2013年8月29日木曜日

1571年(元亀2)8月29日の白井河原合戦

前日の28日、白井河原での合戦で、大将の和田伊賀守惟政が戦死し、勝敗が決まりました。その様子をルイス・フロイスの『日本史』-和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について-から抜粋してみましょう。要素を箇条書きにしてみます。

  • 和田殿の息子(惟長)は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
  • (フロイスが遣わした都からの家僕が)、高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
  • ミサが終わった時、私達はそこから(河内国讃良郡三箇)銃声を聞き、1〜2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達はそれが何であるかは知る由もありませんでした。
  • 奉行(惟政)の首級は、すべての他の殿達の首級と共に、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そしてそこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声を上げて、この度の(私達にとっての)不幸な出来事を祝いました。2日2晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんどすべての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。

高槻城跡公園
これらの記述を見ると、合戦は28日午後には大方の勝敗がつき、和田惟政の息子惟長は高槻城に戻っていたようです。
 勝ちに乗じた池田勢は、そのまま東進をはじめ、周辺の和田方の城や集落を攻め始めたようです。白井河原のあたりには、福井・安威・太田・茨木などの城が半里(2キロメートル)程の距離にあります。広い範囲で戦が行われていましたので、記録では、西河原合戦とか、郡山合戦などと記されたものを見かけます。伝承記録は特に、バラツキがあります。

そして間もなく池田勢は、安威川・女瀬川・芥川を越えて進み、高槻城まで攻めるようになります。実際のところ、高槻城に至るまでには、「2日2晩」など数日かかったようです。
 池田勢は、高槻の城下で、討ち捕った和田惟政や主立った人物の首を掲げます。確かに死んだという事実を相手に見せた訳です。

さて、白井河原合戦に関する別の記録を見てみると、興味深い記述があります。この内『言継卿記』8月28日条を見てみましょう。

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戌午、天晴、時正、(前略)。摂津国於郡山於(衍?)軍之有り。和田伊賀守討死云々。武家辺り以て外の騒動云々。茨木兄弟以下300人討死。池田衆数多討死云々。三淵大和守藤英夜半に入り■■城云々。(後略)。
※■=欠字
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高槻城石碑
公卿山科言継の日記には、京都の様子も記録されています。また、天気も書かれていて、京都の天気と高槻辺りは大体同じと思われるので、参考になります。27日〜29日まで、「天晴」とあり、高槻方面も晴れていたと思われます。
 それから記述中の武家辺りとは、将軍義昭と幕府・織田信長や武士を指すのですが、和田惟政戦死の報が伝わり相当に動揺していた事が判ります。幕府は、三淵藤英を出す事を決め、藤英は28日の夜半に高槻城へ入っています。

池田勢は月末頃に高槻城下に達していたようですので、城から惟長と三淵は、惟政やその重臣達の、討ち取られた首を見た事でしょう。また、戦況に応じて、次々と勝ち側に寝返りますので、日に日に池田方の人数は増え、和田方は減って行きます。

441年前の8月29日は、そんな日でした。和田惟政やそれに関係する人々の墓と供養塔が白井河原周辺に沢山あります。近くを通る時、また、見学の時は手を合わせてあげて下さい。想う事、知る事が、一番の供養だと思います。





2013年8月28日水曜日

荒木村重と池田城

荒木村重が摂津国伊丹城を落し、同城を有岡城と改名して拠点とするまでは、池田城を根城に活動していました。
 天正2年11月15日、村重は伊丹城を攻め落とします。そして、その後直ぐに村重は、拠点機能を伊丹へ移します。その頃、池田城は無傷であったため、この資材を伊丹へ移動して、改修を行ったようです。
 
脇田修氏の研究等によると、事実上摂津国守護職としての立場にあった村重ですので、この伊丹(有岡)城は、その国の中心であり、政庁でもあった訳です。

さて、城を解体して資材を移設した後の池田城はどうなったかというと、私は、支配領域が広がったための再編の必要性があり、役割分担が変わったカタチで存続したと考えています。多数の街道を束ねる池田は依然として重要です。
 実際、荒木村重を攻める織田信長は、池田をいち早く落し、丹波方面との連絡と補給を断つ事を最優先に軍事行動を行っていました。
 攻められる村重の側もこの時に激しく抵抗し、この時の事であろう伝承が神社仏閣などに多く残っています。『中川氏御年譜』には、「池田ハ伊丹同然ノ根城ナレバ...」とあり、村重の嫡子新五郎を池田に入れて備えていたとも記述されている程です。しかし、残念ながら池田市内とその周辺の神社仏閣の多くが消失しています。
 
そんな池田城は、伊丹に居城を移す頃、荒木村重によって色々な改修が行われた事を窺わせる記述があります。伊居太神社の宮司が記した日記『穴織宮拾要記 末』に、池田城についての興味深い伝承記録があります。
 
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一、杉か谷川ハ池田ニ城有時ハ甲賀谷ノ方へ流れ本丁大坂ノ下ヘ行、田端町ヘ出宇保村西ヘリヘ流神田宮ノ森ノ所ヘ流大川ヘ流ル、荒木摂津守池田城たたみ伊丹へ引候後下ニ田ヲ可拵時今ノことく川付かヘ候。それ迄ハ小坂前橋ノ坂なし、吟上山ノ小みぞ斗也。十右衛門やしき・喜兵衛やしき其後築上ル也、むかし(天正乱より先ハ)宮の地也。
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五月山公園入口付近の様子
今も池田城跡公園の北側に杉ヶ谷川があり、それが猪名川へ向かって西進しています。しかし、これは村重が付け替えたものとの伝承があります。田を作る目的だったようですが、城と町を守る北側の堀のような役割を果たすようにも考えた改修だったのでしょう。
 付け替え前は、池田本町の大坂の下を通って、田端町へ出て、更に南の宇保村の西縁へ流れ、神田の森から猪名川へ注いでいたようです。
 文中の本町の大阪とは、今の栄本町から建石町の阪を指しています。田端町は、戦前の荒木町を経て今の大和町です。

城の西側から杉ヶ谷川を見る
この川の跡が、小蟹川として伝わっており、今もその跡があります。確かに伝承で書かれている通りに川筋が残っています。
 今では暗渠となっていますが、今も水路として使われています。池田城のある段丘の地形に沿うように、自然と南へ向かう川が出来ていたのでしょう。




<参考写真>
(1)小蟹川跡(白い帯状の所が暗渠)
(2)旧小坂前町
(3)建石町との堺にある阪

<写真の補足説明>
写真(1):黒色のお宅は満願寺屋の酒造家跡。その東側に近接して川が流れていた。
写真(2):伊居太神社前にできた町。道の奥は阪になっている。
写真(3):かつて、栄本町と建石町の堺は急阪で階段があった。大正時代に削平。


2013年8月27日火曜日

1571年(元亀2)の白井河原合戦前夜

今から442年前、1571年(元亀2)の8月28日、摂津国嶋上郡の郡村付近で三好三人衆方の摂津池田勢と幕府方の和田伊賀守惟政勢が、大合戦を行いました。池田方は3,000の兵、和田方は1,000余りの兵で合戦となり、池田方が勝利しました。

ちなみに、この日付は太陰暦ですので、今でいうと10月10日頃です。

この合戦の前日の27日、双方は決戦のために陣取りを行いました。準備の整わないまま決戦を迎えようとしていた和田方に対して、池田方は万全の体制で臨みます。
 池田方は3,000の兵の内、1,000名を露出させ、敵を油断させる策を講じます。残り2,000名を伏兵として、山裾などに隠し、その内300名程が鉄砲を備えていました。当然ながら、弓も備えていたでしょうから、多数の飛び道具を使用条件の良い所に配していた訳です。
 ちなみに。露出させた1,000名の兵は、いわゆる囮としての役割で、これを荒木村重が率いていたようです。 これらは池田三人衆(旧四人衆)が1,000名ずつ率いており、中でも村重は新参でしたから、囮役を申し出たようです。

池田方はそれらを、夜の内に行ったと思われます。

それから、池田から郡村まで、どうやって3,000もの軍勢を進めたか、ですが、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した『日本史』などを見ると、3,000の兵を3隊に分けて進んだようですので、各々が別々の役割を担って進んだのかもしれません。また、軍勢を必要に応じて集中できるように、工夫して進んだのでしょう。道中、特に西国街道付近などに、和田方の拠点があります。
 池田方は最終的に、大軍を展開できる平野部で決戦を行う作戦だったと思われます。和田方にしてみれば、ここが一番良い防衛線したので、池田方は当然それを推定する訳です。それにここから先は、和田領でもあり、地形的にも兵を隠す所がありません。
 それから、池田から東へ向かうには西国街道が主要道になり、もちろんそのルートも侵攻に使われたようですが、もう一本北側に山裾を通る道があります。これは今の箕面・池田線(府道?9号線)がほぼその跡を踏襲しています。
 この道を使えば、今の茨木市宿久庄あたりまで池田家中の藤井氏などの領知ですので、隠密行動も可能だったと思われます。
 ですので、和田方は敵方の兵や行動が掴めないまま、決戦を迎える事となったわけです。
 
1年前にも白井河原合戦の事が気になって、このブログで詳しく取り上げたのですが、もう一度読み返してみて、言い忘れがありましたので、補足してみました。





2013年8月15日木曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。
 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合戦に関する別の要素を見たいと思います。
 
それは白井河原合戦に至るまでの三好為三を巡る動きです。

初めに概況からです。元亀元年4月以降、近江国大名の浅井氏が幕府・織田信長方(以下、幕府方で統一)から離反したのを初めとして、敵対する連合勢力が一斉に京都を目指して進んだ事から窮地に陥ります。これにより幕府方は、一旦反発勢力と和睦を結ばざるを得なくなります。幕府方は天皇の権威を頼み、軍事的失策を挽回しようと画策していました。
 幕府方は辛うじて京都を保持しつつも、四方八方から敵に囲まれ、軍事的には非常に苦しい状況にありました。そしてそれが、翌2年には更に深刻となり、余談を許さない状況に陥り、幕府方にとっては、どん底の状態が続きます。
 当然、幕府方は、軍事的優位に立とうとあれこれと手を尽くしました。どんな要素からも、挽回の糸口を掴もうと調略や奇襲など、色々と積極的に行っていました。

特に元亀元年6月から、幕府方がなぜこれ程までに苦戦したかというと、反勢力側に本願寺宗が加わった事も、その大きな要因です。宗教勢力が加わった事により、各地の反幕府勢力を繋ぐ役目を果たし、また、社会に深く入り込んだ信者が、地域社会に動揺をもたらすようになったからでもあります。
 それが何らかの、区別し易い単位になれば、それなりの対策を講じる事ができますが、人の心までは、見た目で区別する事はできません。心の拠り所が自分なのか、他者(敵)なのか、それが判り易く政権の利益を侵す因子となれば、排除する方向へ動きますが、点在しつつ、その区別がつかない以上、成す術がありません。
 つまり、幕府方領内の住人にも敵を抱える事となり、税の徴収、軍事動員、情報管理などに困難を来すようになります。
 
さて、元亀元年春頃から翌年秋にかけて、そんな状況の中で、幕府方は白井河原合戦を迎える事となります。
 そして三好為三は、元亀元年8月から三好三人衆方を離れ、同3年4月頃まで幕府方として活動していました。その間の為三に関する動きを見ていくと、興味深い背景が浮かび上がってきます。

以下、経年でそれらの資料をご紹介しようと思います。

元亀元年6月、幕府方摂津池田家の内訌を合図に、反幕府勢の三好三人衆方が、京都奪還を目指して軍勢を五畿内地域で大挙蜂起させます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-(史料1)-----------------------
『言継卿記』6月19日条:摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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※但し、『細川両家記』に三好三人衆方として登場する細川典厩は、この頃幕府方として行動しており、事実と異なる。また、死亡している三好下野守も含まれています。

続いて、翌月27日、摂津国中嶋へ入った三好為三などの軍勢が軍容を整えて幕府方を待ち構えます。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634、信長公記P108

-(史料2)-----------------------
『細川両家記』:
一、7月27日、右(『同記』8月18日条)人数摂津国欠郡中嶋の内天満森へ陣取り也。阿波国にて相定まり如く、同郡野田・福嶋に猶以て堀を掘り、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株・逆茂木引き、此の両所へ楯て籠られ也。東国勢相待たれ候由候也。然るに此の処は昔387年以前に源判官平家御退治の時、御陣取りの処也。是れより御船に召され候て、四国西国まで御理運に成り由候也。
『信長公記』:
野田福島御陣の事条、(前略)。御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿(昭元)、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、石成、松山、香西、三好為三、斉藤龍興、永井隼人、此の如き衆8,000ばかり野田・福島に楯籠りこれある由に候。
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この時、本願寺宗の幕府方からの離反は顕在化しており、三好三人衆勢は、摂津国野田・福島などの本願寺宗の影響力の強い地域で陣を取ったり、城を構築するなどしていました。

そんな状況下では、各地で三好三人衆方に連絡を取り始める勢力が増えていきます。また、本願寺宗の中興の祖である親鸞は、公卿日野家に縁を持つ人物でもあり、その日野家と近衛家の近しい関係から、将軍義昭から追われた近衛前久が大坂本願寺に身を寄せていました。この前久も反幕府方勢力の糾合に加担しており、本願寺宗のネットワークを使って、活発な活動を行っていました。それからまた前久は、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄を共に養護していた事から、両者は反幕府勢力として共闘していました。

さて、史料です。三好三人衆方の三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、欠年8月2日付けで、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料3)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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これは、顔ぶれ、史料の内容、その対象地域からして、個人的に元亀元年の史料ではないかと考えています。
 三好為三は、それまでの経緯から阿波系三好氏と折り合いが悪かったのか、三好三人衆方から離反します。準備を整え、これからという矢先に三好三人衆方から中核的な人物が、幕府方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、信長公記P109

-(史料4)-----------------------
『細川両家記』:一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『信長公記』野田福島御陣の事条、(前略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、申し合わせられ候と雖も、近陣に用心厳しく、なり難く存知す。8月28日夜中に、為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
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この時点では、為三が幕府方へ寝返ったとの事は、未確認情報の噂の範囲でしたが、それは事実でした。三好三人衆の中枢に居て、重要な情報を持っていると思われる為三が寝返ったのですから、幕府方は非常に期待し、破格の条件も呑む事を為三に伝えていたのでしょう。
 それについての史料があります。元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ摂津国豊嶋郡の知行希望について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P417

-(史料5)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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この時、豊嶋郡を根拠地として大きな勢力を誇った池田家の当主池田勝正が、三好三人衆方の調略から家中の内訌に発展させた事で城を出、幕府方へ身を寄せていました。なお、勝正は幕府から公式に摂津守護を任されていた人物でもありました。
 この頃、勝正は、摂津池田家の内訌を治めて、復帰を果たすために活動している最中でしたので、この為三の要求について、幕府は頭を悩ませたようです。しかし、幕府方への多方面からの一斉蜂起もあって、僅かな失策が内部崩壊にもなりかねない、幕府にとって非常に苦しい時期でもありました。
 
翌2年も、その緊張は解ける事がありませんでした。再び五畿内地域とその周辺地域から、幕府方を攻めようとする勢力が京都を目指して動きを活発にさせます。

そんな中、京都に一番近い三好三人衆方の勢力であった池田家は、京都の防衛上、当面の制圧目標となり、和田惟政が中心となってこれに当たりました。同時に惟政は、大和国の松永久秀などへの対応も行っており、苦しいやり繰りを迫られていました。

しかし、惟政は、三好三人衆方池田衆に対して、優位に戦闘を展開し、順調に勢力図を塗り替えていました。池田衆は収入基盤の一つである、西牧南郷地域までも失い、池田城近くにまで攻め入られます。
 個人的には、今の箕面川辺りまで惟政の率いる幕府勢が進んでいたと想像しています。ですので、西国街道も幕府方が支配していただろうと考えています。
 
しかしながら、惟政にとっては苦しい戦いが続いています。奈良方面へも出陣しながらの対応ですので、兵も物資も余裕は無かったでしょう。京都の防衛も、イザという時のために戦力と物資を保持しておく必要があります。
 そんな環境の中、地域支配の手隙を埋めるために、めぼしい武将の活用を考え始めるのは自然な事です。幕府は、池田方の領地を一旦欠所にして、再編する事も可能になった事から、三好為三の要求を聞き入れる事が可能となりました。
 そういう状況下で発行されたと思われる史料があります。欠年6月16日付けで、織田信長が、為三の領知について将軍義昭側近の明智十兵衛尉光秀へ音信します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料6)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭へ了簡される事肝要候。
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その信長の決定について、京都の中央政権トップである将軍義昭も、元亀2年7月31日付けで、正式に為三へ通知を行います。
 この頃には、和田勢が更に池田領の中核部分まで進んで優位となり、池田勝正も和田方として、細川藤孝と共に池田城を攻めていました。
※大日本史料10-6-P685

-(史料7)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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お気づきとは思いますが、為三へのこの幕府の正式通知には、信長に要求した、為三の要望は盛り込まれておらず、その対案としてなのか、為三の兄である下野守の知行について、それを認めると伝えています。
 これに加えて、信長から先に提示のあった、為三の本来の所領である摂津国東成郡榎並庄領有は、手柄を立て次第に認める旨、幕府としても相違無いと伝えています。

上記の一連の史料は、幕府の池田勝正への配慮が窺われます。為三の要求に対して、幕府と信長は、明らかに勝正の立場とのバランスを考慮した結果を導いています。
※一方で、幕府としての領地接収の伏線もあったと思われます。

しかし、元亀2年の7月から8月にかけて、池田勝正も加えて和田惟政は、伊丹忠親と共同で三好三人衆方の池田城を攻めていましたが、8月18日、和田・伊丹連合軍は敗走し、この地域での軍事バランスが予想外に大きく崩れました。
 池田衆は200余名を討ち取って勝利したのですが、これは和田・伊丹方にとって大きな損害だったらしく、直ぐに体制を立て直す事が出来ない程だったようです。池田衆はこの隙を見逃す事無く、和田領内へ攻め入るべく大挙東進を始めます。同月22日頃、3,000という大軍を出陣させます。
 和田惟政はこれに対応する事ができず、慌てて本拠の高槻城に戻り、策を講じますが間に合わず、結果は「白井河原合戦」の歴史が示す通りとなりました。

その一連の流れとしての決戦となった白井河原合戦は、いわば象徴的な結果としての歴史的要素ですが、この大合戦に至る要因が必然的に醸成されていた事が判ります。

元亀元年8月、幕府方に寝返ってから、その要求が実現するまでに1年程かかって、やっとその兆しが見え始めたのですが、残念ながら為三は、願望を遂げられませんでした。
 しかし、連続した出来事で見ると、この白井河原合戦に至る過程で、為三にとって大きな転機があった事は、これら一連の史料から窺い知る事ができるように思います。





2013年8月12日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について)

堺市の善長寺
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

色々と史料を見ていくと、三好為三の人物像について、非常に執念深く、欲深い人物だと、個人的には感じています。一方で、その事が為三にとって「諦めない」行動の源になっていたのかもしれません。
 また為三は、右衛門大夫政勝であり、その父は同苗越前守政長であり、そして同苗下野守とは別人であろうとも考えています。
 というのも、為三はその父と考えられる政長(宗三)の跡職を求め、旧領の回復にコダワリ続けている形跡が見られるからです。これは、政長の家督者としての行動であろうと思われます。
 そしてまた、元亀年間頃にはそれだけに止まらず、阿波三好家を裏切った上で、父と兄である下野守の跡職までも後継として認めるよう将軍義昭に求めています。

その一方で、三好下野守については、そのような行動は見られませんし、政勝(為三)と共通の、一貫したこだわりも見受けられません。両者は、血縁はあるものの、全く違う環境で生きていて、性格も異なる人物だったのだろうと個人的に考えています。

この三好政勝と為三が同一人物で、下野守とは同一では無く、両者の父が政長(宗三)である事について、何から説明すればいいのか迷う所ですが、政勝時代に発行した史料から先ずご紹介したいと思います。
 政勝については、伝聞史料も多いのですが、年記未詳や集覧できない環境もあって、政勝と為三の分別が進んでいなかったとも言えます。
 欠年12月6日付け、三好政勝が摂津国水無瀬家関係者らしき高階右京亮へ発行した音信です。
※島本町史(史料編)P363
 
-(史料1)-----------------------
御家門様(近衛)従り尊書下され候。拝見畏み存じ候。仍て摂津国西富松御知行分の儀仰せ蒙り候。聊かも疎意存ずべからずと雖も候。此の如く儀我等若年の事候間、是非に及ばず候。去り乍ら三木与左衛門尉に申し付け候条、定めて様体申し上げるべく候。此れ等の趣き御意を得候へば御披露預けるべく候。恐惶謹言。
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文中の三木与左衛門尉は、三好政長の馬廻衆で、政勝の代にも重臣として仕えている事が判ります。また、文中に「此の如く儀我等若年の事候間、是非に及ばず候。」と言っている事から、政勝が家督を継いで間も無い頃ではないかとも考えられます。天文14〜16年あたりの史料かもしれません。

それから、三好宗三の項目でもご紹介しました、宗三の摂津池田家への不当な介入について、再度ご紹介します。天文17年8月12日付けで、三好長慶がその主人である管領細川晴元に訴えた音信です。
※三好長慶(人物叢書)P98

-(史料2)-----------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。
※■=欠字部分。
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また、この件に関する史料2点もご紹介します。これらも三好宗三の項目で既にご紹介したものです。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎、摂津池田家の執政機関である池田四人衆へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-(史料3)-----------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
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同じく、もう一つ。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、池田四人衆へ宛てた音信です。
※箕面市史(史料編6)P437

-(史料4)-----------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
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そして、これらの失策が三好宗三(政長)・政勝父子の社会的地位を陥れる事になり、中央政治から追われます。その後は、その父子の主人である細川晴元に従って、近江・丹波国方面で長期間に渡って亡命生活を送ります。
 一方で、京都の中央政権では、三好長慶が細川氏綱を晴元に代わる管領として立て、活動していました。また長慶は、京都の安定を望む天皇とも良好な関係を築き、公的には牢人となってしまった晴元にとっては復帰のメドが立たない状況に陥りました。
 時間が経つにつれ、晴元に同情的であった将軍義輝も長慶と和睦して京都へ戻る動きを見せ始め、晴元との心情的な溝も広く、深くなっていきました。間もなく将軍義輝は入洛。次に将軍は三好長慶に晴元との和睦をススメ、両者はこれを受け入れます。将軍は晴元にこれ以上抵抗を続ける力は無いと見、また、京都の安定を考えたのでしょう。
 永禄4年5月4日、晴元は嫡子である六郎を次の管領へ就かせる事を条件に、晴元は摂津国島上郡の普門寺に入ります。しかしながら、これは事実上軟禁でもあり、外部との連絡は自由を制限されていたようです。そしてまた、長慶は約束を事実上守りませんでした。
 
この天文18年から永禄4年の間、三好政勝(為三)に関する直接的史料は今のところ見られません。しかし『言継卿記』などに伝聞的記述として見られます。

三好政勝についての伝聞史料を列挙します。天文19年4月4日、三好政勝の手の者が、京都大原の辻で強奪を行いました。
※言継卿記2-P322

-(史料5)-----------------------
大原の辻に小泉立て置き候関わりの者、細川晴元衆30人計り来たり、両人生害了ぬ。馬一疋之取り云々。香西・三好政勝人数山中(現大津市山中町)に居り候衆云々。
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それから、天文20年3月15日には、細川晴元方三好右衛門大夫政勝などが、京都に乱入します。
※言継卿記2-P427

-(史料6)-----------------------
今朝風聞、進士九郎、三好筑前守を三刀之築き云々。生死取り取り沙汰未定也。直に山崎へ各罷り越し云々。伊勢守以下奉公衆、奉公衆各罷り向い、三好使者於、伊勢守以下生害すべく云々。仍て山城国岩倉山本罷り出、東門前、東山辺悉く放火了ぬ。東洞院二條自り五条へ至り乱妨云々。聲聞師村悉く放火了ぬ。宇津自り、香西、柳本、宇津、三好右衛門大夫等人数出云々。伊勢守宿所雑舎放火せしめ了ぬ。近所の衆之消し云々。(後略)。
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更に、天文22年7月28日、晴元方三好政勝など丹波衆が、京都へ侵入して打ち廻ります。
※言継卿記3-P60

-(史料7)-----------------------
細川前右京大夫晴元入道の人数長坂自り出張、然るに奉公の上野民部大輔以下五六人迎えに出られ、細川内内藤彦七・香西・柳本・三好右衛門大夫以下20人計り武家へ参り、御覧なられ則ち御進発、北野右近馬場、晴元御免也。西院地下之焼き。但し小泉山城守某城堅固に之持ち。三好筑前守長慶御敵捕らえられ云々。終日見物了。大樹晩頭御帰陣。先刻御礼申し輩悉く御送りに参り、各今度北山に陣取り云々。晴元明日北山迄上洛云々。
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同29日、三好政勝など丹波衆が、将軍義輝と打ち合わせのために京都霊山城へ入ります。
※言継卿記3-P61

-(史料8)-----------------------
今日西院近所野伏之有り。殊無き事、内藤彦七、香西、三好右衛門大夫、十河左介、宇津二郎左衛門等5人、武家へ御談合為参られ、御懸け於御酒下され、大館左衛門佐、上野民部大輔、同与三郎、杉原兵庫頭等出られ、同朋共酌也。其の外諸奉公衆談合共之有り。予御見舞い参る為、朽木民部少輔以て申し候了ぬ。
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天文年間までは、伝聞資料であっても三好右衛門大夫政勝の記述が見られるのですが、弘治年間頃からは、両者が入れ替わるようにその兄の下野守の直接的史料が見られ始めます。
 長くなりますので、それについては三好下野守の項目をご参照下さい。

それから、下野守の動向を示す、少し興味深い資料があります。永禄元年の条にある『長享年後畿内兵乱記』の記述です。
※続群書類従

-(史料9)-----------------------
永禄元年2月27日改元。(中略)。6月4日、如意峰に至り、公方衆三好下総・香西越後・甲賀衆、近江国坂本自り出張。浄土寺へ陣取り。鹿谷放火。其の夜中、松永弾正忠久秀大将為摂津・丹波国衆出張。
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とあります。『長享年後畿内兵乱記』は軍記物というか、後世に編纂された資料ですので、取扱いに注意を要しますが、記述中にある「三好下総」は、三好下野守を指すものと思われます。三好下野守は公方衆、即ち、将軍義輝方として活動していたようです。
 これに対して、天文年間頃まで三好右衛門大夫政勝は、丹波国に拠点を置いて活動している事が判ります。また、その一団は丹波衆として認識され、天文22年の段階で将軍義輝の入る京都霊山城へ打ち合わせに入る動きをしています。
 
さて、その三好政勝は、天文22年から永禄元年の5年間に細川晴元の側を離れて、将軍義輝に取り立てられ、右衛門大夫の官位から下野守となったのでしょうか?
 官位としては、(右)衛門府の大夫ですから、五位あたりです。また、下野守は、従五位下です。地位としては上がりも下がりもしていないようです。また記述では、「大夫」と「大輔」とが見られるのですが、大夫は、『公式令』の規定では太政官においては三位以上、寮においては四位以上、中国(ちゅうこく)以下の国司においては、五位以上の官吏の称とされたようです。
 官職としての大夫は「だいぶ」と読み、単に五位を意味する場合には「たいふ」と読み分けたのだそうです。また、五位以下相当の官職の者が「五位」に叙せられた時、官職の下に大夫と付記する(例:六位相当の官職である左衛門尉が五位に昇った場合、左衛門大夫と称する)。
※参照:コトバンクなど

ですので、大夫と大輔が厳密に書き分けられていないように見えるのは、官位が形骸化されつつある状況の中で、音の響きを中心とした宛て字的な現実もあったのかもしれません。正式には、衛門府内に大輔はありません。ただ、総体的に「大輔」は、高い位ではあります。
 天文13年5月に政勝は、新三郎で、父の越前守政長(従五位)から家督を譲られ、右衛門尉(六位)を経て、右衛門大夫(五位)と地位を高めたのだろうと思います。
 
ちなみに天文22年から永禄元年の間、将軍義輝は朝廷から遠く、近江国朽木に居て、亡命生活を送っていますので、官位の朝廷への上奏も難しい状況だったのではないかと思われます。
 
しかし、右衛門大夫と下野守は、同じ人物でしょうか?私は違うと思います。

ちょっと時代が前後しますが、永禄12年5月3日の条の『二條宴乗記』に、三好下野守が死亡したとあります。
 そして、翌月の閏5月14日、この時は阿波三好衆として所属していたらしい、三好為三が『多聞院日記』の記述に現れます。喧嘩があったようです。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

-(史料10)-----------------------
淡路国於喧嘩有て、三好為三被官矢野伯耆守以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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この頃には、三好為三としての社会的認知はされていたようですし、奈良にまでその情報が入って、記録までされています。

長い間、阿波系三好家と対立していたため、血縁を頼りに家に復しても、為三は環境に馴染めなかったのでしょう。また、為三が阿波系三好家へ復するキッカケとしては、三好下野守の死亡する前後だったのかもしれません。
 兄の下野守が死亡した永禄12年5月以降と思われる、下野守を除いた三好三人衆の中に三好為三が加わったらしい史料があります。
 欠年8月2日付け、三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料11)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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上記史料に署名している三好三人衆の内、三好日向守が入道して宗功と名乗り、同石成主税助も長信と名乗っています。各々それを名乗るのは、両者の活動時期の最晩年に見られます。特に日向守の「宗功」との名乗りは、永禄12年初頭から見られるようです。
 また、史料の内容も、大山崎惣中への制札の発行についてでもある事から、地域、権力の有効的時期、顔ぶれ、名乗りの内容など様々な要素を考え併せると、元亀元年ではないかと個人的に考えています。

為三は下野守が死亡した後、実の弟でもある事から、為三がその兄の地位や役割を引継いだと考えられます。
 それから間もなくして為三は、結局、三好三人衆方を離れて、織田信長・将軍義昭方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206など

-(史料12)-----------------------
『細川両家記』:
一、同八月三十日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して摂津国野田より出、御所様へ出仕申され候なり。
『言継卿記』8月29日条:
明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:
(前略)。三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。
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ちなみに、この時に野田・福島へ籠城した武将が、野田春日社の「藤」を詠んだ和歌を納めたと伝わっています。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料13)-----------------------
 瑞垣(みづかき)に、かかるを幾代仰ぎ見む、神の名に、あふ花の藤が枝
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さて、為三はこの時に寝返りの条件を提示していたようで、元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ、摂津国豊嶋郡の領知について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料14)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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これらの史料を見てもわかるように、三好下野守が死亡した後も三好為三は、確かに生きています。同一人物では無いという事が断定できると思います。
 ちなみにこの史料は、為三が三好三人衆の詳しい情報を持つ人物として、将軍義昭方に期待されていた事から、為三はそれを逆手に取り、味方になる条件として、非常に莫大で難しい要求をした痕跡と思われます。
 これは為三にとって、父の代からの悲願である摂津国池田家領の領有をこの時に要求しているものと考えられます。ドサクサに紛れて凄い事をやっているのです。

一方この時、池田勝正が幕府方として居り、三好三人衆方となっていた摂津池田家を討伐して、復帰を目指して活動中でした。
 そういう状況であり、幕府の為三に対する解答は、非常に時間がかかり、一年後に伝えた内容は、以下のようなものでした。元亀2年7月31日、将軍義昭は、為三に宛てて所領についての御内書を下します。
※大日本史料10-6P685

-(史料15)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分(?)当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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また、この史料と連動した織田信長の見解です。同年6月16日、幕府衆であった明智光秀へ三好為三の処遇について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料16)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭忠親へ了簡される事肝要候。
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伝榎並城跡
これは、池田勝正の本領である摂津国豊嶋郡についての三好為三の領知は認めず、為三の本領であった同国東成郡榎並庄の領知を許すという判断です。これは明らかに、勝正との兼ね合いを考えた幕府の判断です。
 また、為三の本知は榎並庄と伝えており、これはやはり、父である政長から家督を譲られた政勝の経緯を辿った判断と考えざるを得ません。

繰り返しになりますが、これらは、永禄12年5月に三好下野守が死亡してからの出来事です。

そして為三は、この幕府からの解答を受け入れませんでした。為三にしては受け入れ難いものがあったのでしょう。
 三好三人衆から寝返ってから1年以上経ってはいますが、柱になる収入、即ち、領知も無かったと思われ、活動に窮するようになっていたのだと思います。しかも、織田信長は、榎並庄内で手柄を立てたら領知を許すと、条件を付けています。
 
それも難しかった為三は、結局、三好三人衆方に復帰します。元亀3年4月、為三は摂津国中嶋城から出て、その近くの浦江城に入って幕府方を攻撃し始めたようです。
 その頃のモノと個人的に考えている史料がありますので、ご紹介したいと思います。形式的に疑問があるとされてはいますが、池田一族の系譜を引く個人宅に伝わっている文書です。欠年10月7日付け、三好為三が上御宿所へ宛てて音信しているものです。
※箕面市史(史料編6)P438

-(史料17)-----------------------
代官之事 一、刀根分、一、茨木分、以上。
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ちなみにこの史料は、現在東大史料編纂所の調査も入っているとの事で、そう遠くは無い内に色々と解明されるかもしれません。

そしてもう一つ。欠年10月13日付けで、為三が、聞咲(所属不明)という人物に音信した史料です。
※戦国遺文(三好氏編2)P272、大阪編年史1-P459

-(史料18)-----------------------
前置き:尚々細々書状を以って申し入れるべく候ところに音無く、中々是非に及ばず候。そもしの事に有るべからず■■■候。尚追々申し承るべく候、以上。
本 文:御状委細拝見せしめ候。その後切々申し承るべく候に、遠路候へば、とかく音無く本意に背き存じ候。一、摂津国大坂の事、京都へ相済まさず候。この一儀 種々才覚申し儀候。この間日々天満宮まで罷り出、大坂へ参会申し候。御屋形様へ重々懇ろ候の事、一、篠原長房・安宅神太郎渡海候。奈良右(不明な人物)河 内国若江に寄せられ候。安宅神太郎摂津国東成郡榎並に在陣候。昨日(10月12日)松永山城守久秀・十河・松山重治等と牧・交野辺罷り立ち候。少々川を越 し、摂津国高槻へ上がり候由候。同国茨木表相働き、同国池田へ打ち越し相働くべく候旨候。一、その表の事、「むさと」之在り由候。推量申し候。扨々(さて さて)笑止に候。細々仰せられ候、随分御才覚この時候。一、織田信長火急に上洛すべく候由候。左様候はば、何方も相済ませるべく候。御屋形様へは池田跡替え地為、河内半国・堂嶋・堺南北・丹波国一跡前へ遣わし候。■斎の事、今少し見合わせ申し候者、相済ませるべく候。堂嶋にて御存知の如く摂り、一円之無き事候間、御馳走申さず無念候。其の為然るべく使いに相調うべく候。一、摂州(意味は不明)尚承られるべく候。いささか等閑無く候。何れも追々申し談ずべく候。此の外急ぎ候間、申し候旨申し候。恐々謹言。
※■=欠字(判読不明も含む)部分。
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この後、為三に関する動きは史料上で捉える事が難しくなります。直接史料は今のところ見つけられていません。

天正3年4月、河内国南部で勢力を保った三好山城守康長を制圧するために、織田信長が軍勢を京都から南進させます。この時、それに関する城等を落として進みますが、『信長公記』河内国新堀城攻め干され並びに誉田城破却の事条に、4月17日の事として、記述が見られます。
※信長公記P167

-(史料19)-----------------------
4月17日、信長御馬寄せられ、新堀城取巻き攻めらる。4月19日、夜に入り、諸手もみ合い、火矢を射ち入れ、埋草を入れ、攻めさせられ、大手・搦手へ切って出る。然るに、香西越後守生捕りに罷りなり、縄懸かり、眼をすがめ、口をゆがめ、御前へ参り候。夜中には候へども、香西と御見知り候て、日頃届かざる働き仰せ聞かせられ、誅させられ候。討ち捕る首の注文、香西越後守・十河因幡守・十河越中守・十河左馬允・三木五郎大夫・藤岡五郎兵衛・東村大和守・同苗備後守。此の外、究竟の侍170余名討死。(後略)。
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堺市堺区にある善長寺
それから、『三好別記』には、三好因幡守として意三との記述があり、また、堺市堺区にある将軍山善長寺の縁起には、政勝を「因幡守」と伝えたりしています。この善長寺は三好宗三(政長)が創建に関わった寺で、その嫡子である政勝(為三)にも関係するようです。

それからまた、三好為三や下野守は、香西越後守と行動を共にしている事が多く、この点では何らかの手がかりがあるのかもしれません。加えて、『信長公記』という軍記物でもある事ですし、どこまで鑑定ができるか、難しい事も多いかもしれません。
 
為三の動きの後半は、もはや「道理」を失い、領知やカタチあるものへの拘りのために、所属をコロコロと変えます。時局を見る余裕も無く、家も保てなくなり、最後には「個人」の単位になっているように見えます。

非常に長くなりましたが、為三について、今考えている事をまとめてみました。今後も為三については注目していきたいと思います。解った事はこのブログでもご紹介致します。

善長寺墓地にある天正元年の墓
追伸:堺市の善長寺には、三好宗三と政勝の墓もあると伝わっていますが、政勝の墓については所在が不明のようです。しかし、墓地の奥にある古い一石五輪塔があり、それには「天正元年」と彫ってあるのが確認できます。墓の素材は花崗岩ですので、剥落が進んで、文字が読めないのが残念です。

天正元年であれば、元亀3年以降、政勝(為三)の記録が見られなくなる事実とも一致します。もしかすると、これが政勝の墓塔なのでしょうか?




2013年7月17日水曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)

この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)
三好下野守(宗渭)については、不明な事も多く、特にその初期の活動についてはよくわかっていません。また、諱についてもわかっておらず、通説となっている「政康」についても断定されたものではありません。

それから、三好下野守と三好為三の関係については、「兄弟」との史料があります。元亀2年(1571)7月31日付け、将軍義昭が三好為三に下した御内書です。
※大日本史料10-6P685(狩野文書)

-(史料1)------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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後にまた、三好為三について取り上げる予定ですが、為三は三好宗三政長の跡取り「政勝」と考えられますので、下野守と為三が兄弟であれば、両者の父は宗三政長であろうと考えられます。
 実は、現代感覚と違って必ずしも長男が家を継ぐとは限らないのですが、後の実績を見ても有能であった長兄の下野守が家の跡取りにならなかったのは、下野守が既に管領細川晴元に近従するなどして、家を離れていたなどの状況があったのかもしれません。それからまた、三好長慶と宗三政長の闘争があり、この時に競り負けた政長は隠居させられたという、急な外圧があった事にもよるかもしれません。

それから、この三好政長は、摂津国榎並庄を本拠とし、榎並城を居城としていました。
 今谷明氏は、三好長慶を中心とする勢力を阿波三好氏、三好政長を中心とする勢力を摂津三好氏などと区別して見ていたようですが、両者のこういった拠点地域を見ての事と思われます。
 長慶よりも一世代違う年長であり、細川晴元の重臣であるなどの安定感があった政長を選び、池田氏は色々と期待しつつ繋がるようになったようです。一方の政長はこれにより、摂津国内で更に安定した勢力基盤を手に入れようともしたのでしょう。
 摂津三好氏の本拠地であった榎並庄に政長は、大変こだわっていたようです。天文18年(1550)6月の江口合戦での敗戦を見ても、こだわりのあまりに状況を見誤ったようなところも見受けられます。政勝が年若かったせいもあるのかもしれません。
 そして、これが跡取りの政勝(為三)にも引継がれ、政勝もまた、その領有に非常にこだわっています。江口合戦で不覚を取ったため、強く心残りになったのかもしません。
 
しかしながら、政勝(為三)と比べると、下野守は兄弟とはいえそれ程のこだわりは見せていません。そういうこだわりをしなくても良い経済環境や立場があったとも考えられます。
 それ故にその活動の初期は特に、活動の様子がわかる史料もなかなか無く、史上でも下野守は、突然現れる感じを受けます。
 三好下野守について、私の調べている享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの間の史料上の初見は、今のところ摂津国川辺郡本興寺(現尼崎市)に宛てた禁制です。三好散位政生として、弘治2年(1556)8月付けで本興寺並びに西門前へ宛てて禁制を下しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P444
 
-(史料2)------------------------------
一、当手甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り寄宿事付き竹木剪り採り事、一、矢銭・兵糧米等相懸け事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
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この時は状況からして、将軍義輝・細川晴元の下で行動していたようです。文末の「仍て下知件の如し」とは、直状形式といわれる文体で、下野守が上意を伝達している事を意味します。

一方、弘治という元号が4年で終わり、その年(1558)の2月28日から「永禄」と変わります。この元号は、将軍を経ずに天皇が申請による改元を認めており、統治者が変わった事を示していました。
 改元の申請者の実力や資金力、朝廷への貢献など、様々な点で検討されますが、それに相応しいと認められたのは、管領細川氏綱を支えていた三好長慶でした。ただ、表向きは長慶よりも上位の人物であった氏綱を立てて行われています。
 そんな中、三好下野守の音信が永禄元年閏6月20日付けで、細川晴元と共に、前記と同じく本興寺に宛てて音信されています。先ず、細川入道(永川)晴元が、摂津国尼崎本興寺へ宛てた史料です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445
 
-(史料3)------------------------------
音信為青銅100疋到来候。誠に以って喜悦候。猶三好下野守散位政生申すべく候。恐々謹言。
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次に、同日付けで、三好下野守散位政生が、尼崎本興寺玉床下へ宛てた音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445

-(史料4)------------------------------
屋形(入道(永川)晴元)出張に就き、御音信の通り、即ち披露致し処、祝着之旨、直札以って申され候。尚相意を得申すべく由候。将又私へ鳥目50疋、御意懸けられ候。御懇ろの段、恐悦の至り候。委細大物左衛門尉申し入れるべく候。恐々謹言。
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更に、同年6月9日付けで、山城国大山崎へ宛てて、細川入道(永川)晴元の奉行人として、三好下野守(政生)・香西越後守が、山城国大山崎へ宛てて禁制を下します。
※島本町史(史料編)P432

-(史料5)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉、一、山林竹木剪り採り事並びに放火の事、一、矢銭・兵糧米相懸け事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩有ら者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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この下野守の一連の動きがあった頃、将軍義輝と三好長慶との間に和睦の機運が高まり、模索され始めます。しかし、将軍と晴元方の内部調整が進まず、しばらくグズグズとします。永禄元年12月、将軍義輝は5年ぶりに京都へ戻ります。

それから2年を経て、大坂本願寺宗の寺である、河内国交野郡の順興寺実従が、三好下野守へ音信しています。永禄3年(1560)4月8日付けの『私心記』に見られます。文中の土屋氏は河内北部の国人です。
※本願寺日記-下-P430

-(史料6)------------------------------
土屋■■■(孫三郎?)返礼ニ、絞手綱ニ具遣わし候。使い四郎左衛門。三好下野守へ樽三荷二種、四郎左衛門ト忠兵衛ト遣わし候。
※■=欠字
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この永禄3年頃は更に京都の政治情勢が変わっています。将軍義輝は永禄元年12月3日に入京し、三好長慶との闘争は一応の落着となっていました。しかし、この和睦に同意せず、細川晴元は別行動を取った事から、その時点で反幕府方となって、公式の身分的には浪人となっていました。
 三好下野守との関係は、この時に岐路を迎えたのかもしれません。下野守の弟である右衛門大夫政勝は、晴元と共に行動し、下野守は将軍や幕府方へ身を寄せるなど、別の道を選んだのかもしれません。
 永禄元年頃、細川氏綱を支えていた河内守護家畠山氏と三好長慶は、細川晴元方に対して共闘していたのですが、永禄2年には畠山家中で内訌が起こります。これに幕府方として三好長慶が介入します。乱はその年の内に沈静化したものの、翌3年早々、内訌を起こした安見氏と畠山氏が今度は一体化して、長慶に反旗を翻します。怒った長慶は再び河内国へ討伐軍を起こします。
  『私心記』を見ると、そんな状況下で、下野守が河内国で行動していた事が判ります。また一方で、この下野守の行動は、反三好長慶として一貫していた可能性はありますが、ハッキリとした事はわかりません。

長慶はこの時、将軍義輝を抱えて幕府方の重要人物(相伴衆)となっており、幕府軍としての河内国討伐戦を指揮していました。
 高い格式を持つとはいえ、いち守護職の権力的な勢力となってしまった現実ではこの力に対抗できず、畠山氏は降伏し、もう一つの守護職権を持つ紀伊国へ一旦落ち延びます。畠山氏は畿内の周縁部勢力となり、これがまた細川晴元勢と繋がるなどして、三好氏に反発します。

この流れの中で、同族であった三好下野守も許されて、三好長慶に迎えられたのかもしれません。長慶の領知が拡大され、人材が必要になったという事もあるのかもしれません。
 というのも、将軍義輝は長慶に、細川晴元との和解を促し、長慶はこれを受け入れます。永禄4年(1561)5月4日、晴元は逃亡先であった近江国朽木を出、堺を経て、摂津国高槻の普門寺へ入ります。こうなれば、三好下野守も、長慶への敵対行動の理由を完全に失います。

ちなみに三好下野守は、「三好下野入道聞書」という刀剣に関する著書も残す程、当時一流の目利き(鑑定家)でもありました。この深い知識は、多くの人に尊ばれ、下野守は細川藤孝の師でもあったようです。
 これは、晴元や将軍義輝の側に仕えるなどで、日本国中の名品を目にし、知識・経験を貯えた事の結晶かもしれません。 また、そういう役割をしていたのかも知れませんね。当時、祝事や贈答などで名刀のやり取りは頻繁に行われています。

さて、河内国が長慶によって制圧された翌年、永禄4年には、三好下野守は長慶方として行動しているようです。『細川両家記』の記述を見てみます。

-(史料7)------------------------------
(前略)、然るに又南方泉州表へは紀伊国根来寺衆、畠山高政、安見方一味して岸和田辺へ陣取り也。是併せ去年十河民部大輔殿死去により出張由也。(中略)。一、和泉国表へは、阿波国三好実休大将為、安宅摂津守冬康・三好山城守・同苗下野守・同苗備中守・篠原右京亮長房・吉成勘介、此の外河内国高屋の城の阿波国衆打ち出し、泉州表へ陣取り。敵味方の間5丁(5,500メートル)・3丁(3,300メートル)には過ぎざりけり。兎に角して年暮れ候也。
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これ以降、三好下野守は一貫して三好長慶の一族衆として、重要な役割を果たしますが、有能であり、人格者でもあったのか、比較的短期間の内に「家老」のような重い役割を持つ立場になっていきます。
 三好長慶が永禄7年に死亡すると、三好三人衆のひとりとして、三好家を支えます。やはり、誰もが認める能力を備えていた事は、こういった結果を見ても窺えます。
 
さて、この三好下野守と摂津池田家も浅からず関係しています。測った訳では無いと思いますが、運命がうまく両者を導いているようにも見えます。池田信正の死後、その後継を巡って家中の対立が起こりますが、弘治3年に官僚集団ともいえる池田四人衆が推す「孫八郎」が死亡したのをキッカケに、もう一方の後継候補であった長正と和解したようです。
 ちょうどその頃、京都の中央政権もひとつの画期を迎えます。細川氏綱を推す三好長慶が、細川晴元との闘争に打ち勝ち、近江国に亡命していた将軍義輝が京都に戻って和睦します。三好長慶が支える氏綱政権が安定し始めた事により、これまでとは違った動きが出始め、様々な再編、新たな課題の克服に迫られるようになります。

池田氏はこの流れに乗り、三好家と血縁を持っていた事が家運の繁栄に繋がり、一族的扱いを受けるようになります。これは政権の安定を図る必要があった時期に、池田家政がうまく対応した事にもよるでしょうし、三好下野守との個人的な相性が良かった事もあったのでしょう。
 池田家にとっては、親戚(長正から見るとオジ)が中央政権の重臣に居るのですから、これ程の良い環境はありません。池田氏は一族扱いを受け、同政権内で禁制の発行も許される程の立場に成長します。
 その後、次の当主勝正の代でも池田家は、三好家との良好な関係を維持し、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄政権樹立にも大きな支援勢力の一つにもなりました。

少し興味深い資料があります。『摂津国豊嶋郡池田村大広寺所蔵池田系図』に、永禄10年7月の事として、摂津池田家の一族である池田宗伯(これは法名で諱はわからず)が、三好三人衆の三好下野守により、大和国北葛城郡箸尾村に知行を得たとあります。
 系図での記述ですので、取扱いに注意は要しますが、しかし、これが時期・場所・人物ともに、全く的外れではないのです。事実、この時には箸尾庄の領主であった箸尾氏は、三好三人衆に土地を追われて居らず、欠所地になっていた事が『多聞院日記』に見られます。
 詳しくは、わが街池田:池田氏関係の図録(奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城跡)のページをご覧下さい。
 
しかし、永禄11年秋、日本史上あまりにも有名な織田信長の中央政権への登場で、三好政権が大きく動揺します。それについての三好方の対応の拙さもあったのですが、池田氏は家の保全のため、一旦三好家から離れざるを得ない状況となります。

直ぐさま三好三人衆は、京都奪還の軍勢を起こし、将軍義昭の居所である京都六条本圀寺を目指して侵攻しました。永禄12年正月の本圀寺・桂川の合戦です。
 三好下野守は、幕府方となった池田勝正などと桂川で対戦しますが、利あらず、三好三人衆の軍勢は敗走します。三好下野守は、この時重傷を負ったのか、その年の5月3日に死亡します。『二條宴乗記』にある記述です。
※ビブリア52号P78 (二條宴乗記)
 
-(史料8)------------------------------
三好下野守入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
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記録に直接的な死因が記されている訳ではないので、病気や高齢による死亡かもしれませんが、当時の史料には「遠行」とあり、則ち死亡した事が記されています。
 しかし、本圀寺・桂川の合戦に関する当時の記述には、三好下野守が戦死したとの噂が記されており、かなりの激闘であった事と、死んだとの噂が出たくらい、三好方の負けが込んでいたようですので、これらの情報を鑑みると、下野守は合戦で深手を負ったのではないかと考えられます。


復活した福島の野田藤
それから、取扱いには注意を要しますが、元亀元年の夏、三好三人衆が大挙、摂津国野田・福嶋城へ入り、幕府・織田方へ攻勢を展開した時の、興味深い資料があります。
 同地野田の春日社の名物「藤」を詠んだ和歌を武将達が納めたようです。その中に、三好下野守の歌があります。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料9)------------------------------
 難波江の、流れは音に聞え来て、野田の松枝に、かかる藤浪
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これは、三好家中の沢田式部少某が編んだ、和歌集らしく、そこに名を連ねる人物の顔ぶれを見ても、同時期にはあり得ない内容ですので、時期の違うものを同じテーマで纏めたものと考えられます。
 元亀元年では、三好下野守も死亡していたと考えられますので、顔ぶれに矛盾があります。この時敵であった松永久秀も「松永弾正」として名を連ねていますが、この時は山城守を名乗っています。敵を入れるとは思われませんので、ここに名を連ねる人物が皆味方であった時期に詠んだ歌なのかもしれませんが、今のところハッキリした事は判りません。

しかし、非常に興味深い資料です。

長くなってしまいました。他にも色々あるのですが、下野守については、やはりこれだけに集中して論文を書いた方が良さそうですね。そう遠く無い内に実現したいと思います。

次は、三好政勝為三について考えてみたいと思います。




2013年7月12日金曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その2:池田筑後守信正(宗田)について)

池田筑後守宗田(信正)は、管領細川右京大夫晴元に重用され、その政権を支える国人の一人でした。各地の守護も政権を支える大きな力となってはいましたが、国人はそういった地域の枠を越えて、江戸幕府でいうところの「旗本」のような、守護を通さずに直接指示を受けるような事もあったようです。

ですので、宗田(信正)は京都に屋敷を持ち、管領と行動を共にしていたようです。将軍への毎月の挨拶などの行事には宗田(信正)の名前が見えます。更に信正は、将軍からも直接的に音信(指示)も受けるようにもなっており、「御内書」などをしばしば受けています。摂津・河内・山城・近江・丹波など、京都周辺の国々では特に、そのような傾向があったようです。
 また、それらの事が常態化すると、外聞的にも身分を整える必要があり、信正は天文8年6月に「毛氈鞍覆・白笠袋」を許されます。これは、格式ある大名のみに許された栄典ですが、室町末期には乱用されていたようです。しかし、社会的な効力はある程度持っていたようです。

ちなみに「宗田」とは、隠居(現代感覚とは違う)後に名乗った入道号で、それが法名ともなったようです。また、「宗」を使う所が三好宗三一統と何らかの共通性を感じます。今のところ、その理由について、はっきりはしていません。

それからまた、細川晴元は阿波国出身であったため、これを支えるために同国の武士が代々側近として取り立てられていたのですが、その大きな勢力が三好一族でした。そのリーダー的存在であったのが長慶と政長でした。
 時が経つにつれて、長慶は独自の理念を持つようになり、人望も得るようになります。それと対象的な運命を辿るのが晴元と政長です。
 こうなると両派は対立するようになり、政権内で武力衝突も起きるようになります。それが中央政権での出来事であったために、断続的に京都も戦火に包まれるようになります。
 不幸にして摂津池田家は、この闘争の中心に置かれる事となり、更に不幸だったのは、政長方につながりを強くしていた事です。
 
以下、前回のように、主な要素を抜き出してみます。

◎天文15年 9月3日
池田信正が細川晴元方から離反する。
◎天文16年 6月25日
池田信正、細川晴元に降伏。僧体となり恭順し、入道号を「宗田」と名乗る。
◎天文17年 5月6日
池田信正、細川晴元から切腹を命じられる。
◎8月12日
三好長慶、三好宗三による摂津池田家への非行を細川晴元へ訴える。
◎10月28日
三好長慶、反細川晴元方として三好宗三嫡子政勝を攻める。

池田信正は細川晴元に取り立てられ、その事もあって大いに家運が開けたのも事実です。しかも、晴元の信頼厚かった三好政長と縁続きになった事で、更に安定の裾野が広がったかに思われたのですが、時代や人自身の変化もあり、思うような繁栄の未来は見出せなかったようです。
 信正にとっても、池田家中の人々の生命と財産を託され、発展し続けるための舵取りを任されている以上、それを削がれる可能性が見えた場合には、回避せざるを得なくなります。
 それが、天文15年9月の晴元からの離反でした。それは信正一人が決めた訳では無く、家中と話し合って決めた事でしょう。
 
しかし、池田家が頼りにした細川晴元の対抗馬である同じ管領候補の同名氏綱は、その勢力があと一歩及ばず、池田家の目論みは遂げる事ができませんでした。
 池田信正は軍事制圧され、降伏します。この時、やはり縁者であった三好(宗三)政長を頼り、細川晴元に詫びを入れ、停戦となりました。しかし、一旦は赦免されたものの、切腹を命じられるまでの約1年間、様々な思惑を交錯させつつ、検討がされたようです。

この間、晴元のその処分を巡って、色々と世間を騒がせる出来事がありました。それらの要素を箇条書きにしてみます。

責めを受ける当人が、僧体となり恭順していれば、よほどの事が無い限り切腹には及ばない慣例があった中で、跡取りも正式に決めさせないまま、晴元が信正の切腹を命じた。
摂津池田家の縁者であり、晴元の側近でもあった三好宗三が、池田家の取り計らいもせず、非道な処置を黙認したどころか、その実行を望んだ。
三好宗三が、池田信正の処分保留中に、その財産を我が物にしようと介入した。
三好宗三が細川晴元と共に、池田信正の跡取りの人事について介入した。

これらの事は、当時の社会(特に京都周辺、近隣地域)にとって、非常に関心を集め、それを巡る細川晴元の処置は大変問題視されました。その事もあって、晴元政権は信用を失い、一気に傾きました。

もちろん、池田家中でもこの問題は深刻化し、内訌に発展しました。三好宗三に関する一派は、池田を追われるなどしたようです。この闘争では、池田信正を補佐する家政機関であった池田四人衆が、次期当主となる候補を立て、別の一派も独自の候補を立てるなどして対立した様子が窺えます。

この時どうも、宗三とは別の血統の孫八郎を四人衆が立て、一方では信正系譜の長正が当主の座を巡って分裂したようです。しかし、その後は和解したらしく、最終的には長正が池田家の正当な当主として「筑後守」を名乗っています。

荒木村重の世となった天正4年に発行された『春日社領垂水西牧御神供米方々算用帳』には、景寿院分として5石の割り当て分が記されています。これは奈良春日神社に納める、今でいう税のようなものです。
 その内訳けが、「二石 宗田御書出也。三石 右兵衛尉御書出也、御蔵納也」とあります。宗田とは信正、右兵衛尉は長正を指すと考えられます。この両者について、取りまとめを行っているらしい「景寿院」という寺(人物か)があったようです。この景寿院とは、信正・長正を供養する寺だったのではないかとも考えられます。また、この両者に関わる事が、景寿院を通して管理されているところを見ると、信正と長正は親子だったのではないかと思われます。

結局、池田家は時代の政治状況や色々な要因が関係して、三好宗三(政長)の血統が当主に就いたようです。しかし、これが三好長慶政権内でも良い方向に作用し、池田長正の代でも発展の基礎となります。これは、後に三好三人衆の一人となる同名下野守との関係があったためだと考えられます。

という訳で、次回は三好下野守(宗渭)について考えてみたいと思います。




2013年7月8日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その1:三好筑前守政長(宗三)について)

堺市の善長寺にある三好政長の墓
この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三を知ろうと思えば、一世代前から見る必要がありそうです。その父(為三が政勝と同一との前提)にあたる越前守政長入道宗三についてみておきたいと思います。

やらなければいけない事なのですが、系図関連はあまり取り組めておらず、私が把握しているのは、宗三には少なくとも3人の子がおり、1人は娘で、2人は男子。その娘が摂津国池田家当主の筑後守信正に嫁いでいるようです。
 2人の男子の内、兄が下野守を名乗り、弟が右衛門大夫で宗三跡職、つまり家督を継いでいます。
 ですから、池田信正にとって宗三の2人の男子は義理の兄弟になるわけです。

それから、私は享禄2年(1529)あたりから池田勝正について調べていますので、それ以前は、残念ながら今のところご紹介できません。政長の出自などは、他のサイトなどをご参照頂ければと思います。すいません。

という事で、私の守備範囲の中から、今回のテーマに関係する三好政長についての出来事を抜き出してみたいと思います。

◎天文13年 5月9日
三好政長、嫡子新三郎政勝へ家督を譲る。政長は隠居して入道となり「宗三」と名乗る。
◎天文17年 8月12日
三好宗三、同族三好長慶により非行を訴えられる。
◎天文18年 6月24日
三好宗三戦死。嫡子政勝は摂津国榎並城へ籠り生き延びる。

この内、大変注目される史料が天文17年8月12日の史料です。三好筑前守長慶が、細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ宛てた音信です。以下、その内容をご紹介してみます。

-史料(1)------------------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所彼の様体者三好宗三相拘い渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言、としている。
※■=欠字部分。
-------------------------------------------

天文17年5月、摂津国池田家当主の池田筑後守信正が、管領細川晴元に切腹させられます。その後宗三は、舅である事を理由に、池田家の領知を同意を得ないまま処分したり、財産を自分のモノにするなどしている事を三好長慶は訴えています。宗三の目に余る非行を池田家から調停を懇請されたようです。
 長慶は、宗三が池田家中の知行・財産を掠め取っていると強い口調で非難してしています。また、池田家中に宗三の親類・宗三派が居り、内訌に陥っているとも伝えています。

兎に角、この事件からは、宗三の人間性を窺う事も出来、非常に興味深い史料です。 

また、この事を裏付ける史料が見られます。参考のため、ご紹介します。欠年11月27日付け、細川晴元方三好之虎(義賢)、摂津国人池田信正衆同名正村など(四人衆)宿所へ宛てた音信です。
※豊中市史(史料編2)P512、箕面市史(史料編6)P437

-史料(2)------------------------------------------
阿波国御屋形様科所摂津国垂水事、先年平井丹後守方と三好政長(宗三)以って調え、相渡され候へき。然るところ、近年また押領候て然るべからず候間、御代官職事、最前平井対馬守方従り仰せ付けられ候条、速やかに渡し置かれ候様、孫八郎殿(池田四人衆が推す当主)へ御異見肝要候。なお、加地又五郎申すべく候。
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更にもう一つ。上記の関連史料です。欠年11月30日付け、細川晴元方某(姓名不明盛■)が、摂津国人池田信正衆同名基好など(四人衆)宿所へ宛てた音信。
※箕面市史(史料編6)P437

-史料(3)------------------------------------------
摂津国垂水儀、此 御屋形様料所筋目を以って、先年三好宗三と平井丹後守方以って調え、相渡され候事候。然るところ、重ねて御押領然るべからず候。御代官職事、先々自り平井対馬守方仰せ付けられ候条渡し置かれ候。なお、御異見候者喜悦為すべくの由、書状以って申され候。別して御気遣い仕るべく候 。
※■=欠字部分。
-------------------------------------------

政長が善長寺の創建に関わる
このような状態であったにもかかわらず細川晴元は処置をせず、宗三への加担をやめなかったために三好長慶は、父親の代から仕えていた晴元から離れる事を決意します。
 天文18年に長慶と宗三は衝突し、宗三は摂津国江口城で戦死してしまいます。代替りした嫡子政勝は落ち延びます。

次は、この一連の関係の中での池田筑後守宗田について、取り上げようと思います。




2013年7月6日土曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(はじめに)

三好為三と同苗下野守について、花押が一致したとの事で、同一人物説があるのですが、私も初めはその説を支持していました。しかし、両者の流れを見ると、必ずしも一致しません。
 当然、私も花押を見比べていく必要があり、それをしっかりとすべきですが、今のところ史料の整合性を中心に見ている状況です。
 当時の史料などを見ると、両者は兄弟であるとの記述も見られるので、こういった点をどう説明するかについて、課題もあるように思います。今では「両者は別人」と、個人的に考えるようになっています。
 
それから、両者は池田勝正にとっては縁続きであり、一族グループにもなって、関係の深い間柄です。ですので、この事をハッキリとさせておくことは、池田家の歴史を研究する上でも重要です。
 永年気になっていた事ですので、少し考えてみたいと思います。今後は、以下の要素などでいくつかに分けて、記事を書いて行ければと思います。


 ◎その1:三好越前守政長(宗三)について
 ◎その2:池田筑後守信正(宗田)について
 ◎その3:三好下野守(宗渭)について
 ◎その4:三好右衛門大夫政勝(為三)について
 ◎その5:白井河原合戦と三好為三めぐる動き
 ◎その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素
 ◎その7:三好下野守と為三が同一人物と考えらている史料群
 ◎香西某について



2013年6月24日月曜日

池田四人衆から三人衆へ

<概要>
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
 そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。

その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
 この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
 池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
 朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
 そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
 出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。

その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。

家政機関の変遷
<(a)後任当主擁立時代>
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。

<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
 それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
 ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。

<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
 3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
 もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
 伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
 池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。

<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
 「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
 ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
 ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
 池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
 一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。

元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
 これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。

同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。

<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
 しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。