2016年10月22日土曜日

摂津国河辺郡の大尭山長遠寺(現尼崎市)を再建した甲賀谷正長は、摂津池田の出身者か!?

大尭山長遠寺
兵庫県尼崎市に大尭山長遠寺(ぢょうおんじ)という古刹があり、そこに甲賀谷又左衛門尉正長夫妻の、特別に顕彰された墓があります。
 今のところ不明な事が多いのですが、この人物は同寺を再建した大檀越(おおだんおつ(だんおち):寺や僧に布施をする信者や檀家の事。)として墓(正長:台上院正蓮日寳大居士、妻:清冷院妙蓮日禅大姉)と碑が祀られています。
 今のところ、判る範囲をお伝えしておきますと、長遠寺内にある多宝塔(尼崎市内唯一、国指定重要文化財)を慶長12年(1607)に、甲賀谷正長が施主となって建立し、元和元年(1615)9月5日、日蓮書状(乙御前母御書)を日蓮筆曼荼羅本尊(まんだらほんぞん)と共に長遠寺へ寄進、同9年5月、本堂を造営するなどしています。
【参考】尼崎市公式ホームページ:日蓮書状(乙御前母御書)
 また、この正長の嫡子(二男以下か)と思われる文左衛門が、現此花区伝法にある同じ日蓮宗の海照山正蓮寺を寛永年間(1624-44)に創建(寛永2年(1625)と伝わる)しており、甲賀谷氏の日蓮宗への信仰の篤さと忠誠心を知る事ができます。

「甲賀谷」という名字、「正長」という諱は何か摂津国池田郷と関係しているように感じます。また、この長遠寺は、荒木村重とも関係が深いお寺でもあります。
 という事からしても、甲賀谷夫妻と摂津池田は、浅からぬ縁があるように思うのですが、今のところその確定的な資料もありませんが、以下、筆者がそのように感じる根拠としての史料をご紹介しておきたいと思います。下記は、長遠寺についての資料です。
※兵庫県の地名1(平凡社)P446

(資料1)-----------------------
甲賀谷正長夫妻の墓
【長遠寺】
江戸時代の寺町の西部にある。日蓮宗。大尭山と号し、本尊は題目宝塔・釈迦如来・多宝如来。元和3年(1617)尼崎城築城計画のため移転させられるまでは、風呂辻町辰巳市場にあった(尼崎市史)。寺蔵の宝永2年(1705)の大尭山縁起によれば、観応元年(1350)に日恩の開基とされ、かつては七堂伽藍を備え子院16坊を数えたという。歴代住持のうち5世日了が、本山12世となるなど、京都本圀寺末の有力寺院の一つであった。
 開基の地については七ッ松で、のちに尼崎に移転したとする寺伝がある。永禄12年(1569)3月の織田信長の軍勢による尼崎4町の焼き討ちの際には、当寺と如来院だけが戦火を免れたという(細川両家記)。当時は「尼崎内市場巽」に所在しており、元亀3年(1572)に信長は、同地での当寺建立に際して、陣取りや矢銭・兵粮米賦課などの禁止を命じている(同年3月日「織田信長禁制」長遠寺文書)。
甲賀谷正長の墓の説明碑
さらに天正2年(1574)には荒木村重が、信長とほぼ同内容の禁制を与えているが(同年3月日「荒木村重禁制」同文書)、禁制の冒頭には「摂州尼崎巽市場法花寺内長遠寺建立付条々」とあり、伽藍造営だけではなく、当寺を中心とする地内町の建設工事であったことを示している。村重はさらに巽(辰巳)・市庭の年寄中に対して堀構のことを申し付けるとともに(3月15日「荒木村重書状」同文書)、尼崎惣中に対して当寺普請を油断なく沙汰するよう指示しているほか(4月3日「荒木村重書状」同文書)、貴布禰社などの諸職の進退や公事・諸物成の納入、諸役諸座などの免除、守護使不入等について定めた寺院式目条々を当寺に付与している(天正2年3月日「荒木村重定書」同文書)。同16年には勅願道場となった(同年3月25日「後陽成天皇綸旨」同文書)。
 江戸時代には長洲貴船大明神宮(現貴布禰神社)の神職も兼ねており、毎年1月7日礼祭神事を執行した(尼崎志)。境内に祖師堂・妙見堂・護法堂と僧院三房があった。
 本妙院は観応元年創立、宝泉院は文亀元年(1501)創立。開基不詳。中正院(現存)は明徳年中(1390-94)創立、開基不詳(明治12年調寺院明細帳)。慶長3年(1598)建立の本堂(付棟札2枚)と同12年建立の多宝塔(付棟札5枚)は、国指定重要文化財。鐘楼・客殿・庫裏は、県指定文化財であったが、平成7年(1995)の兵庫県南部地震のために全てが破損した。一石五輪塔として天正3年10月10日、慶長13年(基礎)・同14年銘のもの、同13年4月8日銘の石灯籠がある。
-----------------------(資料1おわり)

それから、同寺がどういう立地環境にあったのか、中世の尼崎の様子を復元している研究がありますので、抜粋してご紹介します。
※地域史研究(尼崎市立地域研究史料館紀要 -第111号-):中世都市尼崎の空間構造(藤本誉博氏)より

(資料2)--------------------
16世紀の尼崎(推定復元図):図4
3. 一六世紀の様相
(前略)
尼崎惣社である貴布祢神社(★せ)は、当該期には本興寺の西、近世尼崎城の西三の丸に立地していた。本興寺の西門前は、尼崎城建設の際に城下町へ移転したが、その町は「宮町」と呼称されていた。宮町とは貴布祢神社の門前に由来すると考えられる。貴布祢神社の門前と本興寺の西門前とが重なる立地になっており、貴布祢神社と本興寺は、ほぼ隣接する位置関係であった。本興寺は貴布祢神社の領域に寺領を広げる動きを見せていた。貴布祢神社の宮町が本興寺の門前に組み込まれた契機は、先述の本興寺による尼崎惣中への資金援助であった可能性もあろう。
 また、本興寺と同じ法華宗である長遠寺(○17)は、市庭の南東に立地し、三好氏の後に畿内に勢力を伸ばした織田権力を背景に寺内を構えた。おそらく、市庭や辰巳に挟まれた比較的開発の遅れていた所に寺地が設定されたのであろう。また、信長の配下の荒木村重は長遠寺に総社貴布祢神社の祭礼諸職を進退するよう定めている。これら三好氏、織田氏の動向を鑑みると、当該期の武家権力は、法華宗の特定の寺院を媒介して尼崎への関与を強める支配方式をとっていたと考えられる
(中略)
当該期は真宗や法華宗の勢力が拡大し、寺院の増加や寺内を構える動向が確認できた。また、法華宗寺院を介した武家権力の尼崎支配の動きも確認できる。
(中略)
長遠寺の寺内は先行して発展していた市庭・辰巳・別所の町場からはずれ、開発が遅れていたであろう場所に建設されている。
 長遠寺建設に際しては、信長(村重)権力は市庭や辰巳の「年寄中」や「尼崎惣中」に建設の指示を出しているが、これらの共同体は個々の地区、あるいは尼崎全体といった地縁的な領域で結成されていた組織であろう。これまでの考察で、尼崎の都市空間は特定の寺院に依拠して成立したのではなく、立地性や交通・流通の様相に依拠して形成されてきた側面が大きいことを指摘してきた。これらの地縁的共同体は、個々の寺院に依拠しない尼崎の都市空間を基盤にしたと考えられる
(後略)
--------------------(資料2おわり)

長遠寺は尼崎に古くからあったものの、中心部に移るにあたっては、荒木村重(織田信長政権)の支援を受けつつ実現した背景もあったようです。やや直接的とは言い難いところもありますが、この点から見ても、やはり縁としては、荒木村重を介して摂津池田とも浅からず繫がっていると言えます。
 そしてその甲賀谷という名字ですが、池田城下に「甲賀谷(甲ヶ谷):こかだに」と呼ばれた集落が古くからありますので、それについての資料をご紹介します。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料3)--------------------
【甲賀谷町(現池田市城山町)】
東本町の北裏側にあり、町の東側は池田城跡のある城山。西は米屋町。能勢街道より離れているため商人は少なかった。元禄10年(1697)池田村絵図(伊居太神社蔵)には大工5・樽屋1・日用9・糸引1・医師1・職業無記載36がみえる。酒造業が集中している東本町に近接することから大工・樽屋などの職人は酒造に関係したものと思われる。
--------------------(資料3おわり)

ちなみに、甲ヶ谷町についての言い伝えでは、「甲賀」から移り住んだ人々の町と伝わっているようで、「子どもの頃からそう言われてきた」と、古老にお話しを伺いました。私がそれを聞いたのは、西暦2000年前後だったと思います。
 また、甲賀谷町の北西500メートル程のところに、長遠寺と同じ日蓮宗本養寺があり、こちらも参考としてあげておきます。同寺も京都本圀寺の関係を持ちます。
※大阪府の地名1(平凡社)P316

(資料4)--------------------
【本養寺(現池田市綾羽2丁目)】
日蓮宗。瑞光山と号し、本尊は十界大曼荼羅。応永年中(1394-1428)の創建と伝え、寺蔵の近衛様御殿御由緒によると、関白近衛道嗣の子で、京都本圀寺の第5世日伝の嫡弟玉洞妙院日秀の創建という。当寺諸記録によると、室町時代には「近衛様御寺」とよばれ、江戸時代には6代将軍徳川家宣の御台所煕子(天英院)が、近衛基煕の女であることから、将軍家より寺領が寄進され、また煕子の妹功徳池院脩子を妃とした閑院宮直仁親王からも上田一反余を寄進されている。
 元禄4年(1691)から同8年にかけて檀越大和屋一統の援助により再建された。現在の堂宇はその時のもの。本堂安置の応永8年銘の日蓮像は、後小松天皇の帰依があったという。境内に日蓮が鎌倉松葉谷で開眼供養をしたと伝える鬼子母神を祀る鬼子母神堂、大和屋一族で酒造家西大和屋の主人でもあり、安政2年(1855)に「山陵考略」を著した山川正宣の墓がある。
 なお、当寺は「呉春の寺」と俗称されるが、天明2年(1782)文人画家で池田画壇に大きな影響を与えた四条派祖松村月渓が寄寓、呉羽の里で春を迎えた事により、呉春と改名した事に由来する。
--------------------(資料4おわり)

資料4の文中に、「近衛様御寺」との記述がありますが、荒木村重が台頭する前に、摂津国池田で勢力を誇った池田氏の本姓は「藤原」でしたので、藤原氏の筆頭の近衛家とは親密で、活動の基本をやはり「藤原家」の因縁に置いていたと言えます。
 それから、戦国時代頃の伝承記録として、先にご紹介した「甲賀谷町」に「甲賀伊賀守」なる人物が、家老として池田城下に居住していたとあります。
※北摂池田 -町並調査報告書-(池田市教育委員会 1979年3月発行)P31(『穴織宮拾要記 末』)

(資料5)--------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云、右五人之家老町ニ住ス。
※■=欠字
--------------------(資料5おわり)

なお、甲賀谷氏の直接的な史料は見当たらず、最も原典的と思われる『穴織宮拾要記』でも、伝承資料という資料環境ではありますが、甲賀谷正長が、池田郷と関係を持っていたであろう必然性は、記述の資料群からしても非常に高いのではないかと感じています。

昭和初期の甲ヶ谷周辺の記憶復元図
それからまた、戦国時代の池田城下に「甲賀伊賀守」と思しき人物が居たとされる伝承について、家老という立場であるからには、身分の高い人物と思われ、池田家中の政治にも主要な役割りを担っていたと考えられます。
 池田家の人々は、代々「正」を通字として用い、「長」も通字として使用している人物が多く見られます。加えて、池田郷は江戸時代になると、元々あった地場産業の酒造や花卉栽培業、それから、地の利を活かして、炭などを扱う問屋が集中する商業都市に成長します。
 戦国時代に兵火で荒れ果てた郷土の復興のために、没落した池田氏も重要な役割を担っていました。先ず、旧地の回復のために、池田知正や実弟光重が尽力している様子が記述されています。これまでに池田家が領有していた地域に、祭事を復活させて神輿を繰り出し、地域住民に知らしめようとしたり、郡など境界にある社寺に寄進や奉納物を納めたりして、旧地回復につなげようとする動きを続けていました。
 しかし、皮肉なことに池田は、軍事的にも、商業的にも重要な立地にあったため、徳川幕府では、直轄地として統治する方針が打ち出されて、池田家の復興を阻みました。そのため、池田知正などの後継者による、池田家の旧地復活の目論見は果たせずに終わりました。

しかし一方で、池田氏による地域統治の復古は上位権力から否定されましたが、それに代わって、商業の振興は盛大となって、経済的な復興は遂げていきます。
 ある意味、江戸時代ともなれば、流通経済(商業)ですので、流通拠点との関係づくりが必要になります。池田から大坂を始めとした諸都市へ出荷・流通させるためには、尼崎という海への出入口は、重要な位置付けとなります。
 池田にとって、江戸時代という新たな時代を迎えるにあたり、刀を算盤に持ち替えて、時代を切り拓いた人々も多くありました。その一人が甲賀谷正長であり、家業を興し、財を成したのかもしれません。
 
尼崎市の担当部署に、この甲賀谷正長の事を尋ねてみたのですが、今のところ手がかりは得られませんでしたが、これらの事を伝え、情報があればご教示いただけるよう、お願いしている次第です。今後、何か判明した事があれば、また皆さんにお伝えしたいと思います。


追記:甲賀谷又左衛門尉正長について、詳しく調べてみました。以下の参考記事をご覧下さい。

◎参考記事:此花区伝法にある正蓮寺創建に関わった甲賀谷氏についての考察


2016年10月4日火曜日

近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)

浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺
筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。
 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内します。
※大阪府の地名2 P968

(資料1)-----------------------
◎西光寺(東大阪市吉原)
浄土真宗本願寺派、山号霊松山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると永正5年(1508)正善は、俗名を佐々木(大原)重綱といい、江州佐々木氏の一族で、文明年中(1469-87)戦乱を避け当地に移住。久宝寺村(現八尾市)にいた蓮如に帰依して出家し、今米村の中氏の援助で当地に道場を創設したという。もとの山号は好月山という。現寺号となったのは正保4年(1647)。当寺の住持藤井氏は豊臣方の武将木村重成の縁者で、重成も幼少の頃から当寺に出入りしている。その子、門十郎は藤井家の養子となり、代々当地一帯の六郷庄の大庄屋を務めた(大阪府全志)。
-----------------------(資料1終わり)

それから、西光寺で直接お聞きしたところによると、佐々木氏が河内国内に入国したキッカケは、福万寺城への入城だったらしいとの事です。それについて、その伝承を裏付ける資料があるので、ご紹介します。
※日本城郭全集9 P143

(資料2)-----------------------
◎福万寺城(八尾市福万寺町)
福万寺の三十八(みとは)神社の境内が城址である。文和年間(1352-55)、近江守護佐々木氏の一族の佐々木二郎盛恵が居城した。その後、廃城となり、その後に三十八神社を建てた。(吉田 勝)
-----------------------(資料2終わり)

この福万寺城は、発掘などがされておらず不詳ですが、福万寺地域には慥かに伝承が残るようです。そしてこの城は、その名の通り福万寺村にあり、その村については以下のようにあります。
※大阪府の地名2 P1015

(資料3)-----------------------
◎福万寺村
河内郡に属する。玉串川沿いの若江郡山本新田の東にあり、村の北半は東方恩地川まで、南半は恩地川を越えて更に東方に延びる。耕地は碁盤目状の区画を持ち、古代条里制の遺構とみられる。十三街道が通る。村名となった福万寺は、いつ頃の寺で、いつまであったか不明。
 「河内志」は古跡として廃福万寺をあげる。産土神の三十八神社の地は、鎌倉時代に佐々木盛綱の孫佐々木二郎盛恵の拠った福万寺城跡と伝える
 村高は、正保郷帳の写と見られる河内国一国村高控帳で1,184石余り。文禄3年(1594)12月、村高のうち52石余りが北条氏規領となり(北条家文書)、以後狭山藩北条領として幕末に至る。残りは寛永11年(1634)大坂町奉行曽我古祐領となり、曽我領として幕末に至る。曽我氏の陣屋は当村にあった。
-----------------------(資料3終わり)

福万寺城及び福万寺村にある資料と西光寺の項目内容とは、人物名や時代が異なっていますが、近江国佐々木氏は、鎌倉から室町時代にかけて大きな勢力を持つに至ります。
【参考サイト】
河内福万寺城(お城の旅日記)
福万寺城跡(兵どもが夢の跡)

それから、それを裏付けると思われるもう一つの資料をご紹介します。河内郡の隣りの若江郡に、若江城があったのですが、この城にも佐々木氏に関する伝承があります。
※日本城郭大系12 P109

(資料4)-----------------------
◎若江城(東大阪市若江本町)
若江城の名が歴史上記録された時期は、大きく二つの時期に分けられる。最初は創築者畠山氏の時代、第二の時期は天文(1532-55)から天正(1573-92)年間である。
 若江城は、高屋城を本拠とする河内守護畠山氏が築城し、代々守護代遊佐氏を置いて領国守護にあたらせた城であった。創築年代は明確ではないが、南北朝争乱のようやくおさまった、明徳・応永年間の早い時期、畠山基国の時と推定されている。
(中略)
天文初年、若江城は近江守護佐々木六角氏麾下の若江下野守兼俊の居城であった。天文6年、若江兼俊は佐々木氏に背き、大軍によって当城を包囲された。このため、兼俊およびその父円休は、降伏開城し、高野山に追放された。跡には堀江河内守時秀が城主として配された。その後城主は、若江河内守実高(天文11年頃)、若江下野守行綱(同21年6月没)、堀江河内守実達(弘治3年(1557)6月没)、山田豊後守定兼(永禄4年(1561)9月没)と替わった。この山田定兼は、近江・河内両国で5,000貫を領していたという。
(後略)
-----------------------(資料4終わり)

ちなみに、福万寺城は若江城に近く、郡毎にあった城の時代に敵対したり、はたまた、何か連携するような関係にあったかもしれません。そして福万寺の北東方向には、池島城跡もあります。
 また、上記の「資料4」にある、天文初年頃、本願寺の当主などの日記『証如上人日記』『私心記』にもやはり近江国佐々木氏関連の記事が多く見られます。この当時、本願寺教団の本拠地は、今の大阪城と同じ場所にあり、その当主がが佐々木氏を重要人物の動きとして日記に書き残しています。佐々木氏とその関係者が、大坂や近隣に来たり、直接音信したりもしています。

それから、歴史の専門機関などへ聞いてみると、河内地域には近江国にゆかりを持つ場合も少なからずようです。しかし、この西光寺のそれについては未知だったとの事でした。
 いずれにしても、伝承というのは割と正確な方向性を持っていると感じているのが、個人的な経験です。根も葉もない、捏造的なものは殆ど出会った事がありません。日本人は昔から正直だったのです。

さて、西光寺と佐々木氏についてですが、そのキッカケとなった福万寺城は、八尾市域にあり、西光寺は東大阪市内にあります。その現代の行政界が、真相に近づくための感覚を益々阻んでいるところがあります。これについて、現在の東大阪市になる前の旧河内市の変遷過程の歴史をご紹介します。
※大阪府の地名2 P967

(資料5)-----------------------
◎旧河内市地区
東大阪市域のうち主に玉串川流域を占め、律令制以来の河内郡の西部と若江郡の北東部にあたる。河内市は昭和42年(1967)枚岡市・布施市と合併して東大阪市となった。中央部を玉串川が北西流し、近鉄奈良線が東西に通る。
 古代には河内湖の入江が広がり、朝廷に供御の魚類を貢進する「河内国江厨」が設けられた。平安時代にはこれに代わって大江御厨が設置され、中世には水走氏が在地領主として御厨一帯に勢力を伸張、室町時代には年貢物の流通にも関係して活躍した
 近世には、宝永元年(1704)の大和川付け替えにより水量の減少した玉串川、分流の菱江川・吉田川の川床、新開池に新田が開発された。
 明治22年(1889)の町村制施行により、河内郡東六郷村・英田村・三野郷村、若江郡若江村・玉川村・西六郷村・北江村が成立。同29年中河内郡の成立により同郡に所属。
 昭和6年東西の六郷村と北江村が合併して盾津村が成立し、同18年町制施行。同年玉川村が町制施行。同30年この2町3村が合併して河内市が成立。同年境界変更で福万寺・上之島(明治22年成立の三野郷村の一部)が八尾市に編入された
-----------------------(資料5終わり)

この行政界の変遷を見ると、昭和30年(1955)に福万寺地域は八尾市に編入されていて、それまで何千年と河内郡にあって、同郷的な感覚を維持してきた吉原村と福万寺村は、はじめて分断されたともいえるのです。今でも市や村が違えば、そこに住む人々の帰属意識は大きく違いますが、時を遡る程、やはり大きく違います。
 ですので、吉原村内の西光寺の創建と福万寺村内の福万寺城に、佐々木氏が関わっているのは、必然性の高い理由があると考えられる訳です。多分、佐々木氏が河内国河内郡を領知(地)した事による入郡であったのだろうと考えられます。
西光寺内の灯篭にある「平四ツ目結」紋
また、西光寺を訪ねてみると、寺紋は「平四ツ目結」で、近江佐々木六角氏と同じです。これもまた、伝承を裏付ける有力な要素です。
 それから、お寺の建物を見ると、少し違和感があります。浄土真宗系のお寺とは屋根の形状が違うのです。お寺の方のお話しによると、同寺は天台宗から改宗しており、屋根の形状は、その経緯を語るもの、との事です。
 元の山号は「好月山」で、現寺号となったのは、正保4年(1647)と伝わっている事から、その時に改宗があったのかもしれません。ただ、現在の本堂の屋根の形状との関係がどういう経緯があるのかは不明です。本堂の建設は、その後のような感じもしますし...。
追伸:西光寺は大和川付け替え事業の中心人物であった今米村の中氏とのつながりが深いお寺でもあり、その付け替え工事の関係で亡くなった方々も中氏がこのお寺で供養したとの事です。

さて、天台宗といえば、比叡山ですので、やはり近江国佐々木氏とのつながりを感じさせます。詳しい事は不明ですが、時代によっての変遷が、文字に尽くされていないところがあるようです。
 色々な地域の歴史を見ていると、村全体が改宗する事により、その村にあるお寺も変わります。こういった事例が時々あります。吉原村の西光寺もそのような事があったのでしょう。

それにしても、河内国に根付いた近江国の名族佐々木氏一派の歴史が今も残るというのは、大変興味深いです。

【追伸】
福万寺城跡と伝わる、現在の八尾市福万寺にある、三十八神社です。このあたりは微高地で、西側に玉串川に隣接しています。また、俊徳街道と十三街道が玉串川を渡ってスグ、集落で合流(現福万寺公民館南西角)し、東進します。寺内町・環濠集落である有力集落「萱振(かやふり)」へも通じています。勿論、玉串川は水運の用を成しており、交通の要衝でもありました。川湊的な要素もあったでしょう。
 ちなみに、現在の玉串川は、いわゆる水尾川で、新大和川開削によって干上がった後の現象で、川の底の最小限の流れで、後年にこれを農業用に灌漑したようです。玉串川の川幅は広く、
 さて、こちらの三十八神社は清掃が行き届き、大変気持ちの良い場所です。地域の方々に大切にされていることが、訪れるとわかります。また、この付近は条里制の痕跡が今も残り、生駒山脈を間近に見ながら、畑や田んぼを眺めると、古の空間に浸る事のできる貴重な場所たと思います。
 
 
三十八神社

玉串川堤道(北方を望む)


2016年10月1日土曜日

戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)

筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。
 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地です。神社の本殿に残されていた古文書により、天文元年(1532)に人々が移ってきた事が伝えられています。
 それは戦国時代です。神社と村の由来が、東大阪市(教育委員会)により案内されていましたので、ご紹介します。
 
(資料1)-------------
諏訪神社は、本殿内に残されていた古文書によって、天文元年(1532)信濃国諏原(すはら)之庄の住人諏訪連(すわのむらじ)の子孫らが当地に村を開き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三柱を勧請したとされています。
 現在はその中で諏訪大明神をまつる一社だけが残され、覆屋の中に大切に保存されています。この本殿は一間社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎(もや)の四周には写実的な花鳥彫刻をもつ蟇股(かえるまた)をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在するという特色を持っています。
 この本殿は、海老虹梁に江戸時代の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものと見られる事などから、室町時代に建立されたのち、江戸初期に大改修が行われたと考えられますが、建立年代が明らかで、市内に現存する最古の建築であるとともに、中新開の歴史を伝える貴重な記念物であることから、昭和49年(1974)3月25日に市の文化財(建造物)に指定されました。
平成16年3月 東大阪市
-------------(資料1終わり)

東大阪市中新開にある諏訪神社
秋になると祭りがあり、周辺各村(集落)から「地車(だんじり)」が繰り出し、賑やかに祝いますが、中新開村からももちろん地車が出されます。やはり由来が信州という事もあってか、その衣装が少し違います。浴衣のような衣装で、近隣の村とは一線を画す文化があります。
 さて、河内国の中部は、江戸時代中期に行われた大和川付け替え工事で、それまでとは大きく地形が異なります。
 現在出回っている大和川付け替え以前の地形をある程度精密に描いた地図がないかと色々探してみましたが、細かなところは省略してあるものが多く、復元レベルの地図は未だにありません。ですので、大和川の付け替えが完了した、宝永元年(1704)以前から存在する村を頼りに地形から推定して、細かな部分を再現させるしかありません。
 そういう意味では、中新開村の歴史というのはとても参考になります。大和川が開かれる172年前に、信州から今の中新開地域へ人々が移ってきているのですから、ここはその頃も陸地だった事が判明します。
 以下、『大阪府の地名2(平凡社)』東大阪市の項目から中新開村に関する記述を抜粋してみます。

(資料2)-------------
◎中新開村
河内郡に属し、吉原村の南にある。大和川付け替えまでは東方を吉田川、西方を菱江川が流れ、両川の氾濫原に立地したため、低湿地が多かった。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高215石余、幕府領、小物成として葭年貢銀7匁2分。寛文2年(1662)からは大坂城代青山宗俊領があり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大坂城代太田資次領で215石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同じ。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で218石余。慶応元年(1865)より京都守護職領(役知)、文政8年(1825)には菜種1.7石を芝村に売っている(額田家文書)。

◎新開庄
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これを受けた河内国守護細川顕氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
-------------(資料2終わり)

それから、この中新開村が属していた河内郡についての資料を以下にあげてみます。出典は、中新開村と同じです。

(資料3)-------------
◎河内郡
「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良(さらら)郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野池などの湖沼・湿地が存在し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しき■(呂?)かも」とある日下江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串川(吉田川)が若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)と八尾市の一部。

【古代】
(略)「大阪府の地名2」の「河内郡」の項目をご覧下さい。

【中世】
大江御厨に関係し、当地方の代表的中世領主として活躍するのが水走(みずはや)氏である。水走氏は平安時代末頃、当郡域の水走(現東大阪市)を開発した季忠を祖とし、当郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、当郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに、枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、当郡一帯を支配した。源平争乱時には当主康忠は鎌倉御家人となり本領を安堵されている。
 また日下(草香)を本拠地とする武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わっている。鎌倉時代郡内に奈良興福寺領法通寺庄(現東大阪市)、高野山金剛三昧院領新開庄があり、南北朝期には足代庄(現東大阪市・生野区)も史料に登場する。
 新開庄は弘元の乱の功によって、一時楠木正成の所領となったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、祈祷料所として京都東寺に寄進された。しかしその後も楠木氏の本拠に近い当郡には南朝の勢力が及び、正平5年(1350)北畠親房は足代庄を教興寺(現八尾市)の祈祷料所としている。
 延文4年(1359)新将軍足利義詮が南朝方に侵攻した時、南朝軍の水走氏らは北朝軍に降伏、続く南朝軍の反撃では、河内守護代椙原入道が水走の城に籠もって戦った。
 このように当郡は南北朝両勢力拮抗の地域として度々戦場となった。室町時代から戦国時代にかけても戦乱の場となる事が多かったが、これは隣接する若江郡の若江城(現東大阪市)が、河内守護所として河内の政治的中心地であったことによる。

【近世】
豊臣秀吉によついわゆる太閤検地は、文禄3年(1594)に行われ、同年の日付を有する日下村・横小路村などの検地帳が伝わる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳によれば、当郡は21村・石高14,616石5斗5升、うち田方17,013石2斗4升1合・畑方3,872石4斗3升6合、山・葭年貢高30石9斗3合、ほかに小物成として山年貢銀787匁4分4厘・山年貢米8石8斗6升・葭年貢銀192匁3分・「作相」麦41石4斗・枚岡明神領京銭20貫文。
 同控帳によると所領構成は、幕府領6,117石余・大坂町奉行曽我古祐領4,016石余・大和小泉藩片桐領2,039石余・旗本石河勝政領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が多い。元禄郷帳によれば26村・15,229石余。
 宝永元年(1704)秋に大和川の付け替えが終わると、翌2年から深野池の池床や大和川諸流の川床・堤敷などの干拓・開墾が始まり、当郡内にも河内屋南新田・川中新田(現東大阪市)が成立、これらは幕府領に組み入れられた。元文2年(1737)の河内国高帳では、25村・高約16,025石。内訳は幕府領約7,724石・小泉藩領約1,868石・旗本石川領1,000石・旗本彦坂領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が散在。天保郷帳では29村・高16,077石5斗。

【近代】
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。
 同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村・東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。
 同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
-------------(資料3終わり)

それらの要素の関係性から、中新開村付近を流れていた流域を推定してみると以下のようになるのではないかと思います。
 ただし、どうも、時代による自然環境の違いで水際の位置が変わったり、小規模な開発などで、いくつかの段階があるようです。図は、大和川付け替え後に行われた大規模な開発の領域と、それ以前の水際を分けてあります。大和川付け替え以前の開発は、明確な資料無く、個人推定です。
<図の変化概要>
初期の新田開発(紫色)→ 大和川付け替え後の開発(青色)→ 現代の地図 → 中世の水際推定

明治後期から現在の地図へ変化(紫色は最も早い開発)

大和川付け替え後の新田開発については、詳しく判っていますので、判断に迷う事はありません。しかし今のところ、それ以前の開発と思われる川田村のあたりがよく判らず、水際が読めていません。この川田村のあたりからもう少し東側に水が入り込んで、水際が東にあった可能性もあります。
 また、地図の右上にある「加納村」は、西加納、下加納と分かれていて、川田村は後年に独立したのかもしれません。それと、加納村は、地形的に素直に区分けするなら河内郡になろうかと思いますが、若江郡に所属しています。
 吉原村あたりの水際と湿地が加納村との境を分断するような環境であったため、そのような郡境であったのだろうと思います。もしかすると加納村は島のようになっていたのかもしれません。
 現在の栗原神社(式内社で鎮座地は動いてないらしい)付近から東側は、殆ど平坦地で、新開池と考えられる地域と海抜もほぼ同じです。ここには府道168号線が通りますが、その道を東方向に進むと「今米2丁目交差点」あたりから「川中北口交差点」にかけて、緩やかに地形が高くなり、「焼肉いちばん」のあたりでピークになっています。そこから更に東に進むと若干、下りつつ、300メートルほど先に恩智川があります。
 ただ、新開池や深野池へ流れ込む川は、天井川が多く、周囲より2〜3メートル程高くなっているようで、海抜が低いから川の跡という訳でもないところがあるようで、そこは判断が難しいところです。

大和川付け替え後の新田開発図
さて、そういう現在の状況も鑑みると、吉原村から東側は新開池からの水が入り込み、池状、または湿地になっていたのではないかと思われます。
 なおかつ、その高さより高い位置に川筋がある、恩智川が氾濫すると西側へ流れ込んで来るような環境にあったのではないかと思います。
 少し、参考に中野村についての解説をご紹介しておきます。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

(資料4)-------------
 若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」の字形で、自然堤防上に位置する。この事から考えて、かつて横枕西方を流れる菱江川から分かれて、新開池に流入する川があり、当村はその川床を開発して成立した可能性がある
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では、高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。
 元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14年(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免二ツ六分八厘。家数60・寺1、人数324。余業は、男は木綿糸・日用稼ぎ、女は木綿稼ぎ。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
【追伸:東大阪市公式サイト「歴史散策:C地区:荒本〜吉田」
中野村の日吉神社は、江戸時代以前には現在の高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと大山咋命(おおやまくいのみこと)をまつっています。安産の御守札を出していて、村中で難産する人はなかったということです。
-------------(資料4終わり)

『大阪府の地名』でも、上記の地図の紫色部分に川があった可能性を示唆しています。やはり自然地形として、ここに川があっために、若江郡と河内郡との境にしたと考える方が自然だと思います。
 また、想像を少し逞しくすると、地形の高低差はそれほど極端ではありませんので、この川は浅く、葦や葭が生い茂る湿地のような感じだったかもしれません。
 
それから、常に移動を必要とする現代生活からは、このような環境は不便に思えますが、戦国時代には寧ろ、その逆の感覚で、外敵を寄せ付けない環境を村の周囲に持つ方が、財産や村の防御の面で、都合が良かったのです。また、水辺や湿地から受ける自然の恩恵は、生活を支えるためには好都合でもあったのです。もちろん、水辺は舟での交通や輸送という意味では、それも村にとっては恩恵といえる要素です。ただ、水害は困りますよね。
【出典】大和川付け替え後の新田開発図:国史跡・重要文化財 鴻池新田会所HPより

筆者は特に戦国時代の後期の五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉国)周辺を専門にしていますので、そのあたりの時代に興味があります。その当時の河内中部地域の地形についても調べています。
【参考サイト】
付け替えられた大和川
300年、人・ゆめ・未来 大和川
国史跡・重要文化財 鴻池新田会所

今も旧集落地域を歩くと、興味深い立地や水害への備えが家の造りから解ります。地形そのものやそういった歴史的な痕跡が手がかりとなって、川の跡が判ったりするのも感慨深いです。
 それから、これらの川が境になって郡が分かれてもいます。菱江川の東が河内郡で、西側は若江郡です。戦国時代には、郡が違うと領主も違うので、共有している利益・利害も違ったりします。そういう何か、川を挟んで睨み合うような、不幸な出来事も長い歴史の中で何度かあったかもしれません。

今年放映されている「真田丸」の時代にも河内国はこういう状況にありました。地図の下(南側)にある 暗峠奈良街道は、大坂の陣の合戦でも徳川家康が通った道です。また、大坂城の攻防戦では、若江郡も戦場になって、合戦が行われていますので、隣接する河内郡も巻き込まれたものと思われます。

2016年9月17日土曜日

摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(細河庄内の東山村と武将山脇氏について)

摂津国豊嶋郡細河郷内の東山村(現大阪府池田市)は、室町時代の応仁・文明の乱以降、成長し始めた池田家にとって、次第に政治・軍事面においても重要な関係に深化します。その東山村からは、山脇氏が頭角を現し、池田氏と姻戚関係も結び、池田一族として家政の一翼を担っていきます。
 また、その拠点としての池田城を守るための防御構成も年々強固なものに成長させていきます。同時に、政治・経済的な支配も拡がり、その意味でも五月山と細河郷、そして東山村は、大変重要な位置付けともなります。
 そうなると、自然と城郭化していくものと思われますが、今のところ、公式に城郭に関する調査もされていませんので、想像の域を脱する事はありませんが、全く無かったとは言えない資料も断片的に見出せます。そういった可能性もご紹介できればと思います。

そして、摂津国内の最大勢力を誇った池田家も内紛を繰り返し、遂には解体となりますが、その池田家を継ぐ事になったのが山脇系池田氏であり、池田家の歴史を見る上でも、この東山村の歴史を掘り下げておく事は重要です。
 今ある資料や筆者の見聞きした事など、ひとまずそれらを包括的にまとめ、今後の研究に繋げていきたと思います。

<概要>
先ず始めに、他の項目と重複しますが、現在既に論説されている東山村とそれに関する寺社を示してみたいと思います。なお、東山村が含まれるより大きな地域単位としての細河郷(細川庄)については、先に公開しました当ブログの「摂津国豊嶋郡細河郷と戦国時代の池田(摂津国豊嶋郡細河庄(郷)とその村々及び社寺)」をご覧下さい。

◎ご注意とお願い:
 『改訂版 池田歴史探訪』については、著者様に了解を得て掲載をしておりますが、『池田市内の寺院・寺社摘記』については、作者が不明で連絡できておりません。また、『大阪府の地名(日本歴史地名大系28)』や『日本城郭大系』などは、 引用元明記を以て申請に代えさせていただいていますが、不都合はお知らせいただければ、削除などの対応を致します。
 ただ、近年、文化財の消滅のスピードが非常に早く、この先も益々早くなる傾向となる事が想定されます。少しでも身近な文化財への理解につながればと、この一連の研究コラムを企画した次第です。この趣旨にどうかご賛同いただき、格別な配慮をお願いいたしたく思います。しかし、法は法ですから、ご指摘いただければ従います。どうぞ宜しくお願いいたします。
 
各項目の出典は、○○(県名)の地名【地名】、新修池田市史(○巻)は【新市史○巻】、池田町史(第一篇:風物誌)が【池田町史】、その他【書名】、自己調査【俺】としておきます。

(資料1)-------------
◎東山村(池田市東山町)
東山村の見取図(新修池田市史より)
中河原村の北東にあり、細郷の一村。村の西部を久安寺川が南西流し、ほぼ並行して余野道(摂丹街道)が通る。村域の東部は五月山に連なる山地で、西部に耕地が広がる。
 慶長10年(1605)摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳では、細郷1745石余の幕府領長谷川忠兵衛預に含まれる。以後幕末まで幕府領として続く。
 村高は寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳によると541石余。植木栽培が盛んであった。曹洞宗東禅寺は、行基創建伝承をもち、慶長9年、僧東光の再興という。真宗大谷派円成寺は、天文14年(1545)西念の創建という。【地名:東山村】

◎真宗 東本願寺末 返照山 円城寺(池田市東山町)
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とする。天文14年(1545)4月西念の創立なり。慶応4(1868)1月29日、火災に罹り焼失し、明治元年住職知成檀家と協力して、之を再建せり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:円城寺】
  • 細河谷と呼ばれ、久安寺川の両側に広がる一帯の植木の郷の起源は、350年から400年に遡る正保年間(1644-48)及び更に天文年間(1532-55)にも至ると言われています。
     その東北山側に東山(町)があります。日照時間の短い湿度と日陰と赤土を生かした「東山の鉢挿」は、有名なサツキ・ツツジの特産地として知られています。(サツキツツジは池田の市花となっています。)この様な集落の佇まいに、円城寺の古寺がひっそりと歴史を刻んでいます。
     東山バス停の地蔵堂を過ぎ、しばらくして右折れし、なだらかな山麓の坂道を数分登ると左手に石垣を巡らせた円城寺があります。その裏手には、同寺の経営される細河保育園があって、元気な子ども達が寂しさを和らげてくれます。
     円城寺の開創は天文14年(1545)、僧西念によると伝えられます。当主(住職)は17代目となるので、少なくとも500年以上になる寺です。しかし残念な事に、明治元年、この寺に仮寓していた乞食の失火によって堂宇全てが焼失し、貴重な文書・遺物が失われてしまいました。けれども本尊の阿弥陀仏と仏画は辛うじて持ち出され、現在拝むことができます。
     本尊・仏画はよく修復されて、仮本堂ながらも立派に祀られています。秘められた歴史の遺品として、まだまだ調査の必要な寺院です。特に本尊の台座は、他に見られない重厚な造りとなっています。【改訂版 池田歴史探訪:円城寺】
  • 東山字森の下にあり、返照山と号し、真宗東本願寺末である。天文14年僧西念の創立なりと伝へらる。【池田町史:円城寺】

◎曹洞宗 大広寺末 瑠璃光山 東禅寺(池田市東山町)
  • 字上条にあり。瑠璃光山と号し、池田町(市)曹洞宗大広寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とする。僧正行基の創建に係り、紫雲寺と号せしが後、屢々兵燹(へいせん)に罹りて廃絶せしを、慶長9年(1604)2月、僧東光、其の旧蹟に一草庵を結びて再興し、今の寺名に改む。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:東禅寺】
  • 東禅寺へは少々体力が必要です。円城寺から上へ右手(南へ)にとると、少し下って薬師堂のある広場に出ます。ここから左手(山手)を更に集落の急な坂道を登りつめた台場にひっそりと古寺が佇みます。
     当寺の開創は、慶長9年(1604)、僧「東光」と伝えられます。また、元「紫雲寺」で、行基菩薩の開創とも伝えられています。現在の建物は古いものではありませんが、今の住職が中興の祖から7世にあたりますので、開創からは20世にもなり、400年を越える歴史のある古寺と言えます。本堂の釈迦如来のほかに、この寺の宝物は観音堂に安置されている四躯の仏像です。何れも池田市重要文化財として指定されています。(中略)。
     本堂の鬼瓦に揚羽蝶が見られますので、織田氏・尾張池田氏との関わりがあるかもしれません。池田の埋もれた歴史がこの寺にもあると思います。境内に引かれた涌水は、渇き疲れを癒やす甘露として、知る人ぞ知る名水です。墓地の歴代の住職の墓石は重厚感があります。また、同寺には石造美術品として、宝篋印塔があり、応永2年(1395)の銘が刻まれています。【改訂版 池田歴史探訪:東禅寺】
  • 東山字上絛にあり、瑠璃光山紫雲寺と号し、曹洞宗総持寺末である。【池田町史:東禅庵】
    ※池田町史の編纂当時、東禅寺は「東禅庵」であったらしい。表記は東禅庵としている。

◎愛宕神社(東山神社)
  • 東山の氏神は、普段は「愛宕さん」と愛情を込めてよばれている愛宕神社で、白馬にまたがった神神像のご神体(元禄8・1695の作という)がある。しかし、一方で吉田にある細川神社の氏子でもあって、人々は二重氏子になっていることになる。
     愛宕神社には禰宜講があり、勧請の状況や宮座の存在をうかがわせるが、詳細な記録は残されていない。禰宜は現在11人で、かつては終身であったが、昭和56年以降は、80歳定年制に切り替えられた。禰宜になるには百姓株の男子であれば誰でも良いとはいえ、年配者である事が求められ、推挙を受けて禰宜になる時には婚礼のような儀式を行った。禰宜講に入る事を「イリクー(入組)」とよぶ。
     愛宕神社の祭祀日は、昭和55年の申し合わせにより、原則として毎月24日に決められた。村祭や正月、2月の節分、4月と6月の節供などで祝祭日が重なる時は、それに合わせて変更する事になっている。24日の祭祀は、当番の禰宜が祭主となって勤め、神主を招く事はしない。したがって、禰宜の奉仕は年間12回にもなる。(中略)。
     直会(なおらい)は、禰宜講で行い、昭和50年(1975)頃まで続いた。正月、節分、麦初穂(7月5日)、愛宕(9月21日)、松立て(12月24日)の年に5回であった。
     現在、初穂料として、百姓株の氏子は年間に麦初穂200円、米初穂300円を納める。財産による年貢は、若干の相違はあるが、7,000円ぐらいである。【新修池田市史:東山(氏神と祭)】
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既述のように東山村は、寛永・正保期(1624-48)の摂津国高帳での村高は541石余で、細河郷内では最も大きな石高を有しています。残念ながら人口に関する記録が見当たりませんが、石高に比例した人口であったと思われます。明治期の地図では、近隣の集落と比べても集落範囲が大きく表されています。
 また、東山村は五月山山塊北側の一段高くなった段丘に村が拡がっており、寛永・正保期には植木栽培が盛んであった記録があるようです。植木栽培は細河郷では古くから行われており、江戸時代にも絶える事無く行われていた事が判ります。

<交通>
東山村の眼下に余野街道があり、その脇にある余野川を挟んで、北方の低山の尾根上には、妙見道も望む事ができる眺望が開けています。この妙見道を目安として、河辺郡と豊嶋郡の境があり、河辺郡北部には多田源氏の系譜を持つとされる塩川氏が勢力を持っていました。
 また、東山村は、その余野街道を北から南下すると、平野部の入口にあたる場所でもありました。更に、村からその背後にあたる五月山には、何本もの山道(やまみち)があり、一旦、山に上がれば、南側の秦野村や新稲(現箕面市)、北東部の勝尾寺や高山村(現豊能町)方面へも行き来できました。

<多田院御家人塩川氏と細河郷>
摂津国河辺郡北部(現兵庫県川西市など)の山下城(一庫城)を本拠とした塩川氏は、多田院御家人の筆頭として、多田庄と能勢郡に影響力を持ちました。同庄は、他にあまり例のない程の広さを持ち、しかもその内に多田銀山(現兵庫県猪名川町)を含みます。また、能勢郡内(現大阪府)にも鉱山があり、その採掘に使われた間歩跡が、今も多数残っています。
 鎌倉時代から室町時代の応仁・文明の乱頃までは、塩川氏の勢いが強く、細河郷もどちらかというとその影響を受けていたようで、細河郷内での伝承記録にもその断片が見られます。その頃は、五月山が実質的な河辺郡との境になっていたかもしれません。参考として、多田源氏に関する資料を少しご紹介したいと思います。

(資料2)-------------
◎臨済宗 天龍寺末 薔薇山 松雲寺(池田市中川原町)
  • 字下門にあり。薔薇山と号し、臨済宗天龍寺末にして、釈迦牟尼仏を本尊とす。観応2年(1351)10月の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:松雲寺】
  • JA大阪北部細河支店の裏側を山手に少し登ると、松雲寺があります。細い参道へ入ると、苔むす石垣の上に真っ白な築地が続きます。しっとりとした石畳を踏んで進むと、すぐ山門に着きます。
     苔と下草に覆われた境内は、静寂そものです。正面に五月山を借景に本堂がひっそりと佇んでいます。「天龍寺派居士林道場」と書かれた木札が掛けられ、いかにも禅宗の寺らしく心落ち着く雰囲気です。
     現在の本堂は、昭和46年に建てられたものですが、創建は南北朝時代の禅僧夢想国師(疎石)で、600年以上の歴史を持つ古刹です。ご本尊は釈迦牟尼仏で、江戸時代末期の作と伝えられています。
     当寺は地元旧家である一樋家(多田御家人の系譜を持つ)の菩提寺としても関わりがあります。南側にある墓地には、歴代住職の墓石をはじめ、歴史を感じさせる古い墓石が並び、夜には怖くて近付けないような昔のままの雰囲気もあります。
     境内で心を静めて「禅定」の瞑想に、ひととき浸るのもここまで足を運ぶ甲斐があるのではないでしょうか。【改訂版 池田歴史探訪:松雲寺】
  • 中河原字下門にあり、薔薇山と号す。臨済宗天龍寺末なり。【町史:松雲寺】
◎真宗 西本願寺派 八幡山 如来寺(池田市古江町)
  • 古江字片岡にあり。八幡山と号し、真宗西本願寺末にして阿弥陀仏を本尊とする。本地住人岡本源之丞(了信)、本願寺良如法主に帰依し、寛文2年(1662)檀徒と協力して創立せり。(大阪府全志)
  • 八幡山と号し、寛文元年3月、開基釈了信の所有地に創立。(同寺所蔵 如来寺寺院規則)
  • 第1代寛文元年(1661)8月19日、亡 了信 創立時の如来寺は「片岡惣道場」であって、寺号は宝暦・明和(1751-72)頃に成立したらしい。(歴代住職表)
     良如法主(1612-62) 真宗本願寺派13世 諱は光円。12世准如上人第7子。
  • 八幡山 豊能郡伏尾村久安寺山内にあり。往昔、応神帝影向の山頭を以て、八幡山を称す。【池田市内の寺院・寺社摘記:如来寺】
     
  • 如来寺は、江戸前期の寛文元年(1661)本願寺13世の良如上人に帰依し、僧「了信」となった岡本源之丞ほか10数人の檀徒が建立した寺です。本堂は建立当時のもので、修復を重ねつつ300年以上も護持されて現在に至っています。(中略)。
     お寺のすぐ上は妙見街道となっています。「能勢の妙見さん」へのお参りの人々が絶えず往来しました。今は池田市立児童館となっている所に、古江の旧家森家の屋敷がありました。森家は肥後熊本細川藩の家老を先祖とする家柄で、この場所で漢方薬院として施薬・医療を業としました。妙見さんへ参る人々などの憩いの茶店が軒を並べ、中には体調を崩す人もあり、薬院は重宝され随分と流行りました。こうしてこの辺りは森家ゆかりの人、多田源氏落ち武者「ふるごんぼう」と呼ばれた古江御坊信仰の人等が集まり、邨が出来て賑やかになりました。やがて森家の財力によって檀那寺が建てられ、如来寺の前身となりました。この寺の殆どのものが森家の寄進によるもので、屋根瓦には森家の家紋である九曜星(肥後細川家の家紋)の紋が使われています。森家の菩提寺としての如来寺の墓地には歴代住職をはじめ、森家累代の墓があります。
     ちなみに箕面公園滝道に「森 秀次」の銅像があります。氏は、府会議員時代に、箕面山を密教の神聖な山として公園化に反対する人々を説得し、尽力されました。銅像は、公園の生みの親としての功績を讃えられたものです。氏はその後、国会議員となられ、大正15年(1926)に72歳で逝去されました。【改訂版 池田歴史探訪:如来寺】
    ※参考サイト:森秀次像は三度作られた
  • 古江字片岡にあり、八幡山と号し、真宗西本願寺にあり。【町史:如来寺】
◎真宗 東本願寺末 大雲山 専行寺(池田市中川原町)
  • 字南絛にあり。大雲山と号し、真宗東本願寺末にして、阿弥陀仏を本尊とす。万治2年(1659)正貞の創立なり。(大阪府全志)【池田市内の寺院・寺社摘記:専行寺】
  • 国道から少し入るだけで旧街道は交通もまばらで、気持ちを落ち着きます。この中川原は、細河植木の集散地で、近くには細河園芸農協市場もあります。街道に沿う専行寺は、日当たりが良く、明るい境内は夏には、蓮の花が咲き、仏心が和みます。
     このお寺の創建は、万治2年(1659)、僧「正貞」と伝えられ、340年を越える古刹です。本堂も再建されていますが、修復を重ね270年を経る建物です。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代後期の作と思われます。(中略)。
     当寺の紋は笹りんどうで、多田源氏の紋と同じです。多田神社または、多田源氏家人と関わりがあるものと思われます。古江「如来寺」の建立に功績のあった、森家の先祖、肥後熊本細川藩家老であった人が、はじめは「専行寺」に入り、間もなく古江の片岡で森家を興して、如来寺を建てたと伝わります。
     昔、専行寺は門徒の信仰の寺としてだけではなく、寺子屋としても一円の郷の子ども達が集まり、学びました。この寺子屋は、明治7年(1874)、細郷小学校として、現在の細河小学校の前身として移転しました。浄土真宗の寺院は、世俗的で、民衆に慕われやすい道場の色彩があります。門徒が心を合わせ、苦労を重ねて寺を建て、何百年も維持されてきた努力は、美しく、尊いものです。【改訂版 池田歴史探訪:専行寺】
  • 字南條にあり、大小(雲?)山と号し真宗東本願寺末なり。【町史:専行寺】
-------------(資料2 終わり)

細河郷にはこういった、多田院御家人とのつながりが、断片的にいい伝えられています。
 また、やはり地勢柄、細河地域は旧河辺郡や能勢郡地域との交流が絶えず、婚姻や商売などで今もつながっており、時代を経ても変わらない、不変の摂理があるようです。

<村の民俗と伝承資料>
東山村はそんな環境と歴史を持ちますが、更に地域を掘り下げ、村の民俗と伝承資料を以下にあげてみます。村の人々が寺院をどのように捉えて信仰しているかがわかる資料をご紹介します。
※新修池田市史 第5巻 P309

(資料3)-------------
かつてのドウノマエの様子(新修池田市史より)
【東山村の寺院と民間の信仰】
東山村の寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。
 保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。
 また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。【新市史5巻:東山】
-------------(資料3 終わり)

もう一つ資料をご紹介します。東山村の人々の生活について、聞き取り調査が行われています。「垣内と講」についてです。もしかすると、東山村は植木栽培など、多様な産業があって、村全体で農業を営むような共同体ではなかったのかもしれません。
※新修池田市史 第5巻 P306

(資料4)-------------
【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
-------------(資料4 終わり)

<東山村と秦村との関係を示す伝承資料>
更に、興味深い伝承資料をご紹介します。今は所在が判らないようですが、法園寺(ほうおんじ:現池田市建石町)というお寺に「赤松氏上月十大夫政重」という人物の塔婆があって、そこに刻まれた碑文が池田町史(1939年発行)に紹介されています。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

(資料5)-------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年(1642)午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年(1722)壬寅9月12日
※■=欠字
-------------(資料5 終わり)

この伝承によると、上月政重が3歳の時(元亀元年:1570)に、三好・荒木勢に居所を襲われて、乳母によって助け出され、母方である豊嶋郡畑村の石尾下野守方へ逃れたとあります。その後、成長した政重は22歳の時、親戚の誼で、池田備後守知正に取り立てられたとの経緯が記されています。
 また、この知正は池田家の当主を継いでいますが、慶長9年(1604)3月18日、49歳で死去します。この年に、東山村の東禅寺も再興されており、これはやはり何らかの繋がりがあっての事だと思われます。

<東山村と池田氏との強いつながり>
この知正の死去の前、子がなく無嗣であったために、弟の子三九郎を養子として迎えますが、三九郎は、慶長10年7月28日、18歳の若さで死亡します。
 池田家の断絶の憂き目を救うため、三九郎の父(知正弟)である弥右衛門尉光重が家督を継ぎます。光重は、間もなく備後守の官途を名乗り、戦乱で荒廃した池田郷とその周辺の復興にあたります。
 さて、池田家の家督を継いだ光重ですが、東山村を本拠としていた人物である事が「池田城主池田系図」などに記されており、東山村での有力者山脇氏に連なる人物と考えられます。
 一方、この山脇家には家伝(系図)が残り、池田城主との強いつながりがあった事を記しています。永正5年(1504)の池田合戦を中心に既述されています。
※池田郷土研究 第8号(池田郷土史学会刊)P16

(資料6)-------------
○正棟-池田民部丞、属足利義澄公、忠信篤実無二心、永正5戊辰年夏、大内義興、細川高国等、攻池田城、正棟固守数日、防之術尽城陥、于時託泰松丸、貽謀正能父子、隠同国有馬谷、5月10日正棟登城自殺、東山密葬、謚円月光山居士。
○正重-池田勘右衛門、後号監物、民部丞、生害之時、与母共父之首隠、従城裏山伝移東山村、大山谷之口山林埋葬、密請僧吊、隠住山脇源八郎。【山脇氏系図:昭和26年7月 林田良平假写】
-------------(資料6 終わり)

この永正5年の合戦については『細川両家記』という軍記物に記述があり、内容は、多少の誤差はあるものの、大筋で山脇家の家伝と一致しています。
※細川両家記(群書類従第20号:合戦部)P585

(資料7)-------------
永正5年戌辰4月9日、(前略)。摂津国池田筑後守(貞正)は、細川澄元方をして我城に楯籠也。細河高国聞召、其の儀ならば退治有べきとて、同5月初の頃高国方の細川典厩尹賢を大将にて猛勢推寄ける処に、筑後守は物の数ともせずして戦うといえども、池田遠江守、高国へ参られければ、寄せ手は是れに機を射て、5月10日に堀を埋めさせ、厳しく攻めければ、城の中より思い思いに切って出、同名諸衆20余人腹を切り、雑兵70余人討ち死に也。国中に同心する者無きに、かように振る舞いける事よ。大剛の者哉と感ぜぬ人こそなかりけれ。
-------------(資料7 終わり)

この時の池田家当主は、貞正(さだまさ)ともされますが、今も池田市にある大広寺に貞正以下、主立った武士が逃げ入り、そこで切腹します。重臣などもそこで果てたようです。その貞正が切腹した時の床板を大広寺本堂入口の天井板として使い、それが「血天井」として今に伝わっています。
大広寺入口の天井にある「伝血天井」
それから、この時の貞正一行の行動は、自分の家族を非難させるための行動だったと考えられ、大広寺の脇からは、五月山へ上がる山道が幾筋かあり、その道を伝って貞正の妻と子は東山村へ逃れたものと思われます。池田城もこの時、自焼(じやけ)していますので、最後の抵抗をして、時を稼いだのかもしれません。
 貞正の妻と長男の三郎五郎、それに弟の正重を叔父の池田正能などが護り、城を出たようです。一行は、東山村の山中(大山谷之口山林)に貞正の首を埋め、妻と弟正重は山脇氏を名乗って隠れ住んだとしています。また、貞正の妻は、山脇家出身ではないかと推定する研究者もおられます。
 長男三郎五郎は、その後に東山村を出て、身寄りを頼って有馬郡下田中へ更に逃れたようです。

<別の山脇系池田氏の活動痕跡>
堺商人の今井宗久の音信に、気になる人物が見出せます。これは、永禄12年(1569)のもので、その時の池田家当主であった勝正が、播磨・但馬国方面へ出陣している留守中に池田覚右衛門・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

(資料8)------------- 
態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
-------------(資料8 終わり)

この池田覚右衛門なる人物は、この史料の他には見当たりませんので詳しくは解らないところもあるのですが、音信の内容からして、当主勝正の重臣であったり、側近的人物であった事は確かです。
 そしてこの、覚右衛門なる人物は、先に紹介しました「資料4」にある、「かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。」の角右衛門講に相当する可能性があるかもしれません。それらの講の多くは、人の名前に由来するようですし、「講」とは、そこに縁や利益を共にする人々が集まる組織でもあります。「角」と「覚」の違いはありますが、角右衛門講とは、池田覚右衛門に由来し、そこに関係した人々の集団だったのではないかと思われます。もちろん地縁も含めての事だと思います。
 それからまた、西暦2000年頃だったと思いますが、個人的に東山村で、山脇氏や戦国時代の頃の事について何人かにお話しをお聞きした事があります。その時、「先祖は武士だったが、武士を辞めて帰農したり、武士を続ける人は他の場所へ移った。」など、言い伝えがあるようです。
 それについては、「資料3」にある、「慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。」にある伝承と同一線上の要素ではないかと感じます。
 慶長9年とは、東山村に縁の池田知正が死去した年ですし、その時に大広寺末の禅寺である東禅寺が、その地の豪族・庄屋の協力で開創(再興)する訳です。これらの複数要素の重なりは、単なる偶然では無いと思います。知正の墓は大広寺に今もあるのですが、その出身地である地元でも知正を弔うような気持ちがあっての動きではないかと思います。

<知正が池田家家督を継いだ理由>
池田家本流からは少し離れた一族であったと考えられる山脇系池田氏が、なぜ名族池田家を継ぐ事になったかといえば、天正年間の2度の大乱が、非常に致命的で、池田とその周辺を破壊し尽くし、人も社会も全て失う程の戦争であったためと考えられます。
 徹底した破壊は、人同士のつながりも絶ち、恨みすらも生まれます。人が死に、財産も失えば、人を束ねる事も難しくなり、組織も財力もある外来勢力に太刀打ちできなくなります。
 実際にはどうだったのか、まだまだ判らない事もありますが、感状の縺れもあり、それまでの統治者であった池田氏の本流が、逆に戻りづらい環境になっていたのかもしれません。若しくは、池田氏の本流が本当に滅びてしまったのか。
 とは言え、復興にあたっては、地域を束ねる求心力は必要ですので、本流よりは少し離れますが、他の候補よりはより本流に近い血脈を持つ東山村の山脇系池田氏から知正が選ばれたのかもしれません。
 本流の池田家当主は代々「筑後守」を名乗りましたが、知正は「備後守」を名乗り、明らかにそれまでの池田氏のつながりとは区別されています。知正の後を継いだ弟の光重も、同じく備後守です。
 知正や光重は、荒廃した池田を復興させようと色々と手を尽くそうとしていた事も史料を読めばわかります。大広寺を旧地に戻し、少しずつ整備を行おうとしていたと思われ、その頃の建物や梵鐘、肖像画などが残っています。他にも色々な行動をしているのですが、ここでは書き切れませんので、別項で紹介したいと思います。
 知正が池田家を継いだ頃は、時代が大きく変わろうとしていた時であり、大乱でヒト・モノ・コトを立ち直れない程に失い、それでも地域の求心力として当主を努めた人物であったのかもしれません。
 実質的にこの2人が、最後の池田氏だったと言えます。その後の池田郷と細河郷は、徳川幕府の直轄地として統治されるようになり、商業の町となって、地域の主導者排除されるようになって、忘れられていきます。

<出土遺物からの戦国時代細河郷の想像>
少し遡って、細河郷は、永禄・元亀年間(1558-73)頃になると、池田氏の影響下に入っていた事と思われます。それ以前の天文年間(1532-55)には同地で影響力を強めていた可能性も十分にあります。その裏付けとも考えられるのが、いくつかの寺の寺伝に「兵火による焼失」が見えます。また、昭和46年(1571)4月2日に、吉田町310番地で市道の拡張工事中に、主に室町時代に流通していた多量の古銭が出土しています。(総合計18,317枚)「伝承」は、ある程度、正確に記述されているのではないかと思われます。
 やはり、この遺物の出土状況からみても、細郷が戦乱に遭っていた事が想定できます。これらは当時としては資産であり、地中に埋められていたのは、戦乱を避けるための「避難」のためであったと考えられます。
※参考:1570年(元亀元)6月の摂津池田家内訌は織田信長の経済政策失敗も一因するか。

<細河郷に伝わる戦国時代の痕跡>
東山村の向かい側、西側に吉田村があり、ここにも戦国時代の痕跡を示す伝承があります。吉田村にある細川神社付近には、本は武士であったと伝わるお宅もあり、個人的に色々お話しを伺った時には、槍なども見せてもらった事があります。
 村の北西側に山塊が拡がり、その尾根上に妙見道が通ります。この道が河辺郡と豊嶋郡の境で、非常に重要な場所でもありありました。
※新修池田市史 第5巻 P318

吉田村の見取図(新修池田市史より)
(資料9)-------------
【集落】
植木・盆栽の生産の集落があるのは、祠堂の南あたりである。ヒノミヤグラ(火の見櫓)の立つ所に吉田町公民館がある。そこが、このあたりの集落の中心である。この集落の入口にあたる所には、地蔵堂があり、トンドバともいう。付近には吉田公園があり、大きな椋の木がある。この土地はモレチ(漏れ地)である。
 集落のある場所から久安寺川にかけては、松などの植木の苗木が栽培されている。その苗床をノラとよぶ。このあたりは、オシロダニ(お城谷)とよばれ、織田信長の城があったと伝えられる。織田信長が治めていた時代の遺構とされる「信長の手水鉢」があった。いずれも現在は、道路拡張のため埋まってしまっている。またオダノカイチ(織田の垣内)とよばれる土地がある。そこにも織田信長が治めていた時代の城の遺構と伝えられる石垣の跡があったが、これも伏尾台の住宅開発ですっかりなくなってしまった。
-------------(資料9 終わり)

また、伏尾村のあたりから吉田村を経て山塊が伸びて、その終端の南面に古江村があります。その途上に片岡集落があります。
 この古江・片岡集落付近では、余野川と猪名川が合流し、妙見道と多田道、能勢街道(篠山道)も村内に通す要所です。また、既述の通り、妙見道が河辺郡と豊嶋郡の境でした。
 こういった環境ですので、やはりここには、戦国時代の痕跡があり、言い伝えられています。
※新修池田市史 第5巻 P333

(資料10)-------------
【古御坊】
村の墓のもう一つ高い所に、古御坊というお寺があったという。今でもそこは、古御坊と伝えられている。戦国時代に池田城が焼かれた時、この古御坊も焼かれた。そこに寺男としておった人が片岡某という人で、寺が焼かれて行き場が無いので、ここに降りてきて住み着いたという。その片岡某の名前からここを片岡といっていた。江戸時代は古江村字片岡といわれていた。
-------------(資料10 終わり)

古江村の見取図(新修池田市史より)
この伝承にある古御坊といわれたお寺の詳しい事はわかりませんが、池田城と何らかのつながりがあったものと思われます。
 同じような例で、今の大阪大学のあるあたりに待兼山という丘陵部があり、ここに能勢街道が通っていました。その場所に高法寺(現池田市綾羽)というお寺があったのですが、このお寺は池田城主とのつながりが深く、天正年間(1573-92)の荒木村重の乱で、織田信長方に焼かれたとの伝承を持ちます。このお寺は、平時はやはり、池田・伊丹城の施設の一部として機能していたと考えられます。
 その例にもあるように、古江の「古御坊」も交通の要衝で、郡境にあり、しかも一方の河辺郡には常に争っている塩川氏の勢力下ですので、軍事施設ではない「寺」を於いて、緩衝対策を取って警戒していたものと想像もできます。

<寛永諸家系図伝に見られる池田知正と光重>
 最後に、系図に見られる池田知正をご紹介してみます。江戸時代には、幕府によって公的系譜の編纂事業を2回(こまかなものも色々ある)行っていますが、『寛永諸家系図伝(家譜)』は、その最初です。
 寛永18年(1641)から事業に着手され、同20年9月に完成しています。これを経て、更に幕府はその精度を高めるべく寛政11年(1799)に『寛政重修諸家譜』が編纂が始められ、文化9年(1812)に完成して将軍に献上されました。これらは、幕府運営(統治)の基礎資料とすべく作成されましたが、それぞれに特徴や利点、不備があります。
 この資料を見比べてみると、『寛政重修諸家譜』には、摂津池田家の記載がありません。これは既に没落した家である事と、地方豪族の系譜はあまり重視しない分類方針であったためのようです。この頃、時代的に身分制度が定着し、武家社会優位の風潮になっていた事もあるのかもしれません。
 さて、もう一方の 『寛永諸家系図伝』には、あまり詳細ではないものの、摂津池田氏の記載があります。中でも今回は、知正の家系の記述を見てみます。ちなみに、この中では「清和源氏頼光流」の「池田」姓として伝えています。

(資料11)-------------
【重成(知正)】
久左衛門 備後守 生国 摂州。
摂州豊嶋郡のうち神田村・細川村にて2,780余石を領す。
 織田信長の命により、荒木摂津守村重に属して与力となる。村重敗亡の後、秀吉、重成を召し出され、本領神田村・細川村を領して、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。其の後東照大権現(徳川家康)に仕え奉る。
 慶長5年(1600)、奥州御陣に供奉の時、上方の騒動により、大権現小山より上方へ御進発の御供いたし、御帰陣の後、御加増ありて5,100余石の地を領す。同8年、病死。

【重信(光重)】
弥右衛門 備後守 生国 同国。
父重成(知正)と同じく秀吉に仕う。
 慶長5年、奥州御陣の時、重成と同じく供奉す。同8年、大権現(家康)の命により、父の遺跡を継ぎ、従五位下に叙し、備後守に任ぜらる。駿州府中にひとりの神子(みこ)あり。人を誑かして金銀を多く借り取る。重信(光重)が家人の関弥八郎にも又借りて是れを与う。その後、金銀を貸したる主より神子に返弁すべきの由はたり(?:諮り。ルビは徴とあり、糾明の意。)ければ、、我借る所の金銀は悉く弥八郎これを取りて、神子が元にはこれなしと云うにより、各々此の事を重信も知るべきの由を訴ふる時、大権現御鷹野あそばされ、江戸に趣(赴)かしめたまふ時、重信供奉す。駿府に還御の後、この事の評議ある故、重信いささか知らざるの旨じき(直)に訴訟を捧ぐる故、その難を免かるると雖も、直訴致したる罪により御勘気を蒙り、所領を没収せらる。その後も大権現これを哀れみ給いて、重信が旧領の古米並びに家財等を給いて、富士のふもと法命寺に籠居す。
 大坂両度の御陣に、仰せによりて有馬玄蕃頭豊氏手に属して彼の地に赴く。大坂御帰陣以後、大権現しばしば御無礼の御気色ある故、遂に御前へ召し出されず。
 寛永5年(1628)5月19日、病死。法名同休。

【重長】
久左衛門 生国 摂州。
父と共に流浪して、有馬豊氏に付き従う。豊氏、重長が事を酒井雅楽頭忠世並びに大僧正天海を以って言上しければ、則ち御免を蒙る。
 寛永11年(1634)より、将軍家(家光)へ召し使はる。同12年、御小姓組となる。同15年、御切米を給わる。
 家紋 三木瓜。
-------------(資料11 終わり)

それぞれ諱(いみな)が歴史史料とは違って記述されているのですが、その内容は直ぐにそれと判ります。また、知正について、この系図では「民部丞」を名乗っていない事になっています。
 それともう一つ、気になるところがあります。この池田知正の家系を「清和源氏頼光流」としてあり、藤原流では無い事です。池田家本流の家系は「藤原」である事が史実として明白ですので、やはり細河郷東山村の池田氏は、別系譜である事が明確にされているようです。
 こうなるとやはり、家紋というのも自ずとメボシが立ち、これまで流布されている、摂津池田家の家紋は「三木瓜」ではなく、本紋としてはやはり「藤」をモチーフにした家紋であろうと思われます。つまり、『寛永諸家系図伝』の清和源氏頼光流の摂津池田重成(知正)系の紋が三木瓜であって、本流の池田家系はそれとは別の紋、藤原を示す家紋を使用してものと考えられます。
 それからまた、参考までに、知正の行動についてですが、羽柴(豊臣)秀吉時代にも各地に転戦しており、さ程多くはありませんが、兵を率いて出陣しています。天正10年(1581)5月からの備中高松城攻めでは、蛙ヶ鼻付近に布陣し、天正12年3月からの美濃国小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍の後ろ備(合計10,000)の右翼に90程の兵を率いて参陣しています。

<まとめ>
このように、東山村にそのものが残っていなくとも、忘れられるなどして、特に意識される遺物が無いとしても、その周辺地域には少なくない戦国時代の痕跡が残っています。もちろん、これまで見たように、僅かながら東山村にも、池田城と池田氏とは、細くない、いや、強いつながりを持つ痕跡を残しています。また、村から輩出される人物も、少なからず史料上に見られ、池田家の歴史に深く関わっています。
 やはり筆者は、戦国時代には東山村にも、村を護るための施設や仕組み、組織などがあったと感じます。「資料4」にもあるように、実際に東山村の垣内の一つのミナミンジョを「ユバジョ」とよんでいる習慣があり、これは「弓場所」ではないかとする消極的な推定がされています。
 ちなみに池田城跡の字名で「ユンバ」とよばれるところがあり、ここは「弓場」であったと伝えられています。弓は戦国時代の主力武器でしたので、練習をするための広場があったと考えられます。 


細河地域は、その北側の止々呂美地域に新名神高速道路の出入口が設置され、この先、開発が急速に進む事と思われます。その事で、益々時代に必要な発展をしていくのだろうと思います。そういった状況の中で、この思索が、今後の研究の何かの役に立てばと願います。



2016年7月30日土曜日

天正6年(1578)の謀反で、荒木村重が多田銀銅山や北摂の鉱山を経済的裏付け要素のひとつとして考えていた可能性について

以前から気になっていたのですが、今後の備忘録代わりに、ちょっと書き留めておきたいと思います。

多田銀銅山の青木間歩の様子
北摂山塊では、主に銅を産出していたため、無数の間歩跡があります。豊能・河辺郡あたりに広がっていて、一部は豊島郡にも見られます。実は、五月山にも秦野鉱山と呼ばれた間歩などの跡があります。詳しくは「池田・箕面市境にある石澄滝と鉱山」をご覧下さい。
 その北摂の鉱山の代表が多田銀銅山(現猪名川町)ですが、この銀銅山の産出量が戦国時代のいつ頃から再び増えるのか、あやふやなままでした。
 天正年間の後期や慶長の頃には、豊臣秀吉の政策による、銀銅山の振興があった事が、ある程度はっきりしている事ですが、もう少し前からそういった政策があって、もしかすると、荒木村重が摂津国を任される頃もその胎動(再興)があったのではないかと考えていました。
参考サイト:多田銀山史跡保存顕彰会公式サイト

先日、『兵庫県の地名1』を読んでいましたら、「天正2年に摂津国河辺郡笹部村から離れた同村内の山下に吹き場が移され、山下町として形成されたとされ、同じく鉱山関係者の居住地として下財屋敷が笹部村枝郷として置かれた。」、との旨の記述を見つけ、この頃には既に、鉱山開発に再び力を入れ始めていた地域政治政策の兆候かもしれないと感じるようになりました。
 この裏づけは、もう少し色々な資料を読まないといけないのですが、このあたりの有力者であった、塩川氏が滅んでいる事から、まとまった史料も無く、また、鉱物採掘史のような分野も確立されていないようなので、わからないままです。
 ただ、当時からこの辺りには鉱山が多いことは知られていましたし、但馬国生野銀山や石見(国)銀山などが盛んに鉱物を産出しており、精錬法なども新たな技術導入で精度も向上していました。
江戸時代の堀場作業の様子(別子銅山にて)
塩川氏は領内にこういった鉱脈を持つ山がある可能性を当然ながら知っていた筈で、鉱山開発も行っていた事と思われます。塩川氏は、多田院の御家人から頭角を現したとされますが、その領地は海からも町場からも遠い立地で、農産物といっても平地はあまり多くはありませんし、林業が有望産業ですが、それだけではこれ程の勢力に育つとは思えないところがあります。
 戦国時代ですから、特に軍事的な面も考慮して婚姻などが行われるでしょうが、やはり中でも大きな要素は「経済」ではないかと思われます。
 京都の中央政治とも結びつきを深めるために、管領家の細川氏とも関係しているようですし、伊丹・池田氏などとも婚姻関係を持っています。

そういう歴史と地域環境の中で、天正14年(1586)頃に塩川氏は隣地の能勢氏と抗争し、上意(豊臣秀吉)により取り潰しとなって、没落するようです。まだ戦国時代の余震が続く時代でしたので、地域領主は大なり小なり、境界争いを抱えています。ですので、こういった地域紛争も珍しいことでは無かった時代です。
 しかし、塩川氏と能勢氏の紛争には、中央政権が積極介入して、仲裁の裁定ではなく、取り潰したのです。これは、塩川氏の領内にある多田銀山を直轄地域にしたいための行動かもしれません。話しが出来すぎたところもあるように思いますが、このあたりの歴史が未だ、正確になっていませんので、作為的なストーリーも工作しながら現代に伝わっている可能性も無いとは言えないように思います。
 
さて、天正6年秋に荒木村重が、織田信長政権から離反した、いわゆる「謀反」ですが、これは、少なくとも総国一揆とも言えるでしょう。荒木村重をトップとして、その他全ての人々が同調して、織田信長政権から離反したのですから。
 ただ、その後直ぐに重要人物が切り崩され、その力が削がれてしまいます。信長も、この動きには非常な危機感を抱き、迅速に、超法規的強行対応を行います。その結果、やはり織田政権に対しては、一国や二国程度の知事(地域統括者)では総力が及びませんでした。

しかし、荒木村重もそのくらいの事はよくよく考えていたと思われます。これ程の人を束ね、しかも広い地域からの同意を得るためには、説得を支える勝算と元手が必要です。加えて、未来想定も提示して、はじめて納得を得られるものであって、あやふやな想定では、同意は得られません。
 私が以前から考えていたのは、その中に、摂津国領内の鉱山も抱えていた事を目算に入れ、これらを元手に本願寺、毛利などの大勢力との交渉、更に足利義昭の返り咲きのための資金、その他近隣への対応なども村重が想定していたのではないかと想像しています。

それから、この時代、「明(みん)の国」が発行する銅貨決済方法が揺らぎ、日本国内では私鋳銭(ニセ銭)が増え、金融不安が起きていて、これをどう安定させるかが課題になっていた時期でもありました。それに代わる策として、国内鉱山から算出される金や銀、銅を始めとした鉱物資源によって、金融安定化を模索していたらしい時期で、それとも重なるように考えています。

この荒木村重が謀反を決する国内の資産として、領内の鉱山を視野に入れていたかどうかは、まだ今のところ、決定的材料に乏しいのですが、伝承記録や技術史を辿る事で、何か見えてくるような気もしています。

今後も続けて、この分野にも注目していきたいと思います。


2016年7月16日土曜日

池田市建石町の竹原山法園寺(ほうおんじ)にあった戦国武将上月十大夫政重の塔婆

1939年(昭和14)3月発行の『池田町史』法園寺の条に、上月(赤松)十大夫政重についての記述があります。これは寺に残る寺伝や過去帳なども調べて紹介されているようです。以下にその記述を抜粋します。
※池田町史 第一篇 風物詩P135

-(資料1)---------------------------------
【法園寺】
建石町にあり、竹原山と号し、浄土宗知恩院の末寺にして本尊は阿弥陀仏なり。創立の年月詳らかでないが、再建せしは天文7年にして、僧勝誉の檀徒と協力経営せし所なりと。(中略)。
 縁起によれば、同寺はもと、池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所であって、池田城主の本願に依り同城羅城(郭外)内に阿波堂を建立し、其の室の冥福を祈りたる処なりと、後この阿波堂は上池田町(現在の薬師堂)に移建されしと伝わる。
 なお当寺には、赤松氏、上月十大夫政重の塔婆がある。其の文に、

赤松氏上月十大夫政重之塔

寛永19年午9月12日卒
法名、可定院秋覚宗卯居士

宗卯居士者、諱政重、十大夫、姓赤松氏(又号上月)蓋し村上天皇之苗裔正二位円心入道嫡子、信濃守範資、摂津国守護職補され自り以来、世々于川辺郡荒蒔(荒牧)城、範資九代之嫡孫豊後守殖範、其の子範政求縁■中三好・荒木両党、父子一族悉く殞命畢ぬ。于時政重3歳也。乳母懐抱而城中逃げ出於、豊嶋郡畑村至り、叔父石尾下野守撫育焉。22歳而又親戚を因み、池田備後守の愛顧を受け、■■池田里(今ここに旧館址有り)後、稲葉淡路守■吉朝臣、寛永17年辰、辞官而て、帰寧ここに本貫、同19年壬年9月12日75歳而卒去。則ち竹原山法園寺に葬り矣。室家妙薫大姉者船越女、歿後同於彼の寺也。

享保7年壬寅9月12日
※■=欠字
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それから、『池田市内の寺院・寺社摘記』という、いつ頃書かれたのか不明ですが、昭和後半頃と思われる著者不明の冊子があり、そこに法園寺の紹介があります。地元の郷土史家が書かれたようですが、ここにも少し違う謂われがありますので、参考までにご紹介します。但し、原典の記述は無く、その旨ご注意下さい。
※池田市内の自院・寺社摘記P33

-(資料2)---------------------------------
(前略)
創建の年月が詳らかでありませんが、再建せられたのは天文7年(1538)で、山城国洛陽の法園寺4世勝誉が当寺に転任して、現山号を命名。檀徒と協力して経営し、諸堂を完備再興して、宝永年間(1704-11)に池田筑後守勝正が先妣妙玉大姉の冥福のための大修理を加えて、今日に至っております。
(後略)
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池田市建石町にある法園寺の正門
上記で、明らかに違うところがあるので、お知らせしておきます。宝永年間と池田勝正は、全く別の時代ですので、明らかに時日とは一致しません。永禄年間(1558-70)の間違いかもしれません。
 ただ、池田勝正の妻としての「先妣妙玉大姉」が現れますが、より古い『池田町史』では、「池田城主筑後守の後室阿波の三好意(宗)三の娘を葬りし所」とあって、記述が異なっています。
 多分、後者が正しく、三好越前守政長(入道して宗三)の娘を後妻にもらった信正であれば、史実と合致しますので、こちらが正しいのではないかと思います。
 そもそも、池田氏の正式な菩提寺は大広寺ですので、その城主の妻の墓をこちらに置いているというのは、一族とは少し違う扱いにしていた事になります。

さて、(資料1)に話しを戻します。その文中、上月政重は、寛永19年(1642)に75歳で亡くなったとしてあるので、逆算すると1567年(永禄10)の生まれとなります。また、政重は3歳の時に、三好・荒木両党により、父子一族悉く殺害されたとあり、これは元亀元年(1570)6月の池田家中の内訌である事が判ります。この伝承は、史実をある程度正確に伝えているようです。
 その時、政重はどこに居たのかというと、同じ摂津の川辺郡の「荒蒔城」としており、これは今の伊丹市荒牧に比定されますが、ザッと調べた範囲では、荒牧村には確かに館城の伝承地があり、それなりの勢力を持っていたようです。以下に少しだけ、紹介してみます。
※兵庫県の地名1(日本歴史地名大系29)P429
 
-(資料3)---------------------------------
(前略)
応永26年(1419)11月の上月吉景譲状並置文(上月文書)に「あらまき」とみえ、吉景は荒牧の地頭職を室町将軍から与えられ、守護からも荒牧のうち三分の二の知行を認められた。残りの三分の一は吉景の舎弟則時に与えられ、のち景氏に伝承された。この年吉景は、地頭職と同地の三分の二を子息景久に譲っている。
 文正元年(1466)閏2月、有馬温泉(現神戸市北区)の帰途、京都相国寺蔭凉軒主で、播磨上月氏出身の李瓊真蘂は、荒牧の上月大和守入道宅とその南側の子息太郎次郎館を訪れている。屋敷は足利尊氏から、軍忠によって拝領したという(「蔭凉軒日録」同年閏2月22日条)。
 上月大和守入道は庶子家とみられ、荒牧に居館を構えていた事が確認される。太郎次郎は、200〜300人もの「歩卒、僕従」を率いて湯治中の真蘂を警護したほか、有馬に滞在して種々接待につとめ、またこの頃上月氏は25間もの倉を昆陽野から購入したという(「同書同月11日条・17日条など」)。荒牧上月氏の勢力の一端が知られる。字城ノ前に荒牧館跡があったとされるが、遺構は認められない。
(後略)
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村の歴史としては上記のようにあり、館を持ち、200〜300人の動員力を持つ荒牧上月氏は、確実に存在しています。
 いずれにしても政重は、代々住む荒蒔城で三好三人衆方となった荒木(池田)一党に攻められて、一族郎党の多くが殺されたとしています。その折、政重は乳母に助け出されて、親類(母方の弟か)のある畑村へ逃げ(避難)、そこで育てられたようです。
 政重22歳の時、天正17年(1589)に、親戚を因んで池田備後守知正の被官となりますが、慶長9年(1604)の知正の死去を契機に、稲葉氏へ再仕官したようです。
 ここで、少し気になるのは、上月家と池田知正の家系が親戚であったかのように伝えてある点です。単純に書いてあることを辿ると、政重の母方が畑村の石尾下野守家から出ていて、この石尾家が細河郷の山脇系池田家とも姻戚関係などを持っていれば、接点が見出せます。畑村と東山村は、五月山を経た山道でつながっていますので、不自然な関係ではありません。

また、この政重は、稲葉氏の家臣としての職を辞して、池田に戻り、その2年後の寛永19年(1642)9月に75歳で亡くなると、法園寺で葬られます。上月政重が池田に戻り、なぜ法園寺に葬られたのかについては、理由があるようです。
 この上月氏は、池田家中で家老を務め、法園寺のある建石町に家老屋敷を持っていたとの伝承記録があり、その事にも関係しているためと考えられます。
 それについて『穴織宮拾要記 末』の中に記述があるようです。「五人之家老町ニ住ス」として、池田民部、大西与市右衛門、河村惣左衛門、甲■伊賀、上月角■衛門と記されています。その文を抜粋します。
※参考:池田城関係の図録(池田城域南端)

-(資料4)---------------------------------
一、今の本養寺屋敷ハ池田の城伊丹へ引さる先家老池田民部屋敷也 一、家老大西与市右衛門大西垣内今ノ御蔵屋敷也 一、家老河村惣左衛門屋敷今弘誓寺のむかひ西光寺庫裡之所より南新町へ抜ル。(中略)。一、家老甲■(賀?)伊賀屋敷今ノ甲賀谷北側也 一、上月角■(右?)衛門屋敷立石町南側よりうら今畠ノ字上月かいちと云右五人之家老町ニ住ス。
(後略)
※■=欠字
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摂津池田城の復元イメージ模型より(南端部分)
文中の「池田の城伊丹へ引さる先」の事としてある意味は、天正3年(1575)に荒木村重が、池田から伊丹へ本拠を移す前の様子を描いているようです。ただ、勘ぐり過ぎかもしれませんが、この一節は、民部丞屋敷の事だけにかかる意味なのか、5人の家老屋敷の同時代性を言っているのか、迷うところではあります。
 それから、上月角■(右?)衛門なる人物の屋敷が、建石町の南側より裏の畠ノ字上月かいち(垣内)と云う所にあった、と記述しています。
 上月政重が、稲葉氏の家臣を辞して池田に戻り、その死後、建石町の法園寺に葬られたのは、この事と関係があると思われます。
 多分、池田家中で家老を務めたらしい上月角■衛門とは、政重の一族で、天正3年では、政重が僅か8歳(数えで9歳)であり、家老を務めるという訳にもいきません。上月氏の別の有能な人物が取り立てられたのでしょう。元亀元年の上月氏の惨禍の折、家中が二分され、三好三人衆方荒木氏に味方した一派があったのかもしれません。

一方、上月氏の居城とする荒蒔(荒牧)は、村重系の荒木氏が本拠を構えていたと考えられる栄根・加茂村から西へ進んだ、平井・山本あたりの影響(支配)地の西端あたりで、微妙な位置にあります。塩川氏との勢力境界あたりで、山本村には、喜音寺(きおんじ)という塩川氏ゆかりの寺もあります。
 それ故に、元亀元年は三好三人衆方の勢力が再び増していた時期でもあって、荒木村重や池田家にとって、近接する有力な勢力への備えや有馬街道の確保の観点でも荒牧は、押さえておくべき地域だったのかもしれません。
 
それから、この上月政重の塔婆ですが、1999年頃に私自身も建石町の法園寺さんを訪ねて聞いてみたのですが、1995年の阪神大震災で寺地に小さくない被害が出てもいて、その時には所在が判らなくなっていました。その時はあまり詳しく聞くこともできなかったのですが、またこれも、再度尋ねてみようと思います。

上月氏と言えば、やはり、播磨国人で赤松氏一族としての上月氏が有名ですよね。この城での攻防戦は、荒木村重の織田信長からの離反を巡る動きの中で、注目される歴史です。この荒牧上月政重の系譜もやはりそこにつながるのですが、池田との接点はどこかというと、池田には有馬街道が通っており、文字通り有馬(有馬郡は赤松氏が入り、分郡守護を代々伝領。)を経て、三木や加古川方面ともつながっていた、当時としての主要道路があったためです。官道であった西国街道にも匹敵する脇往還道で、交通量も大変多かったともされている道で、政治・経済ともに播磨国方面と池田は、有馬街道を通じてつながりを深く持っていました。


2016年7月8日金曜日

摂津池田家が滅びた理由

池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。
 詳しい分析は、また後日に「摂津池田家の支配体制」などの研究を通じてご紹介したいと思いますが、ここではその前哨としての記事にしておきたいと思います。

摂津国内において、最も大きな勢力として成長した池田家が、実質的に当主勝正を最後に、伝統的独自文化を保持した組織としては、終焉を迎えます。
 室町将軍第十四代義栄や同十五代義昭政権の樹立と運営に大きく貢献し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの報告書にも「(池田)家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内において、もっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた。」などとも、紹介される程でした。
 
それ程までの組織が、なぜ崩れ、滅びたか。少し時間を巻き戻して、簡単に経過を見てみます。

勝正の先々代の当主は信正で、この人物が他の国人衆に先がけて、今でいう官僚制、江戸時代でいう家老制を採り入れます。これは、信正が将軍の宰相であった管領の細川晴元重臣として、京都に居ることが多かったための措置だったようですが、この制度が池田家の活動のスピードを早め、その範囲を拡げる事に寄与して、急速に成長していきます。
 その証左として、池田家は代を重ねる毎に成長し、勝正の代には、前記の如く、五畿内の誰もが認める大勢力に成長していました。フロイスの記述に現れる池田家が、勝正の代の様子です。

しかし、これが活力でありながら、池田家にとっての最大の課題であった訳です。

つまり、活動するために関わる人数が増えるのですが、組織の柱となる人々(一族)と、外来の勢力との差を池田家主導部が、上手く制御できなかった事に、組織崩壊の最大の理由があったと見られます。家の存在意義の核を見失ったと言えるのかもしれません。
 近年まで日本の伝統的習慣であった、一族結合(家制度)ですが、室町時代にも当然この感覚を中心に組織が作られています。
 しかし、組織が大きくなれば一族だけでは人数が足りず、有能な人材登用を継続していく事になりますが、この過程での人間関係と組織体制作りに失敗した事が、池田家の滅んだ原因だと思われます。加えて、家老組織(四人衆と呼んでいた)が、別の権力体となり、代替わりの度に当主との関係が難しくなります。
 こういった背景もあり、内輪もめの回数も増え、またその間隔も狭くなり、元亀元年(1570)6月に大きな内訌を発生させ、当主勝正は、池田家を追われる事となりました。これが池田家崩壊の始まりとなりました。その3年後、更に四人衆と荒木村重が内訌を起こし、組織が二分され、元亀4年夏、将軍義昭政権と共に池田家も機能停止し、実質的な組織の解体となりました。その後は主従が逆転します。ご存知の通り、荒木村重が摂津国を制圧して、守護格の扱いを受けるに至ります。
※個人的にはこの時村重は、摂津国の他、河内国中北部も領地を任されたと考えています。詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。
 
これらは何も池田家の事、室町時代の事として終わる話しでは無いと思います。今でも同じですよね。会社や地域自治、国のあり方など、全く同じ事が今でも起きています。
 義務と権利をうまく使い分け、運命共同体の向かう方向をしっかりと指し示し、主導的人物と支援組織を有機的に組み上げられるかどうかが理想だと思いますが、これが一番難しいですよね。
 
そういう意味では、江戸時代というのは、凄い社会だったのでは無いかと思います。善悪を法によって規定し、これに社会が収まって、内乱を起こさずに何百年も社会として機能していたのですから。


2016年6月29日水曜日

戦国武将の戦い方

政治問題の解決方法の一つとして、武力による解決が日常的に行われていた戦国時代、武士は常に「戦い」の研究を行って、備えを怠りませんでした。そんな内乱の時代、摂津国豊嶋郡を本拠とする池田氏も、武士として度々戦場へ出ています。
 軍勢を出し、互いに想定した場所が合戦場になり、戦うのですが、勝敗を決めるのは「後巻き(うしろまき)」または「後詰め(ごづめ)」と呼ばれる手立て(勢力)が非常に重要でした。これによって勝敗が決まると言っても良い程です。これは不変の真理で、現代戦でも非常に重要な要素です。

「後巻き」とは、前線・本隊を支援や補完する軍勢で、これが適切な位置にあれば、敵は攻めることができません。動けば、後ろや横を取られて、挟まれたり、囲まれるからです。当然、相手も後巻きはしますが、互いに、より適切な場所に後巻きの陣を取った方が勝利します。
 実際に、池田衆が後巻きをした合戦の記述が、様々な資料に見られます。中でも有名な『信長公記』御後巻信長、御入洛の事の条に見られる例をご紹介します。
※改訂 信長公記(新人物往来社)P93
 
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1月6日、美濃国岐阜に至って飛脚参着。其の節、以外の大雪なり。時日を移さず御入洛あるべきの旨、相触れ、一騎懸けに大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし候らひつるが、馬借の者ども御物を馬に負候とて、からかいを仕り候。(中略)。以ての外の大雪にて、下々夫以下の者寒死(ここえじに:凍死)も数人これある事なり。3日路の所、2日に京都へ、信長馬上10騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給う。堅固の様子を御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひん今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり。(後略)。
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この時、当主の池田筑後守勝正を始め、池田紀伊守清貧斎、荒木弥介(村重)など主要な池田家中は出陣していますが、池田から京都へ向かう途中、高槻で敵(三好三人衆方入江春景?)に道を塞がれていました。そのため、北側の山道へ入って迂回し、西岡地域(現長岡京市あたり)へ出て、桂川西岸へ向かいました。
桂橋(西詰から南を望む)
敵の三好三人衆勢は、5,000程の軍勢で京都へ入り、仮御所(居所)として六条本圀寺に座した将軍義昭を襲います。当然、将軍を護衛する武士団はいたのですが、そう長く持ちこたえられる数と装備ではありません。
 その将軍義昭救援に、河内半国守護三好左京大夫義継が、軍勢を率いて南方向から淀あたりを経由し、本圀寺へ向かいます。この間、三好三人衆勢は、西からも池田を始めとした軍勢が、本圀寺を目指して進んでいるとの報に接して、一部を割き、七条村あたりへ置きます。
 桂川西岸から京都へ入ろうとする池田衆と、入れさせまいとする三好三人衆勢が交戦したようです。この前線に池田勝正は居たようで、他にも伊丹・茨木・細川兵部大輔藤孝なども共同で三好三人衆勢と交戦したようです。
 ちなみに、桂川は深く、流れも早いために徒渉はできず、しかもこの時は真冬ですので、川の中には入れなかったでしょう。池田衆などの軍勢は、桂川に架かる橋を使ったか、桂付近の村から徴用した舟で対岸に渡るしかありません。橋は付近に、何本かあったようです。どちらにしても、攻める側が先に動けばそれなりの犠牲が出る状況でした。
 結局、桂川と本圀寺の両所では激戦となり、三好義継が戦死したなどと噂が出る程でした。池田・伊丹衆などが川を渡って、攻めた模様です。
※当時の日本人は、殆どが泳げません。一部の武士くらいが水練をしていたようですが、池田家中はどうだったでしょうか。

桂橋西詰から北東を望む
この難しい状況でも的確な後巻きが勝敗を決したようで、池田清貧斎(正秀)が、織田信長から特別に賞されています。
 広義の後巻きとしての視点で見れば、護るべき本圀寺に対して、三好義継と桂川西岸の池田衆の双方が後巻きといえますが、本圀寺の友軍と三好義継の軍勢では、数が多い三好三人衆勢を圧倒できなかったようです。
 また一方、この時、京都周辺にも三好三人衆方に同調する勢力があって、これらが将軍義昭方にとっては、敵方の後巻きとなっていました。ですので、池田衆が桂川方面からも攻め込んだのは、本圀寺を攻囲する三好三人衆勢を更に攻める必要がある、と判断したのだと思います。後巻きは、「そこに居る」だけでも良い場合が結構あるようです。

機を逃せば、将軍義昭が討ち捕られてしまう、一刻を争う中での判断と、行動だったと思われます。難しい局面で、老練な池田清貧斎が機転を利かし、的確に後巻きを行った事で、文字通り、将軍義昭は窮地を脱する事ができたのだと思います。
 織田信長は、この池田衆(池田清貧斎)の抜群の功に対して特に賞し、その記録にも残されたのだと思われます。

この合戦で、三好三人衆方は大打撃を受け、多くの名だたる武将を亡くしたようです。三好三人衆の中心人物であった三好下野守は、この時の合戦で重傷を負ったのか、この年の5月に死亡しているようです。
※この合戦に、三好三人衆方がどんな気持ちで挑んだのかという一幕が、先にご紹介した「古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!」にご紹介した記述です。

最近は機会が減ってしまいましたが、将棋を指してみればわかります。駒は攻めも守りも連携していないと全く意味が無く、戦いもそれと同じです。勝つための采配は、状況を把握し、何を、どのように使い、それをどこに置くか、が重要になるという訳です。

【追伸】この六条本圀寺・桂川の戦いについては、「研究_1569年(永禄12)正月の京都六条本圀寺・桂川合戦について」にて、詳しくご紹介する予定です。



2016年6月24日金曜日

池田知正の他にも見られる、山脇系池田氏の人物について

先日ご紹介した、「池田勝正の跡職を継いだ、知正は山脇系池田氏か!?」の項目ですが、以前から気になっていた事とも結びついて、知正の他にも、細河郷東山の山脇系池田氏らしき人物が存在する可能性に気づきました。
 この事は、近日公開予定の「細河庄内の東山村と武将山脇氏について」でも詳しくご紹介できればと思いますが、その前哨として、少し散文的に思索をしたいと思います。

最近、池田市史など、池田の歴史の中心部分を読み直すようになり、『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目を読んでいると、気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P306

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【垣内と講】
本家を「主家」、分家を「インキョ(隠居)」というが、同族による集まりや助け合いは、冠婚葬祭の場合程度であって、日常的にはみられない。
 相互扶助を求めて重要な人間関係を形成したのは、近隣集団の「カイチ(垣内)」であった。カイチは、現在でいえば隣組に相当するが、ムカインジョ、ミナミンジョ(南カイチ、ユバジョ(弓場ジョ?)ともいう)、大崎カイチ、タナカンジョ、ヤマシガイ(山新開)の五つのカイチがあり、「ジョ」の名称でよばれることが多かった。カイチの役割としては、普段の暮らしの中での助け合いのほか、葬式の手伝いが大きかった。それぞれのカイチは、主に百姓株の人々による5〜10戸からなっていたが、(近現代の)隣組ができたことによって、弱体化した。現在では、いずれも2〜3戸程度の近所づきあいにとどまっている。
 ムラの農民をひとつの百姓株にまとめ、ムラ全体で行事を行うようになったのは、戦後になってからである。かつては、百姓株が大講、喜兵衛講、角右衛門講、五左衛門講の四つに分かれ、それぞれが一反歩ほどの共有田などの財産を持ち、農業にかかわる結びつきを維持していた。昭和初期には大講が20戸ほどで最も多く、その他はいずれも10戸くらいで構成された。その後、講の機能は次第に薄れ、今では名称が残るのみである。
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この中で、村の中に4つに分かれた百姓株があって、「角右衛門講」が存在したとの事。「講」というのは、その目的(テーマ)に縁や利益を持った人々が、地域を越えて集う協働の意味合いもあり、東山にそういう集団が存在していたという事は、以下の別の私の記憶に結びつきました。

年記を欠きますが、『堺市史』の説を採りつつ、個人的にも永禄12年(1569)と比定している8月27日付けの史料があります。堺商人今井(納屋)宗久が、堺の五ヶ庄という場所の権利について、池田覚右衛門某・秋岡甚兵衛尉某へ宛てて音信したものです。
※堺市史5(続編)P906

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態と啓せしめ候。仍て堺五ヶ庄に相付き、摂津国天王寺の内に之有る善珠庵分事、度々御理り申す事に候。織田信長従り丹羽五郎左衛門尉長秀・津田(織田)掃部助一安に仰せ付けられ、勝正並びに各へ御申しの事候。様体於者、黒崎式部丞(今井宗久被官)へ往古従りの段委曲申し含め候。無事儀急度仰せ付けられ於者畏み存ずべく候。尚池田(紀伊守入道)清貧斎正秀・荒木弥介(村重)へ申し候。恐々。
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音信の内容は、五ヶ庄というところの天王寺善珠庵が持つ土地(代官請けなど)について、池田勝正が得ていたのですが、これを今井宗久へ返還せよ、と迫るものです。これは、この五ヶ庄あたりに鉄砲の生産工場を作るため、権利の集約が必要で、その動きがこの音信に見られるという訳です。
 ちなみに、この時、当主の勝正は軍勢を率いて播磨・但馬国方面に出陣中で、その留守にこのような音信を行っています。しかも、何度も同じような内容で迫っています。それに先方(池田家)の人物を呼び捨てにするなど、非礼な態度です。
 またこの件、別に一元化しなくても、権利を持っている者が協力して当たればいいのですが、政商の今井宗久がこの役を一手に任されており、バラバラになっている権利を強制的に集約し、一元化しようとしていいたようです。

さて、今井宗久が音信の宛て先にしている池田家の人物ですが、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉です。あと、文中に池田紀伊守正秀と荒木弥介(村重)が見られます。これらは、勝正の側近です。
 中でも「池田覚右衛門」が気になります。そうです、東山村にあった講の名前にある、「角右衛門講」とは、「覚」の字は違いますが、この人物が関係するのではないかと考えたのです。
 それだけではありません。この今井宗久が宛てた、もう一人の人物である「秋岡甚兵衛尉」は、荒木美作守宗次という人物の奉行人(家老的重臣)です。荒木宗次は、池田家当主の池田長正の家老でした。整理すると、池田当主の家老であった荒木宗次の重臣が、秋岡甚兵衛尉というわけです。
 永禄12年当時は、当主が池田勝正に代が替わり、前当主であった長正の重臣も新たな体制の下に再編成され、秋岡甚兵衛尉もその重臣衆として活動していたようです。
 
それで、この今井宗久の音信が宛てられた池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉という単位(コンビ)ですが、やはり偶然ではなく、勝正の重臣衆の中でも何か近しい関係とか、同じ所属といったような共通性があったものと思われます。
 この後、元亀元年(1570)6月に池田家の内訌となり、その後間もなく、池田家中と荒木村重の内訌が起き、荒木村重の時代になりますが、ここまでの流れを池田知正と共に、池田覚右衛門と秋岡甚兵衛尉の両人は、荒木与党として活動したものと思われます。
 ただ、池田覚右衛門は、この今井宗久の音信のみで確認される人物ですので、証明するにはやや安定性を欠きますが、秋岡甚兵衛尉は荒木村重の与党として、いくつかの資料に見られます。

それから、既述の『新修池田市史 第5巻 民俗編』の「東山」についての項目に、もう一つ気になるところがありました。
※新修池田市史 第5巻 P309

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【寺院と民間の信仰】
寺院には東禅寺と円城寺があり、人々は正月には東禅寺に、盆には円城寺にお参りに行くならわしがあった。
 東禅寺は山号を黄梅山といい、つぎのような伝承がある。すなわち、今は余野川上流にある久安寺は、その昔、神亀年代(724〜29)に全国を行脚中の行基僧正が足をとめたことにより開かれ、院内塔頭49坊があった。その内のひとつに瑠璃光寺があり、薬師堂には薬師如来坐像と四天王、十二神将像が安置されていた。保延6年(1140)の山内の大火の際、焼失を免れ、その後荒廃していたが、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創されたという。ただし、これを証明する文書は無い。
 ムラの中に薬師堂があり、その前の広場を「ドウノマエ(堂の前)」という。2月8日と8月8日の年2回、百姓株で祭を行い、子供を集めてお菓子などを配る。かつては薬師講を作って堂の管理をしていたが、戦後は百姓株の管理となった。また、国道沿いの村への入口の位置に地蔵堂がある。毎年8月24日の地蔵盆には僧侶を招き、婦人会が御詠歌をあげる。村にはほかに、釈迦堂、金剛、庚申さん、辻堂がある。
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西から東山(村)を望む
上記は村に残る伝承ですが、その中に「東禅寺は、慶長9年(1604)、この地の豪族・庄屋らの協力を得た禅僧東光により、現在地に開創された。」とあります。この慶長9年は、知正が死亡した年であり、また、この年以前までに知正によって、大広寺を池田の旧地に復して本格的に池田郷が復興する時期でもありました。
 東山で昔、私が何人かにお聞きしたところによると、武士を止めて帰農した人もあったとの事も聞いていましたので、それが池田市史の記述にある「豪族・庄屋らの協力を得た」という要素に結びつくのでしょう。
 また、地名としても「ミナミンジョ」という場所は「ユバジョ」ともいい、これは「弓場ジョ」かもしれないとの推定がなされているところもあります。
 ちなみに、池田城跡にも「弓場(ユンバ)」と呼ばれた場所があります。やはり、東山の村自体が城や砦のような機能を持っていた可能性を感じます。
 
これらの要素から、東山を中心とした地域から出た山脇氏を始め、他にも武士として活動する人々が居て、その中に池田姓を名乗る一派があったのでは無いかと考えるようになった訳です。

◎参考ページ:池田氏関係の図録(池田市東山地区)

2016年6月17日金曜日

古典『信長記』を読んで繫がる過去と現代、そして未来!

古文書や古典を読んでいると、現代にも通じる出来事や感覚、言葉を随所に見かけ、ハッとすることがあります。そんな時は親近感も覚え、また、深く感じ入ります。

ちょっと一息というか、歴史研究の面白さの一端として、そういう記述を抜き出して、時々ご紹介してみようと思います。今回は、小瀬甫庵が記した『信長記』にあるフレーズをご紹介しようと思います。

「六条本圀寺の事」の条にあるものです。その状況は、永禄11年(1568)秋、それまで中央政権の構成者であった三好三人衆が、足利義昭を奉じた織田信長勢に京都を追われます。三好三人衆方は一旦都落ちをし、体制を立て直した上で、再び京都を奪還する算段を立てていました。
 三好三人衆はその年の内に、大軍で京都を奪還すべく堺方面に上陸し、京都へ攻め上るべく準備を行いました。その折に軍議を行いましたが、空転、行き詰まる事もあった場面の中で、三好三人衆方の武将奈良左近、同じく吉成勘介が、発言します。以下、その台詞です。
※信長記 上(現代思潮新社)P94

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(前略)。それ人の世の末に成って、亡ぶべき験(しるし)には、必ず軍を起こすべきに当たって起こさず、罰すべきを罰せず、賞すべきを賞せず、或いは佞人(ねいじん:こびへつらう人。)権に居り、或いは賢臣職を失し、善人は口を閉じ、陪臣のみ威を専(ほしまま)にし、唯長詮議のみに年月を過ごし、徒らに酒宴を長(とこしな)へにし、終いに善に止まり、悪を去る事もなき物と承り及び候。今又此の如く、加様の不順なる事を見んよりは、いざ京都六条に懸け入って、討ち死にせばやと思うはいかに、と憚る所もなく申しければ、各も其の言にや恥じたりけん、(後略)。
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小瀬甫庵が記した『信長記』は、その時代の最中に書かれた記録では無く、後年に書かれた、いわゆる「軍記物」ですので、内容には多少脚色があります。ですので、史料として見る場合は、その点に注意して扱うことになっています。
 しかし、そこにある感覚や部分的な記述は、証言的な示唆もあって参考になることもあります。ましてや、古典として見る分には、倫理観や人としての生の感覚は新鮮にも感じますので、楽しめます。

さて、上記にご紹介した、奈良左近・吉成勘介の発言は現代にも通じる、大変興味深い一節です。元和8年(1622)初版となるこの古典は、江戸時代を通じて改訂が繰り返され、読み続けられています。人と社会の不変のあり方も交えながら、歴史を見るというアカデミックな欲求を満たす、いわば名著として多くの人が支持し、現代に受け継がれています。
 
歴史研究では、解らないことが判る楽しさもありますが、こういった当時の人の思いや感覚に近づくこともまた、楽しさです。

また面白いネタがあれば、ご紹介していきたいと思います。