2012年11月22日木曜日

旧三箇村歴史案内ツアー

旧下三箇地域の下野付近
先日、大東市立歴史民俗資料館が主催する、旧三箇村歴史案内ツアーへ参加してきました。大東市史編纂委員による説明を受けながらの見学でしたので、大変勉強になりました。

江戸時代に記された、大和川付け替え後の陸地化した地割り図の様子から、三箇村地を抽出する事で、島であった頃の推定がされています。また、そこを通る街道を歩き、実際の地面の高低差を観察する事もできました。
 やはり、島の跡になっているところは、少し高くなっており、その事にまつわる様々なお話しもあって、興味深かったです。

三箇菅原神社
さて、三箇といえば気になるのが三箇城の位置です。しかし未だに結論は出ておらず、従来の三箇菅原神社付近の説を踏襲するものでしたが、本当にそこが正しいのかどうかは懐疑的な見解を持っているようです。

近世の三箇村は、上三箇と下三箇に分かれており、213軒の家に1,127人が暮らしていたようです。
 また、中世時代に開基及び起源を持つ寺が5つ程あります。

真宗大谷派大長寺
・本伝寺 ※伝元徳年間:1329〜30
・正覚寺 ※永正14年(1517)8月1日付の阿弥陀如来絵像所蔵
・大長寺 ※伝永正14年開基
・水月院 ※中世に遡るか
・本妙寺 ※伝文安2年(1445)京都本圀寺日助上人が伽藍創建

そして、その三箇庄から出た三箇氏はキリシタン大名として有名で、領内にキリシタンも多数居り、教会もあったとされていますが、それ以前からあった寺と宗教も同時に存続していたとも考えられるようです。

住道駅から飯盛山を望む
そしてそのキリスト教徒のための教会は、今の「住道」の地名の由来とも関係しているとする説もあります。教会の「尖塔」が隅にあり、「隅堂:すみどう」から「住道:すみのどう」に転訛したとも考えられています。住道は明治以降に漢字が定着していて、この文字があてられた理由は今のところ不明なようです。
 
水月院跡
それから三箇城の位置ですが、以下のような条件から、菅原神社付近がそうであろうと考えられているようです。
 
・菅原神社は、産土神で土着の神様である
・曹洞宗系の寺院が隣接して存在したらしい事
・神社の周囲は更に地面が高くしてある
・菅原神社から北へ伸びる旧街道は「城の堤」と呼ばれていた事

しかしながら、今回「島」と推定されるであろう領域からすると、その城の位置の意味合いがわからず、不自然に思えてしまい、必然性がわからないのです。また、地面の高さから言えば、重要施設を作る割には、十分な高さとも言えない要素もあり、適切な場所かどうかも少し疑問があります。
 いずれにしても、もう少し深野池や新開池の正確な淵取りがわかれば、島との関係性も明らかになる事でしょう。島と池との関係がはっきりすれば、今の推定地の必然性がわかったり、他の位置の可能性も出て来ると思います。

城ノ堤(三箇4〜6丁目にかけて)
いずれにしろ、発掘をして、物理的な検証と共に考慮しなければ、ここまで環境が変わってしまうと不可能なように思います。

また、何か三箇城について情報があれば載せていきたいと思います。

2012年11月13日火曜日

黒田勘兵衛と池田勝正と播州青山の合戦 その2

永禄12年8月13日、池田勝正など幕府勢は、但馬・因幡国守護の山名祐豊を討伐し、伯耆国など周辺で影響力を持つ尼子氏勢力にも備えるための布石を打って帰途につきます。
 しかしこれは、幡州青山の合戦で、友軍であった龍野赤松政秀勢が敗退したため、退路を断たれる恐れもあって、播磨方面へ後退したものとも考えられます。ちょうど幸いに、山名祐豊の居城である此隅城を落とした事で目的は達成されており、幕府方の撤兵は外聞としても不自然でありません。

そんな中で、幕府方の検使(目付)であった朝山日乗が、同月19日付けで、毛利元就・同被官福原貞俊・同児玉元就・同井上春忠・元就衆小早川隆景・同被官口羽通良・同牛遠・同山越・元就衆吉川元春・同被官桂元重・同井上就重・元就衆同名輝元・同被官熊谷高直・同天野隆重へ宛てて音信します。
 
この内容は大変興味深い内容です。以下その内容を抜粋で紹介します。

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(前略)
一、出雲・伯耆・因幡三カ国合力為し、則ち、木下藤吉郎秀吉・坂井右近政尚人に五畿内衆20,000計り相副えられ、日乗検使の為罷り出、但馬国於銀山を始めとして、子盗(此隅)・垣屋城、10日の内18落去候。一合戦にてこの如く候。但馬国田結庄・同観音寺この両城相残り候。相城申し付けられ候。山下迄も罷り下らず、近日一途為すべく候。御心安かるべく候。一、備前・美作両国御合力の為、木下助右衛門尉・同名助左衛門尉定利・福島両三人、池田筑後守勝正相副えられ、別所小三郎長治仰せ出され、是も日乗検使罷り出、20,000計りにて罷り出、及び合戦。増井・地蔵院両城、大塩・高砂・庄山、以上城5ケ所落去候。置塩・御着・曽祢懇望半ばに候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。只今小寺政職相拘わり候条、重ねて柴田勝家・織田掃部助忠寛(信昌)・中川重政・丹羽五郎左衛門尉長秀四頭申し付けられ候。15,000之あるべく候。近日為すべく候間、即時に小寺・宇野申し付け、(竜野)赤松下野守政秀一統候て、備前国三石に在陣仕り、宇喜多河内守直家・備中国人三村元親と申し談じ、備前国天神山根切り仰せ付けられるべく候。只今者播磨国庄山に陣取り候。
(中略)
左候て、五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め、阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。但し在京計りにて、当年は遊覧あるべくも存ぜず候。一、豊前・安芸国和睦有る事、信長といよいよ深重に仰せ談ぜられ、阿波・讃岐国根切り頼み思し召されと候て、相国寺の林光院・東福寺の見西堂上便に仰せ出され候。
(後略)
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通信内容は、事実である部分とそうでない部分が入り混じっています。不利な情況は伝えていませんし、更に伊勢方面から15,000の軍勢を播磨国へ入れると伝えています。しかし、この時点で実現は難しい誇張表現があります。実際にそれは行なわれていません。

興味深いところを少し見てみましょう。

「置塩・御着・曽祢懇望半ば候。急度一途為すべく間、御心安かるべく候。」との一節は、交渉と軍事的圧力で、屈するだろうとの見通しを立てているようです。更に、播磨国人の小寺・宇野氏(この時は敵方なのだが)に命じて、龍野赤松氏と合流し、備前国天神山に居城するに浦上宗景を討つ、と言っています。
 その時、宗景の重臣である宇喜多直家や毛利方の備中国人三村元親も幕府方に加わる、としています。そして「根切り」、皆殺しにする、と伝えています。
 実際、9月になると宇喜多直家は、浦上氏から離れて乱を起こします。幕府方は調略を行っていたのでしょう。

また同時に、「五畿内・紀伊・播磨・丹波・淡路・丹後・但馬・若狭、右12カ国一統に相締め」と、毛利元就へ支配領域の宣言を行っています。この時点で幕府は、いずれの国でも全域に支配が及んでおらず、不完全なままでしたが、勢力範囲を明確化させています。
 そして更に「阿波・讃岐国か又は越前国かへ、両方に一方申し付けられるべく体候。」とつけ加え、更なる領域の拡大方針までも示しています。これらは毛利氏にとって、あまり面白くない動きだとは思います。九州の大友氏との調停を幕府に依頼する引き換えとして、どさくさ紛れに、毛利氏の弱みにつけ込んだような感もあります。

幕府が、永禄12年夏に播磨へ侵攻した理由は、そういった毛利氏との密約のようなものもあり、同時に領域の拡大もありました。
 ですので、10月に池田衆が幕府方として再び播磨国へ入っていますが、幕府勢は夏の侵攻をきっかけに進駐して、軍勢をとどまらせたと考えられます。当番制などで、一定数を保っていたのでしょう。

10月14日付けで織田信長は加古庄に宛てて禁制を下します。宇喜多直家の調略も成功し、目途が立った事から、幕府方は再び軍事功勢を強めます。詳しい事は解らないのですが、同月26日、池田勝正など摂津衆が再び播磨国へ出陣し、室山(室津)城・乙(おと)城などを攻撃しています。
 これは、三好三人衆とも同盟する浦上宗景方への攻撃で、播磨国から追い出す目的があったようです。同時に重臣の宇喜多氏の反乱も起きた事で、毛利方からの圧迫を強烈に受ける事になり、たまらず浦上氏は降伏します。
 この時、幕府勢は瀬戸内海沿いを進んだらしく、英賀などこの方面の国人も幕府方に味方するようになっていたようで、海陸の通路を利用したと思われます。

それから、この時ちょっと奇妙な事件が起こります。池田衆が龍野方面に出陣していたのですが、その道中に鵤荘があります。池田衆はこの荘内に乱暴をはたらき、「御太子絵」を池田に持ち帰ったというのです。
 しかし、元亀2年になって「色々と不吉な事が起こるのは、絵を持ち帰った事だろうから返す」といって、池田衆は斑鳩寺仏餉院に伝えています。
 どうして池田家の一部が乱暴を働いたのか、よくわかりません。幕府に何度も徴用・動員され、不満が募っていたのかもしれませんね。将軍義昭方となり、守護格に取り立てられましたがそれから1年、休む間もなく幕府のために働かされています。

池田衆はこの後間もなく帰途についたようです。11月頃と思われます。今のカレンダーでいうと、12月中頃の寒い時期です。


 

2012年11月6日火曜日

黒田勘兵衛と池田勝正と播州青山の合戦

平成26年(2014)の大河ドラマに黒田勘兵衛(孝高)が取り上げられる事になったようです。
 最近の大河ドラマは低視聴率を続けていますが、戦国時代を取り上げる事で、業界期待通りの視聴率につながるかどうか、注目したいところですね。

青山古戦場跡
さて、大河ドラマで播磨国方面が取り上げられるとあって、当方もその動きに追従したいと思います。
 黒田勘兵衛の出自など詳しくは、ご存知の方も多いと思いますので割愛したいと思いますが、勘兵衛の名を一躍、世に知らしめたのが「播磨国青山の合戦」でした。
 勘兵衛は10倍もの敵を正面に受け、見事に撃退し、思い通りにはさせませんでした。また、領地は敵に囲まれていて、ひとたび合戦に負けたり、降服したりすると、領地・領国を失う瀬戸際にありました。

伝置塩城大手門(姫路城「との門」)
そんな中で勘兵衛を世に知らしめた「青山の合戦」では、池田勝正が勘兵衛に敵する幕府方摂津衆として、一連の戦いに加わっています。
 この頃、播磨国は守護家の赤松氏が2つに割れ、共に争っていました。播州平野を二分する山々(峰相山から南へ馬山・城山・壇特山・京見山などが連なる)に隔てられて、そこを境にして東西に領域を持ちました。
 西には守護家から分かれた赤松政秀が、龍野城を中心として展開し、東には守護家筋の赤松義祐が置塩に居城します。
 黒田勘兵衛は、守護家の赤松義祐に仕える小寺政職の重臣として姫路城に拠点を持ちました。今の国宝姫路城が建てられる前は、黒田勘兵衛の一族が住む城でした。
 永禄12年夏、将軍義昭が20,000の軍勢を播磨国方面へ向けます。これには複合的な要素が重なっています。以下、箇条書に整理して示します。
 
<原因>
・毛利氏の浦上方牽制要請が幕府にあった
・毛利氏の尼子(山名)方牽制要請が幕府にあった
・但馬・因幡国守護の山名氏討伐を幕府として企図した
・龍野赤松氏の支援の必要があった
・播磨国の平定を幕府として企図した
・四国の三好三人衆を討つための布石をうつ目的があった
・瀬戸内海の制海権を幕府として得る必要があった
 
大塩町の旧市街にある西光寺
幕府として、これらの要素を一気に解決するために、大軍を準備して差し向けました。この時に池田勝正は、相当数の兵を出したようです。
 この動きを幕府勢の「但馬の山名攻め」と「播磨出兵」などと別々の捉え方をしているようなのですが、よく見てみると一連の行動である事がわかります。
 この動きは、後の「越前朝倉攻め」の基本ともなる動きをしますが、双方で大軍を用意したのは、示威行動であると共に要所に兵を割くためでもあります。
 幕府軍は、播磨国の増井・地蔵院・大塩・高砂・庄山の城を落します。このあたりは置塩赤松氏の領域です。姫路・御着の城をとり囲むように幕府方の足場を作ります。
高砂市阿弥陀町の地蔵院
しかし、それ以上西へは進まず、市川沿いを北上して但馬国へ向かい、山名氏を降服させます。10日間で18もの城を落とし、山名氏の居城である此隅(こぬすみ)城を落とし、生野銀山も手に入れました。池田勝正もこの方面へ出陣していました。

しかし、無敵と思われた幕府方の行動を狂わせたのは、黒田勘兵衛の活躍でした。普通に考えれば圧倒的優位の龍野赤松勢が負けるはずはありません。勘兵衛は、青山の合戦で勝利し、幕府方赤松勢を撃退したのです。
 幕府方は早期の後退を決め、一旦勝ち取った優位性を崩さないように政治的な方向性に持ち込んで、決着を図ろうともしたようです。
庄山城遠景
播磨国内で、再び反幕府勢が盛り返すと、但馬へ入った軍勢の退路を断たれてしまうばかりか、山名氏の残党が再び勢いづきます。また、四国などからも三好三人衆の勢力が、反幕府方として播磨国へ来援してしまい、形成は一気に逆転してしまいます。

8月19日付けで、幕府方朝山日乗が、毛利元就に対して庄山城から状況を伝えています。幕府軍の優位を伝えているのですが、嘘も書いています。
 そしてまた庄山城は多分、軍事行動の拠点とし、要地としていたのでしょう。この点について詳しくは今のところ解っていません。

英賀城本丸跡
さて、10月になると、織田信長が、加古庄へ宛て禁制を下します。幕府方が播磨国で再度攻勢を強めます。しかしこれは、龍野赤松氏への援軍だったようで、池田衆はこれにも従軍しています。龍野赤松氏は随分と弱っていたようです。

この2回目の播磨国出兵は、完全に幕府方が播磨国内から兵を退かず、庄山城などの拠点に維持しつつ、時宜を待って再び攻勢に出たものかもしれません。毛利氏の協力もあったために、そういった機会に敵を制圧しようと考えた可能性はあると思います。

2012年10月24日水曜日

池田・箕面市境にある石澄滝と鉱山

五月山から北には無数の鉱山跡があります。五月山は北摂山塊の南端にあたり周辺には「間歩(まぶ)」跡も多く見られます。近くでは多田銀山が有名ですね。

しかし、池田市域にも間歩跡がいくつかあります。五月山の連なりで頭頂部にあたる六個山(396メートル)の西側に、間歩跡が残っています。貞享3年(1686) に鉱山が開発され、京都の浅川三郎兵衛という人が8年間に渡って銅を中心に採掘したようです。
 更にこの鉱山からは、銅の他銀も採れたらしく、貞享4年の資料(吉田家文書:大谷用水番水手形)には「銀山」と記述されているそうです。

その後、写真の場所から少し南で、太平洋戦争中にも採掘していたようです。そこは秦野鉱山と呼ばれ、主に鉛を採掘していたようです。

写真は、一番大きな間歩です。中には入れませんが、入り口は2メートル程あり、下向きに数十メートルはあろうかと思える、怖いくらいの穴があいています。

一番大きな間歩の跡

また、ここには石澄滝があり、落差は15メートル程でしょうか。落ちたら死ぬくらいの高さです。周辺は岩場で、道具が無いと、登るのは難しいところです。

石澄滝

そんな立地からこのあたりは修行の場で、その跡も沢山残っています。箕面寺や勝尾寺が近くにありますが、真言宗系の寺院(山伏の格好をする)が付近には多く、五月山は修行の山でもありました。ですので、池田の畑から高山、余野、止々呂美、勝尾寺、箕面寺方面へつながる山道もありました。

また、この六個山の南側、石澄滝が流れ出る丘陵地あたり、現在の箕面市新稲にある曹洞宗栄松寺は、池田一族の関係者が創建したお寺です。更に六個山の草地は、池田一族出身者が中心となって開いた新稲村の草地でもありました。今もその辺りは新稲の住所表示です。
 ちなみに、この石澄滝に発した流れは、南流し、石澄川となって箕面市瀬川地域で箕面川と合流。池田市井口堂地域を経て、猪名川へ注ぎます。

鉱山開発される前にも当然、池田城やその町とは関係の深い地域でしたが、その後もこのように池田と深い関係を持っていた地域です。


参考サイト1:大萱原鉱山(大阪府の鉱物産地を訪ねて・その14)
参考サイト2:鉱物趣味の博物館
参考サイト3:五月山遠望(わが街池田:池田城関係の図録)


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2012年10月14日日曜日

白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について

『陰徳太平記』の記述にも登場する藤井加賀守なる人物についてですが、直接的な史料はあまり無いものの、実在した人物であることは間違い無いようです。

幸福山太春寺の山門
いわゆる、池田二十一人衆の連署状とされる『中之坊文書』に、藤井権大夫数秀なる人物が署名をしています。また、荒木村重が高山右近など複数の人物宛てに発行した書状(『佐佐木信綱氏所蔵文書』)にも、藤井加賀守と思しき人物が見られます。

また、藤井加賀守の領地の寄贈を受け創建された幸福山太春寺(たいしゅんじ)があり、また、箕面市外院に藤井加賀守と伝わる供養のための墓*があります。それに荒木一族の関係者の墓も連なっています。
※供養のための墓とは、埋葬した場所とは別の、拝むための墓塔があり、この地域の独特とも思える文化があります。

史料としては数が少なく、判断に迷う所ですが、それにまつわる史跡も含めると、おぼろげながら推定もできそうです。
伝藤井加賀守の供養墓
藤井姓は、箕面市如意谷・外院地域には多くあり、戦国時代には藤井氏が、このあたりの豪族であったのではないかと思われます。
 藤井加賀守は荒木村重の重臣であったとも伝わっており、そういったところを考えると、それなりの統率者でもあった事が推測できます。豊島郡の東の端にあたり、今の箕面市如意谷や外院あたりに勢力を持つ豪族で、垂水牧であった萱野にも近く、箕面寺・勝尾寺、西国街道なども要素に持ち、荒木村重を支えた人物ではなかったかと思われます。

墓の裏に「荒木摂津守■■」
もちろん、池田勝正時代には、確実に池田家中の人物であったようですが、それ以前からも同様であったと考えられます。

今のところ、藤井加賀守についてはそんな個人的見解を持っていますが、今後また、何か解ればこのブログでご紹介したいと思います。


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2012年10月13日土曜日

旧暦8月28日は、今年のカレンダーでいうと10月13日です。

旧暦8月28日は、今年のカレンダーで言うと、10月13日です。
旧暦の元亀2年8月28日は、太陽暦の10月13日です。そうです、白井河原合戦は、こんな季節に行なわれたのです。

数字だけ見ていると、「夏」ですが、収穫の時期、しかもこんなに涼しい時期に合戦が行なわれました。朝晩は、随分と寒いですよね。また、『言継卿記』など当時の日記史料を読みますと、京都も奈良も晴れていたようですので、摂津国中部、白井河原あたりも晴れていた事と思います。
 歴史上の出来事を、現在に置き換えてみるのも、結構面白いというか、意義があります。

この合戦で、三好三人衆方池田衆の荒木村重や中川清秀は名を挙げ、近隣に知られた武将となっていきます。

白井河原合戦について、『陰徳太平記』の「白井河原合戦並びに高槻茨木両城合戦之事」を見てみます。
 (前略)。かくて各先陣2陣と手配りし、荒木信濃守村重、先陣にぞ進みける。(中略)。相続く士には、中川瀬兵衛尉清秀・池田久左衛門尉知正・安部野仁右衛門・星野左衛門尉・山脇加賀守・同名源太夫・野村丹後守・藤井加賀守・荒木善太夫・同名善兵衛・伊丹勘左衛門・川原林越後守・秋岡次郎太夫・本庄新兵衛・粟生伊織・安都部弥一郎・北の河原(北河原?)新五・同名与作・同名与一右衛門・福田午の介・佐伯庄衛門など皆武功度々の勇者にて、何れも足軽の大将也。此の外二十一人衆に、池田清貧斎を始め、老功の士、勝正の幕下に属して、後陣を堅め、都合2,500余騎、上郡の馬塚に屯を張る。両陣白井河原を隔てて、互いに螺を吹き立て、敵の模様を窺いける。(後略)。

また、『耶蘇会士日本通信』の「1571年9月28日付、都発、パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰」にはこうあります。
 (前略)。翌日早朝此の敵は3,000の兵士を3隊に分ち、新城の一つを攻囲せん為め出陣せり。(中略)。彼(和田惟政)は此の時対陣し、敵1,000人の外認めざりしが、直に山麓に伏し居たる2,000人に囲まれたり。敵は衝突の最初300の小銃を一斉に発射し、多数負傷し、又鎗と銃に悩まされたる後、総督(惟政)の対手勇ましく戦い、既に多くの重傷を受けしが、総督も所々に銃傷を受けたれば、遂に総督の首を斬り5〜6歩進みたる後其の傷の為首を手にしたる侭倒れて死亡したり。彼の200の武士は悉く総督と共に死し、彼の兄弟の一子16才の甥(茨木重朝)も亦池田より出でたる3,000人の敵の間に斃れたり。和田殿の子は高槻の城に引き還せしが、総督死したるを聞き、部下の多数は四方に離散し、彼に随従せる者は甚だ小数なりき。(中略)。総督の首級は他の武士一同のと共に其の城下に持ち行かれ、敵は諸方より同所に集まり、非常なる歓喜を以て不幸なる事件を祝い、2日2夜に和田殿領内の町村を悉く焼却破壊し、一同其の子の籠りたる高槻の城を囲みたり、とあります。

旧暦8月28日に行われた白井河原合戦に破れた和田方は、本拠の高槻城に入り、防戦の順日を行います。また、幕府方はこの報に接し、三淵大和守藤英を急派させています。


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2012年10月12日金曜日

和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る

元亀2年(1571)8月27日、日本史上でも決して小さな出来事とは言えない「白井河原大合戦」の前日です。記録は陰暦ですので、現在の太陽暦に変換すると、本日10月12日です。
 田畑の実り豊かなこの時期に、反幕府方池田衆と幕府方摂津守護和田方が、攻防戦が繰り広げられて、いよいよ決戦のその時が近づきました。
 
この合戦で、池田衆が京都の至近である茨木方面で勝利し、京都の防衛に大きな穴が空いてしまいました。幕府方は京都を守りきれず敗走する事も十分にあり得た深刻な事態でした。なぜなら、一連の武力侵攻で池田衆が西国街道とその分岐点を押さえたからです。池田衆は、反幕府勢力であり、古巣の三好三人衆方です。

この白井河原合戦について、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの記した当時の報告書『耶蘇会士日本通信』には、その様子が詳しく記述されています。

そこには、(前略)、惟政勇を恃(たの)みて聞かず、高槻を去る3里計りの糠塚に陣す。其の翌日、即ち元亀2年8月28日に惟政は、白井河原に突撃して村重らの軍と戦い、(後略)、とあります。

白井河原の合戦は、早朝から行なわれていたようですので、前日に池田衆と和田惟政は陣取りを終えていたと考えられます。池田衆は今の茨木市郡のあたりに陣を取っていますが、ここに陣を取るには、宿久庄城や里城(同市藤の里あたりか)などを既に落としていたと考えられます。
 対する和田惟政は、自軍の体制が整わない中で快進撃を続ける池田方を口惜しく思いつつ、幣久良山(てくらやま)に陣を取り、池田衆の様子を見、諸方への連絡等、手筈を整えていたようです。
 惟政は、池田衆に不意を衝かれ、不本意ながらも白井河原付近まで池田衆の侵攻を許してしまいました。惟政は要害性があり、守りに適したこの付近で、池田衆の前進を阻む事ができると考えていたものと思われます。
 
池田衆は夜の間に伏兵を配し、惟政を誘き出す作戦に全力を尽くし、この先鋒に荒木村重が就いていたようです。村重は翌日の合戦で期待通りの活躍を見せ、近隣に名を知られる武将となります。

兎に角、双方共に「明日はいよいよ決戦」との決意を堅め、陣を周到に組んでいたと考えられます。

詳しくは、「白井河原合戦について」の項目をご覧下さい。


摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




2012年10月7日日曜日

441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣

元亀2年(1571)8月22日早朝、三好三人衆方池田衆は、幕府方摂津守護和田伊賀守惟政に決戦を挑むべく、3,000の兵を西へ向けて出陣させました。今から441年前です。
 また、当時の記録にある日付は旧暦であり、陰暦ですので、現在の太陽暦で言うと、正に「今日」です。

そうです。新米の季節です!

つい、グルメの方向に行ってしまいました。すいません。

さて、この時期に決戦を挑むというのはやはり、収穫をも手に入れるべく計画しているのは明らかだと思います。武力闘争に勝てば、今現在の実りと、その後の収穫も手に入れる事ができるのです。

池田衆は、和田方に領地を侵されていましたので、この一戦に心血を注ぎ、挽回を図ろうとしていたようです。池田衆は持てる力の大部分を注ぎ、準備も行ったようです「3,000」の兵とは、当時の単独動員数としても大きな部類です。
※控えなどで、他にも兵を残していたようですので、総力ではありません。

池田衆は、和田惟政と決戦を挑むべく、西へ進みます。3,000の兵を3隊に分けて、池田を発ちました。この3隊に分けた事も、計画があっての事だったようです。

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2012年9月24日月曜日

組織と個人を結びつけ、維持する事

組織と個人を結びつけ、維持する事について、個人的に関心を持っています。それを維持し続ける要素とその中心たる核。また、それを維持し、発展させて行く要素とは何でしょうか?

これは、現在にも通じるテーマです。

池田勝正が生きた時代の日本には「家」制度があり、その中心は血族の結合体です。また、運命共同体としての「村」という社会。そして権力。

しかし、それらは当たり前のように、何もせず存在した訳ではありません。もちろんルールも必要ですし、持続活動のための利益も必要です。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず...。」有名な一節もありますね。これは、人間社会の不滅の真理のように思います。

近江守護家の六角氏は、あれほどの権勢を誇ったにも関わらず、永禄11年秋、あっけなく崩れ去りました。三好長慶亡き後の三好家、同じく織田信長...。もちろん池田勝正亡き後の池田家、それに続いた荒木村重...。
※もちろん、滅びていない家もありますよね。滅びたところばかり見てもだめなのですが、滅びる時にその組織の真理と核が現れるように思います。

その中心は人間です。その人間の何がそうさせるのか。

家庭も組織も地域も国も、集まって生活する為には、何が必要なのでしょうか?それを支えるのは何でしょうか?個人が持つ欲望でしょうか?

織田信長などの書状等を見ていますと、統率力のある人物を捕らえたり、処刑したりする事(やみくもな殺害という意味では無く)に注意を払っています。 もちろん、良くも悪くも能力のある人物は、自分の側でも注意を払っています。

やはり、先導者というか主導者となる人物(人材)が、組織を永続せしめる「核」なのではないかと最近、自分の経験などからも感じるようになりました。
※当たり前の事ですね。遅ればせながら、やっと自分の頭で理解できるようになりました。

「烏合の衆」という言葉がありますが、沢山の人間がいても、そこに「意思」がなければ何の約にも立たず、何の生産もできません。

それからまた、その先導者とか主導者を、どうやって過ぎ行く時間の中で「適正」を判断するのか。それは誰が行なうのか...。人間の寿命を越え、何代にも渡って組織を維持し続けるための難題をどうやって克服していくのか...。

キリがないのですが、組織と個人、そしてそこにできる社会と権力について、大変興味を持っています。そんな事も、勝正の研究の中から読み取れたらいいな、と考えています。

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)

 

2012年9月14日金曜日

千年以上前のナビ

仕事でちょこちょこと京都にも行くのですが、交差点を渡る時にふと思いました。

「ナビだ」と。

東西南北を把握し、通りと筋の名前がわかれば、いつでも自分の位置が把握できます。学校でも習った碁盤の目の都市づくりですね。

こんな仕組みが千年以上前からあったとは、凄いな〜、と、ふと感じました。学生時代、旭川に住んでいたのですが、ここも碁盤目の町づくりです。札幌もです。住んでいる人も外から来た人も直ぐに把握できて便利だったのですが、その事を忘れていました。

そして自分の頭の中は直ぐに勝正の時代にタイムスリップします。

代々の当主もそうですが、池田勝正は摂津守護職を任された人物でもあり、それらの当主と同じく勝正も京都に屋敷を持っていたと考えられます。 当時の人々も、ずっと、この「碁盤の目」システムを享受してきたわけです。

京都には、今もその概念が残っていて、町づくりの中心になっています。当たり前〜、すぎる事なのかもしれませんが、何だか妙〜に歴史を実感しました。

それでは感動の写真をどうぞ。


 
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