事になりますが、伝承は残っているという事実はあるのです。

それから、色々な史料を読んでいると、しばしば池田領内に敵が攻め入る状況が見られるのですが、この西市場城の直ぐ南を流れる箕面川が、領域の結界(防衛線)になっていたと思われます。
 池田長正時代(1550頃-1564)後半には、池田本城を中心とした支配領域が拡大し、次の勝正の代にもそれが引き継がれて、安定・固定化します。そのひとつの目安として、自然要害であり、水の支配の象徴である「川」、箕面川が境界になったのではないかと考えられます。
現在の箕面川の様子(2001年頃撮影)
そして、その箕面川は猪名川と合流し、その猪名川は池田からすると、東側の要害です。(猪名川については、早い段階でそういった概念が創出されて、今では定着しています。)それらの川に囲まれた地域は、広義の意味では「城内」的な、いわば池田の「庭」のような感覚の領域であったと思われます。
 実際には、池田家はそれらの川を大きく越えた領域を支配しており、豊嶋郡全域を中心として、西は川辺郡の一部、東は嶋下郡の一部、北は、能勢郡の部分を支配していました。
 更に京都や堺、摂津国平野郷などに屋敷を持つなどして出先機関を有し、余野などの交通の要衝の有力者とも姻戚関係を持つなどし、最盛期には摂津国内で、最大の勢力を誇るまでに成長していました。
 そんな環境の中で最前線とも言える緊張地域に本拠を置いていた池田家中の瓦林氏にとっては、このように年々拡大する支配領域のお陰で、次第に西市場城の瓦林氏も緊張状態が低下し、相対的に豊かにもなっていった事と思われますが、そこに至るまでの瓦林氏の貢献は小さくは無く、それについての池田家中での信用度は大きく育っていったのではないでしょうか。
 それが「資料6」に署名している瓦林加介某で、後に同一人物が「越後守」の官途を得て、活動していたと考えられます。また、同資料に署名する人々は、地域統括もしていたらしき人物で、藤井権大夫数秀は「加賀守」を後に名乗り、現箕面市中北部地域を、萱野助大夫宗清は同市萱野地域一帯を、また、神田才右衛門尉景次は現池田市神田地域一帯、宇保彦丞兼家は同市宇保地域一帯など、各氏はそれぞれの地域の有力者でした。
 そしてまた、これらの人物は、ほとんどが荒木村重政権に吸収されていて、引き続いて、地域統括の役割りを担っていたものと考えられます。

さて、西市場村を本拠としていたとされる瓦林氏は、いつ頃からそこに入ったか、詳しいことは解りませんが、池田家中に、瓦林氏が存在した事は史実として明らかですし、その瓦林家が何代か続く中で「越後守」の官途を代々名乗った可能性もあります。はたまた、栄典授与での、瓦林家にとって前例の無い官途叙任だった可能性もあります。
 いずれにしても、先述のように、外来の人物が直ぐに、組織の信用を得る事は難しいでしょうから、西市場村での一定期間の活動は、あったのだろうと思います。瓦林氏が一時期、上位権力と結びついた時代もあったことから、そういう人脈を活かした活躍をしたのかもしれません。

ですので、伝承にあるように、観応年間の結びつきも全く事実無根とは言えない可能性があります。同時に、悪意無く、時代の記憶違いである可能性もあります。
 他方、城そのものがあったかどうかは、発掘調査など公的な知見は得られていないので、何とも言えないところがありますが、文献から見ると、上記のように筆者が提示した可能性が考えられると思います。

この瓦林越後守については、荒木村重が主導する地域政権、また、近畿の政治史にとっても重要な人物ですので、今後も文献的にも物理的にも事実を確定させていく事が望まれます。今後に期待し、自らも今後また、関心を持って掘り下げて行きたいと思います。


2016年10月26日水曜日

元亀元年(1570)8月13日、摂津国河辺郡の猪名寺付近(現尼崎市)で行われた「猪名寺合戦」について

元亀元年(1570)6月18日、摂津守護池田家中で内訌が発生し、池田家は三好三人衆方となりました。幕府は有力勢力を失いましたが、この敵である三好三人衆にとっては、その真逆の力を得る事となりました。
 しかし、三好三人衆方の池田衆は、南への連絡路が無く、当初はこれを早急に開く必要を生じさせていました。猪名寺合戦は、この目的で画策されたと考えられます。実際の合戦時期は、微妙に目的要素の優先度が入れ替わっているですが、複合的な必要性で合戦に至ったと思われます。
 それから、永禄12年4月に伊丹氏は、幕府から河辺郡潮江庄代官職を認められている事から、同地域を三好三人衆方に侵される状況にあって、不十分ながらもこれらの排除のために出陣したとも考えられます。 加えて、猪名寺合戦直前の7月12日付けで、伊丹忠親が尼崎本興寺に宛てて禁制を下していますので、尼崎の保護・確保のために取った軍事行動でもあると思われます。
 そしてその交戦の場となった、猪名寺村についての資料を下にあげます。
※兵庫県の地名1(平凡社)P478

(資料1)---------------------------
参謀本部陸軍部測量局の地図(猪名寺部分)
【猪名寺村】
田能村の西に位置し、北は大坂道で伊丹郷町下市場村(現伊丹市)、北東部を猪名川と分かれたばかりの藻川が流れる。正和5年(1316)の作と推定される行基菩薩行状絵伝(家原寺蔵)に、奈良時代に僧行基が建立した「猪名寺給孤独園」が描かれる。明徳2年(1391)9月28日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に猪名寺がみえる。
 元亀元年(1570)8月13日、尼崎に在陣していた淡路の安宅勢が伊丹方面に軍勢を繰り出したのに対し、織田方の伊丹城から猪名寺に軍勢が出され、高畠(現伊丹市)で合戦が行われている(細川両家記)
 慶長国絵図に猪名寺とみえ、高432石余。元和3年(1617)の摂津一国御改帳には猪名寺村と記され高422石余、幕府領(建部与十郎預地)。寛文6年(1666)大坂定番米津田領となり、天和4年(1684)幕府領、同年2月松平乗次領、元禄6年(1693)幕府領、同7年松平乗成領となり、宝永元年(1704)幕府領となったが、延享3年(1746)三卿の田安領となり明治に至る(尼崎市史)。
真言宗 法園寺(真言宗御室派)
用水は猪名川水系三平井・猪名寺井掛り(同書)。宝永7年の村明細書(西沢家文書)によれば、文禄3年(1594)に片桐市正の奉行で検地を実施。家数83、うち高持百姓43・柄在家日用働40、人数407、寺は真言宗・一向宗各1、氏神は伊丹にある。地面取実1反につき米は、1石3、4斗より2石、木綿300目を1斤にして7、80斤より100斤余、麦1石6、7斗、小麦6、7斗。田畑合計39町4反余。馬5・牛16。耕作のほか伊丹酒屋で日用。切畑村(現宝塚市)領長尾山山子村として山手銀を納め草を刈っていた(「長尾山山子村々山手銀届」和田家文書)。
 伊丹郷町明細帳(武田家文書)によると郷町の氏神野宮(現伊丹市猪名野神社)の氏子で、神事費用を負担している。同社は延喜4年(904)当村から現在地に移されたと伝える。明治12年(1879)調の寺院明細帳によれば、真宗本願寺末法光寺、真言宗仁和寺法園寺(真言宗御室派)がある。
猪名寺廃寺跡周辺の地形の勾配差(南東辺)
法園寺は、和銅年間(708-715)行基開基と伝え、天正7年(1579)焼失により廃寺。宝暦8年(1758)定暠再興、明治6年無檀のため伊丹金剛院に廃合されたが、同15年再興。明応(1492-1501)末年頃と推定される宝篋印塔残欠(基礎)がある。西沢家は代々庄屋役を勤めた家柄で、寛永13年(1636)をはじめとする2,650余点の文書を所蔵。
藻川西岸の標高約11メートルの段丘上に猪名寺廃寺がある。昭和27年(1952)・同33年に発掘が行われ、法隆寺式の伽藍配置であることが判明。金堂は凝灰岩切石による壇上積基壇。創建瓦は川原寺式のものが含まれ白鳳期と考えられている。南方500メートルには猪名野古墳群や、瓦・緑釉土器等の出土した中ノ田遺跡などがあり、為名氏の寺院とみられている。
---------------------------(資料1おわり)

上記資料(1)によると、猪名寺村内にある法園寺は、天正6年冬からはじまった荒木村重の乱により、翌年には兵火を受けて焼失したと伝わっているようです。やはりこの時も伊丹を守るための出丸や砦のような役割りがあったのか、猪名寺村が攻められたのでしょう。元亀の猪名寺合戦の時も、同じような位置付けにあったのではないでしょうか。

猪名寺合戦を考える時に、少し周辺状況を俯瞰してみます。

池田家の内訌から10日後の6月28日、三好三人衆勢力が摂津国吹田へ上陸し、京都・大坂の水運の要所を制しました。
 これに関連のある動きとして、7月付けで、池田民部丞が山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下しています。これは池田勝正の後任当主かもしれないのですが、今のところ詳しくは解りません。なお、同一人物が、9月付けで摂津国河辺郡多田院に、11月5日付けで同国豊嶋郡箕面寺へ宛てて禁制を下しています。
 これらは何れも、既に池田家当主が禁制を下した実績がある場所で、また、先方から禁制を求められる程の名の通りと実力があったと考えられます。

さて、話しを猪名寺村付近の地域動静に戻します。

猪名寺廃寺段丘東側の藻川。正面は五月山。
吹田に上陸した三好三人衆勢を、幕府・織田信長勢力が攻撃し、7月6日に吹田周辺で交戦しています。その間に、摂津守護伊丹忠親は、尼崎を押さえるために動き(後巻きの意味もあったでしょう)、同月12日付けで尼崎本興寺へ宛てて禁制を下していいる事は、先にも述べたところです。
 この後、同月下旬頃からは、三好三人衆勢の動きが活発化します。27日から翌月5日までは、時系列を参照願うとしまして、9日、三好三人衆方で淡路衆の安宅信康勢は、兵庫から尼崎へ進んでいます。
 この安宅勢と池田衆が、伊丹方面へ進み、交戦となりました。この頃の伊丹城は、後に荒木村重が改修して有岡城とする前であり、基本的な防衛プランは共通していると察せられますが、中世的な、防御要素が散在する状況だったと思われます。
 そのため、街道を通し、周囲より小高い地形を成す猪名寺は重要な防衛拠点だったとも思われます。また、猪名寺の東を流れる藻川・猪名川は、川幅が広く、通常は水嵩も左程高くないために徒渉が可能です。江戸時代にも橋は架けない(防衛上の意味もあるが)方針が採られていたようです。
 
猪名川・藻川の渡河可能推定
この渡河できる地点と街道、渡しの場所などを詳しく検証しているサイトがあるので、そこから図を引用させていただきます。このサイトは、羽柴秀吉の「中国大返し」から天王山の合戦への道程と経緯を深く掘り下げられています。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
※ご注意:これらの資料を引用させていただくにあたって、情報元の方にご連絡しようとサイト内を探したのですが、連絡先がなく、引用元の明記を以て、ご挨拶に代えさせていただきます。もし、不都合がありましたら、当方までご連絡いただきたく、お願い致します。

猪名寺合戦について『細川両家記』に記述があります。安宅勢が尼崎から北上し、伊丹城周辺を打ち廻りましたが、池田衆もこれに呼応して伊丹方面へ出陣した模様です。池田衆は、後巻きの役割だったのかもしれません。これを見た伊丹勢は、100名程が城から出て応戦しようとし、猪名寺辺りまで出た所で交戦となって、池田衆もこれに加わったようです。伊丹勢は劣勢となって押し返され、池田衆が高畠辺(有岡城縄張内の南部にある高畑村と関係するか)あたりで、4〜5名を打ち取り、伊丹衆は城へ退いた、としています。細川両家記の「猪名寺合戦」の模様を以下にご紹介します。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

(資料2)---------------------------
一、同8月13日淡路衆安宅勢相催し候て伊丹辺へ打ち廻る也。池田も一味して罷り出候也。然るに伊丹城より100人計り猪名寺と云う処へ出られ候。寄せ手、此の衆へ取り懸かり、高畠辺にて4〜5人池田衆が*討ち取り、打ち帰られ候也。淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也。
※『細川両家記』での「へ」は、現代感覚の「が」としての意味合いで文中に用いる傾向があるように思われる。
---------------------------(資料2おわり)

この交戦により、三好三人衆方がこの方面では優位を確保し、伊丹の孤立化を図る事ができたと思われます。
 文中の「淡路衆は、尼崎へ打ち入られ也」とは、淡路衆の兵庫から尼崎への陣替えが、尼崎惣中の外だったという状況だったかもしれません。考えられるのは、本興寺と同じ日蓮宗ですが、より三好三人衆方に縁が深い長遠寺のある別所村でしょうか。
 伊丹方が7月12日付けで本興寺に宛てて禁制を下しているので、この時までは尼崎本興寺などに伊丹衆が居て、猪名寺の交戦で優位となった安宅衆がその勢いを借って、本興寺の伊丹衆へも攻撃し、尼崎を制圧したのかもしれません。
慶長国絵図を元に地形と街道の関係を推定復元
また、当時の伊丹と猪名寺との地形を考えるための参考になる図があるので、引用させていただきます。慶長国絵図を元に、地形と街道の関係を推定復元されています。猪名川を渡河するための道が何本かあり、それらを使って池田衆が、伊丹城攻めのために、進軍したのかもしれません。
【出典サイト】「少し歴史の話」へ ようこそ!:少し調べ物をしたら、「歴史」のツボに嵌ってしまった!!
 ちなみに、田能村出身の武士の田能村氏は、どちらかというと池田氏よりの関係だったらしく、そういう環境を利用して進軍したり陣を取ったりしたと考えられます。

一方、この頃の河内国方面では、8月17日に古橋城(現門真市)が落ちましたが、ここは兵站基地でもありました。ここに伊丹方の軍勢が150名程入っていた(三好義継方からも150名)のですが、攻撃によりほぼ全滅しています。
 これは、この10日程後の記録として史料に現れる、幕府・織田信長方勢力の陣取り場所である「天満森」への物資供給の準備だったと思われます。この時の古橋城は、兵粮の集積を行っていたとの記述があります。

さて、このように一旦は三好三人衆方が優勢となりましたが、態勢を立て直した織田信長は、決戦のために大挙して摂津国欠郡天満森へ入り、三好三人衆方の拠点である野田・福島を攻める準備を整えました。
 この動きにより、幕府・織田方勢力は勢いづき、三好三人衆勢を圧倒するかに見えましたが、9月13日に大坂の石山本願寺が蜂起し、形勢は逆転します。同月23日、信長は天満森から撤退を決めて開陣、兵の多くは防衛のために京都へ退き、近江国へも軍勢を割く必要性に迫られました。
 同月27日、三好三人衆方の篠原長房勢が兵庫へ上陸した事を機に、再び三好三人衆勢の攻勢が強まります。尼崎や西宮、堺などの大坂湾岸は三好三人衆方が実効支配するに至りました。

しかし、織田信長が禁裏を動かし、天皇による調停が呼びかけられると、三好三人衆を始めとした同盟勢力がこれに応じてしまい、信長は劣勢を仕切り直す事に成功しています。

最後に、以下、元亀元年(1570)の池田家内訌後からの猪名寺合戦に関係する要素を時系列に並べてみます。

(資料3)---------------------------
 【1570年(元亀元)】
6/18  池田家中で内訌発生
6/18  将軍義昭、近江国高島郡への出陣延期を通知する  
/19  池田勝正、将軍義昭へ状況を報告
6/19  将軍義昭、近江国高島郡への出陣再延期を通知する 
6/26  三好三人衆方三好長逸・石成友通が池田城に入ると風聞
6/26  池田勝正、将軍義昭と面会
6/27  将軍義昭、近江国高島郡への出陣を中止する
6/28  摂津守護和田惟政、同国豊嶋郡小曽根春日社へ宛てて禁制を下す
6/28  三好三人衆勢、摂津国吹田へ上陸
7       摂津国河辺郡荒蒔城を荒木村重などの池田衆が攻める?
7     三好三人衆方池田民部丞、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
7/6   幕府・織田勢、吹田で交戦
7/12  摂津守護伊丹忠親、尼崎本興寺へ宛てて禁制を下す
7/27  三好三人衆方三好長逸、摂津国欠郡中嶋へ入る
7/29  三好三人衆方安宅信康勢、摂津国兵庫に上陸
8/2   三好三人衆など、山城国大山崎惣中へ宛てて禁制を下す
8/5   三好三人衆勢、河内国若江城の西方へ付城を構築
8/9   三好三人衆方安宅信康勢、尼崎へ陣を移す
8/13  摂津国猪名寺合戦
8/17  三好三人衆勢、河内国古橋城を落とす
8/25  織田信長、摂津国へ出陣
8/25  三好三人衆方摂津国原田城(池田氏に属す)が自焼する
8/27  池田勝正など幕府・織田信長勢、摂津国欠郡天満森へ集結
9     三好三人衆方池田民部丞、摂津国河辺郡多田院へ禁制を下す
9/3   三好三人衆方三好長逸など、池田城を出て野田・福島の陣へ入る
9/8   摂津守護伊丹忠親・和田惟政、池田領内の市場を打ち廻る
9/10  織田信長、野田・福島城を攻撃
9/11  織田勢、欠郡中嶋内の畠中城を落とす
9/12  織田勢、野田・福島城を総攻撃
9/13  本願寺宗、幕府・織田信長に対して蜂起
9/23  幕府・織田勢、摂津国方面から総退却
9/27  三好三人衆方篠原長房勢、兵庫に上陸して越水城を攻める
9/28  三好三人衆方篠原勢、尼崎へ移陣
10/8  三好三人衆方篠原勢、伊丹勢を攻撃
10/10 三好三人衆方三好長治、尼崎本興寺内貴布祢屋敷へ宛てて禁制を下す
10/10 三好三人衆方篠原実長など、尼崎本興寺西門前寺内に宛てて禁制を下す

10/15 織田信長、伊丹忠親へ守備を堅くするよう音信
10/下  三好三人衆方篠原勢、越水城を落とす
11    三好三人衆方池田衆の中川清秀など、池田周辺諸城を攻める?
11/5  三好三人衆方池田民部丞、摂津国箕面寺に宛てて禁制を下す
11/7  三好三人衆方篠原長房、堺に入る
11/21 織田信長、三好三人衆と停戦して開陣する
12/8  幕府・織田信長、三好三人衆と和睦する
12/13 幕府・織田信長、浅井・朝倉方と和睦する
12/24 幕府・織田信長、石山本願寺と和睦する
---------------------------(資料3おわり)



2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察