2011年9月3日土曜日

郷土史を勉強して見えてきた現代の日本

郷土史という人間の歴史を勉強して、見えてきた今の日本社会があるのですが、皆さんが思うように、やっぱり私も将来が不安です。
 私が勉強している摂津池田家も地域権力として滅んだ一族ですが、権力の統合過程で、同じように滅んでしまった家も無数にあります。最近は織田信長とか豊臣・徳川などの権力構造研究が学会でも盛んに行われるようになって、少しずつ解き明かされつつあり興味深く読んでいます。
 しかし、権力になじめず、不合理に滅びた勢力もあるのかも知れませんが、その多くは滅びる理由がありました。池田家もそうです。

 私は、今も昔も変わらない、不変の真理があるように思います。それは、権利とお金の問題を調節できなくなった政治主体は斃れ、滅びるという事です。それが家であれ、何であれ、その集団は内紛や戦争という感情に頼る手段に訴えるしかなくなり、最後には尽きてしまいます。

「追跡!AtoZ 動画 「過熱する日本人技術者争奪戦」」←もし宜しければ、このワードを検索して、動画をご覧下さい。表示されたページの中ほどに動画が表示されています。何度も繰り返す大企業の主導者たちの体たらくに、怒りを覚える一つの事実です。
※現在は平成23年9月3日です。あまり時間が経つとリンクが切れるかもしれません。お早めに。

2011年8月28日日曜日

元亀2年の白井河原合戦について


今から440年前、元亀2年(1571)8月28日、白井河原にて三好三人衆方に加担する池田衆と幕府方摂津守護職であった和田伊賀守惟政勢とで、大きな合戦がありました。場所は現在の茨木市中河原町一帯で、茨木川と勝尾寺川の合流するあたりだったと伝わります。また、当時のこの戦争の呼び名は「白井河原合戦」というものではなかったようで、後世に書かれた家伝『陰徳太平記』などの記述によって定着したようです。その当時の史料には「郡山」などとかろうじて記される程度です。宣教師ルイスフロイスの耶蘇会への報告書や後の編書『日本史』にも「白井河原」という記述は登場しません。
とはいえ、現在では「白井河原合戦」とした方が通りがいいので、便宜上、それで統一します。
それから、この当時の年月基準は、陰暦ですので、今とは少し季節が違います。毎年、2月上旬頃に旧正月がありますが、そのくらい時期がずれています。ですので、和暦の8月28日といっても、現在の太陽暦に相対させると10月上旬頃になるでしょうか。もう秋で、収穫の時期です。

この白井河原合戦は、この決戦時期も重要です。米の収穫時期に、境界争いを起こしているわけですから、米の収奪も視野に入れた領土拡張です。当時、米はそのまま社会的価値を持っており、銭と同じように扱われていました。
詳しくはまた、取り上げてみたいと思いますが、とりあえず、追々とこのブログでご紹介して行きたいと思います。

この合戦に至る迄に、池田方と和田方に闘争が繰り返されていました。池田家は、幕府の要として摂津守護を任されていましたが、この前年6月、家中の内訌により、家政の方針が転換されて、元の主筋である阿波・讃岐・淡路を束ねる三好三人衆方に加担する勢力となっていました。
 対して、和田惟政は将軍義昭の側近であり、また、摂津守護職を任される幕府の重要人物で、京都に近い摂津国嶋上郡を任される勢力でした。
この当時、摂津国内には守護が3人居り、曖昧な境界の中で、それぞれが分割統治する状況にありました。ですので、争いの火種は元々あったとも言えるのかもしれません。


白井河原合戦当日の8月28日に至るまでに、池田領との境近くに、2つの城を築いた事から、一気に決戦の機運が先鋭化されたようです。
高山右近の父飛騨守などは、父子共にその前線に入って守備していたようです。
 また、『日本史』の記述にあるその砦の場所ですが、その一つは萱野(現箕面市萱野)かもしれません。三好三人衆方の池田家に与する土豪で、萱野長門守某などの名が見られ、他にもその附近の地名を持つ粟生や安威などの名も見られます。こういった土豪が、自分達の権利を守るためもあり、池田家へ与力して和田方に対抗していたのでしょう。

白井河原での合戦に至ったのは、池田方が和田方と決戦を行い、境界争いなどを含めて雌雄を一気に解決する一方で、三好三人衆方の京都入りを視野に入れた東進も意図していたのではないかと思われます。

池田衆は3,000の兵を出陣させ、それらを3つに分けて行動させており、白井河原の決戦では計策を実行します。和田惟政は和田方領内に向けた池田勢の動きを知り、惟政は急遽200程の手勢を率いて高槻城を出陣。間もなく、息子の惟長が後詰めのため500程の兵を用意して出陣しました。和田方は砦の勢力等を入れて1,000程。しかし、和田惟政率いる正面は200程であったようです。本来はもっと多くの軍事動員が可能でしたが、とりあえず用意できる数としては、これだけだったのでしょう。それ程、急な事だったようです。
詳しくはわかりませんが、惟政には何か考えがあってか、また、機転を利かせて無理を承知で戦闘を始めたようです。フロイスの記述では、惟政の勘違いのような事が述べられていますが、老練な社会的身分の高い武将ですし、武力が仕事の当時の武士にあって、勘違いはあまり無い様に思います。多分、何か考えがあっての行動だったと思います。

結局、この戦いで、大将である和田惟政が戦死し、主立ったその被官も多くが死に、和田家の組織維持が出来なくなる程、大敗を喫します。対する池田衆の側にも少なからず死傷者が出ていたらしい記述もありますので、相当な和田方の反撃があった事が想像できます。
 池田衆はこの決戦に勝ち、和田方の居城高槻を取り囲み、近隣の茨木城・宿久城・里城までも落としたようです。その後数ヶ月余りに渡って、高槻城の攻防が続いたようですが、幕府との和睦がまとまり、何とか本拠である高槻城の落城は免れたようです。
この白井河原合戦の勝利により、池田衆は千里丘陵を越えて嶋上郡へも領地を拡大させ、権益が大きく拡がりました。また、この合戦で、中川瀬兵衛尉清秀池田(荒木)信濃守村重が活躍し、名を世に知らしめるきっかけともなりました。

ちなみに、後世の出版物などに登場する池田勝正の跡を継いだ知正が、この池田衆を率いる総大将だったとする通説がありますが、今のところ、それを実証する当時の史料は見当たらず、池田紀伊守入道清貧斎正秀・池田勘右得門尉正村・池田(荒木)信濃守村重が、池田家中政治の実質的な主導者だったと考えられます。これらは当時の史料に見られます。


<写真(上から)>
写真1:郡山の山の城から、西国街道方面を望む
写真2:高槻カトリック教会内にある高山右近像
写真3:箕面市萱野に残る旧道
写真4:池田方の陣跡とされる、茨木市に残る馬塚(同市郡山下井町にも馬塚跡あり)
写真5:高槻市伊勢寺にある和田惟政供養塔





2011年8月10日水曜日

東大寺大仏殿の戦いに登場するマメ山とはどこ?

「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。
Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を多聞山城の北800メートル程のところとしているのが通説になっているようです。確かにここには今も奈良豆比古神社があり、その関係でマメ山と呼ばれていたのかもしれません。
※「戦国合戦大事典」は間違いが多く、個人的にはあまり参考にしていません。

また、近鉄奈良駅のすぐ北側に奈良女子大学があって、駅からその大学までの間に大豆山町があります。どちらに池田勝正は居たのでしょうか?


近日にまた、詳しく調べたいと思いますが、私は今のところ、池田勝正が多聞山城の北側800メートルの「マメ山」なる場所に永禄10年5月時点で陣を取る事は不可能だったのではないかと考えています。その頃の状況を見ると、佐保川をはさんで一進一退で、三好三人衆方が圧倒的優位で多聞山城を囲んでいたわけではありません。
また、奈良統治の拠点で、巨額をつぎ込んで築いた松永久秀自慢の堅城であった多聞山城から僅か800メートル(8町弱)の位置に、三好三人衆方がこの時点でやすやすと進めるとは考えられません。

この一連の動きについて記録が詳しい『多聞院日記』を見ると、5月28日になって筒井順慶方の大和国民秋山衆が多聞山城へ前進を強行し、24〜25間(約45メートル)に迫ったようでした。しかし、これは佐保川をはさんでの事と思われ、距離は近いですが要害性を決定的に砕いたものではありませんでした。
 一方、勝正も多聞山城を守る天然の要害である佐保川を越える事の重要性を理解しており、5月18日に松永方の宿院城に夜襲を敢行しますが、失敗。100名程の足軽を束ねる大将の下村重介を戦死させてしまいます。宿院城は佐保川を渡らせないために強力な守りの橋頭堡でした。城は現在の奈良女子大の場所にありました。
更に、雲井坂(柚留木町付近)にも城があり、街道から多聞山城へ進む事を阻んでいました。この城から、宿院城までは北西へ600〜700メートルの距離で、地形的にもマメ山の丘陵の南東縁です。

ですので、三好三人衆勢は、この時点で佐保川を渡る事ができていない筈です。当時の佐保川は現在よりも水量が多く、「堀」としての役割を十分に持っていたようです。ですので当然、本城である多聞山城にも接近する事はできませんし、その背後に回り込む事など不可能です。
更に、松永は守りをそんなに簡単に考えていません。多聞山城から北へ1里半程の間に木津城や鹿背山城などをつくり、木津川を防衛ラインとして一体化させた防衛概念を作り上げていたようです。近年の鹿背山城の発掘調査では、非常に堅固で大型の城である事がわかっており、松永久秀の手によるものであろうと考えられています。また更に多聞山城の西側の超昇寺城や信貴山城なども相互に防衛線を構築していました。連絡と連携のための様々な工夫も施されていたと考えられます。

状況的に、三好勢は木津川を超えて北から多聞山城に近づく事はこの時点では不可能であったと考えられます。それが、可能になったのは永禄11年も夏以降になってからで、永禄10年時点では、多聞山城に近づく事は無理で、堅牢さもまだまだ十分にあった筈です。当然、勝正も多聞山城の北800メートルの位置に陣を進める事もできなかったと思われます。
ということで、永禄10年5月23日に池田勝正が陣を取ったマメ山は、宿院城の押さえとしての策だったと考えられます。そして勝正の宿所は場所的に近い西方寺だったのでしょう。それは丘陵の西端です。ここからは飯盛山城方面も目視でき、狼煙などの連絡が可能です。
そして今も「大豆山町」との地名を残す場所もありますが、当時のその状況については不明です。

写真(1):佐保川の様子
写真(2):油留木町にある「雲井阪」の碑
写真(3):木津川市の鹿背山城跡登城口にある西念寺
写真(4):崇徳寺のある大豆山町の通り

2011年6月26日日曜日

池田勝正も従軍した、元亀元年の幕府・織田信長による越前朝倉攻め(はじめに)

元亀元年に幕府が行った、越前朝倉討伐には、幕府勢の主力勢力ともいえる3,000の軍勢を率いて池田勝正は出陣しています。
 この時の軍勢の中には、飛鳥井・日野氏など公家もおり、禁裏公認の幕府軍として行動しています。ですので、この軍勢に対する敵対行為は、禁裏に弓を引く事と同じで、いわゆる「朝敵」となってしまいます。
 織田信長は用意周到に準備し、決して浅井長政の離反に慌てふためいていた訳でもありません。歴史の事実としては、それすらも信長は考えていて、朝倉攻めは、その確認としての行動だったと言えます。間もなく起きる「姉川の合戦」が本来想定された状況であって、朝倉攻めと一体化した行動です。
 
この越前朝倉攻めからは、様々な思惑が見えて、大変興味深い歴史です。織田信長の考え尽くされた思考は、やはり凄いです。以下、それぞれ随筆的にご紹介します。

<研究思索>
元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて
池田勝正も従軍した、元亀元年の「金ヶ崎の退き口」について考える
元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか
元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?
元亀元年の浅井氏謀叛は、織田信長に「突然」の認識があったのか
元亀元年の摂津守護池田勝正の金ヶ崎・天筒山城攻めについて
元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程
元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路
1570年(元亀元)の「金ケ崎の退き口」の池田勝正の退路 ←NEW(2016.3.4)

<発表テーマ:浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた->
はじめに
池田衆の実力
諸役負担、軍事負担、一部の権利返上
軍事行動の目的と池田家の役割
金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで
内訌の様子とその後の勝正の動き
三好三人衆方に復帰後の池田衆の動き







2011年6月15日水曜日

元亀元年の朝倉攻めでは、なぜ幕府軍が湖東の浅井領内を進まなかったのか。

元亀元年の幕府による朝倉攻めでは、なぜ安全な湖東の浅井氏領を進軍ルートに選ばなかったのでしょうか。ふと、そんな事を考えました。
 一方で、浅井方は味方である事は疑いの余地がないので、ここは安全地帯として、湖西の敵方を制圧するためにルート設定を行ったとの考えも可能です。

現在伝わっている通説である、織田信長の綱渡り的な行動としての朝倉攻めについては、やはり違和感があります。

浅井氏のどんな行動で、敵対が確定したのか...。「手紙」という方法も可能だとは思いますが、地理的に小谷城から越前国敦賀郡までは、延々と浅井領です。当然、浅井方によって、厳重に警戒されているでしょう。こういう使者が行き来する事は簡単ではないと思います。
 もし、お市が信長など本家から気持ちが離れていないのなら、その後の長政との関係と行動に矛盾があるように思います。そしてまた、内通者としての何らかのペナルティも無いようなので、そのあたりが、一貫性が認められないように思えます。

はたまた、この朝倉攻めでは浅井氏は「動かない」という条件提示を破った、というような事があったのかもしれません。引壇城には、浅井氏の手勢が入っていたとも後年の軍記もので伝わります。

何れにしても、明確な敵対行為が認められたため、浅井方の旗色が判明したという事だと思います。それが、何によるものだったのか、また近日にまとめてみたいと思います。




2011年6月8日水曜日

元亀元年、浅井氏は自衛的戦争に踏み切ったのではないか?

戦国大名というか、国人というか、近江国北部の有力者であった浅井長政などその一族については、織田信長と姻戚関係を持った事から、歴史の表舞台に取りざたされる事が比較的多いのですが、しかし、じっくり知りたいと思って調べてみると、意外と研究が進んでいない様な印象も受けます。
 最近は、大河ドラマなどで湖北方面が取り上げられる機会も増えて、ようやくその研究も注目されるようになったようですが、意外にも滋賀県は、県史も古く、地域史の科学的取組みはあまり進んでいません。はっきりいって、他県と比べて遜色あります。アカデミックな方面から知事になったので、この点も取組みが進むかと期待したのですが...。色々な事情があるのでしょうけど。

さてしかし、最近は、史料の発掘が盛んで、湖北方面での興味深い視点が増えていて、面白いです。日本文化の坩堝ともいえる近江国の研究が進むのは、大変意義有る事だと思いますので、期待しています。
 特に近年、流通や交通、出土土器の全国的な分布検討など、貴重な視点と政治的な史料の融合が始まっていて、革新的な動きが出て来ているように思います。

そういった研究を興味深く読んでいて、これまでの私の摂津国人池田勝正研究を重ね合わせてみるとまた違ったものが見えてくるようになりました。
 今も昔も変わらない、「お金」の問題です。経済的観念は、あまり時代性は関係無いように思います。

そんな事を考えていると、元亀元年の幕府・織田方による朝倉攻めの折、浅井長政が朝倉義景に加担したというのは、何も不自然な事では無く、浅井氏は湖北の交通・物流拠点を侵される危険性からの自衛的対抗措置を採る事に決したのは、理解できる事です。
 朝倉氏の旧誼を重んずる判断からではなく、若狭国小浜や越前国敦賀から京都・奈良・大坂への物流拠点としての湖北は、朝倉領内の経済概念と一体化した地域であった事から、浅井氏はその点で織田信長に抗する決断をしたのだろうと思います。
 実際、大坂の本願寺寺内町には、敦賀など越前国の商人が拠点を持っていたらしく、相互関係があった事が指摘されています。

その仕上げとして、官軍としての行軍という政治的な威容を調え、武力で押さえ込む方針を明示した以上、当時としての一般的な権利としての武力対抗を選ばざるを得なかったのだと思います。
 どちらかというと、朝倉氏がもう少し柔軟な対応を取っていれば、浅井氏も家名を存続できたのだろうとも思います。元々丹波国の一国人的な立場から、5代をかけて一国の守護となった経緯もあってか、モンロー主義のような直接的な利害の他は不干渉といった政治的判断がしばしば基準となっているようです。

それからまた、当時のならいとして、浅井氏に絶縁を示す場合の離縁が行われていなかった事は、交渉の余地を残すものだったのかもしれません。人質かもしれませんが...。
 いずれにしても、官軍に弓を退く立場となった浅井・朝倉など連合軍は、軍事的優位に立ちながらも、最終的に目的を遂げられなかった事実は、歴史が答えを出しています。
 結局、武力というのは、政治の一部であって、政治を尽くさないで武力ばかり使っても何の意味も無く、単なる大量殺人と犠牲で終わってしまう事が、歴史は何度も私たちに示しています。

そして「連合」というのは、やはり意思決定が難しく、重要なところで判断が下せず、結局は事態の打開ができません。「お金」の問題も当然あります。
 会社でも政治でもそうですが、協同や合同は結局、うまく行かない例が多いようです。個人的な経験からもそう思います。





2011年5月24日火曜日

金魚の稚魚の続報

今年の1月下旬に生まれた金魚の稚魚の続報です。

あれから、4ヶ月。20疋程が生き残り、元気に泳いでいます。けっこう、個体差があって、小さなものは1センチ程、大きなものは金魚すくいの金魚くらいの大きさになっています。色もバラバラで、フナの様な色のもの、黄色い色、透明のような色と色々あって、それぞれ時間が経つと変化していきます。赤になっている金魚はまだですね。
 この調子でいくと、先に黄色になり、後から赤い色が出てくるようですが、始めての事なので興味津々で観察しています。
 やっぱり、餌をよく食べるヤツは早く大きくなりますね。それから、小さい間は、季節の変わり目で病気になりやすく、よく観察して、おかしいなと思ったら、薬の用意をしておいた方が良いです。1疋病気になると、2〜3日ですぐに広がります。
 よくかかるのは、ヒレに白い点がつく病気で、放っておくと全身が真っ白になってエラもやられてしまい、呼吸ができなくなって死んでしまいます。
 でも適切に薬を使えば、治ります。ペットショップで色々と相談すると適切な処置も教えてもらえますので、しっかり観察して、相談してみて下さい。
 私の場合、もうまともに泳ぐ事もできず、転覆して、体は真っ白の瀕死の状態でしたが、薬でもとに戻りました。今もその金魚は元気に泳いでいます。

 しっかり観察して、それなりに気を使ってあげると、金魚を飼う事は難しく有りません。
 自然環境では、金魚たちは自由に泳いで一番良い環境を探して生きています。人間の都合で金魚たちの生きる環境を固定してしまうのですから、彼らの一番よい環境を維持してあげる事を基本にしていれば、良いのだと思います。特に、清潔にしてあげる事には気を使っています。

 これから、夏に向かってまた、成長するようですので、楽しみです。また、レポートします。

2011年5月19日木曜日

福井県一乗谷遺跡で、鎧兜を着用してみました!

ちょっと取材に、福井県の一乗谷を訪ねました。平成17年に水害があって、どうなってしなったのか心配もあったのですが、しっかりと復興されていました。安心しました。また、研究と発掘も進んでいるようで、大変見応えのある名所になっていました。
 平成13年(2001)にもこちらを訪ねたのですが、その時は冬で、雪も積もっていたので、ひっそりとしていたのですが、今回は気候の良い5月ということもあり、観光客も見られて賑やかでした。
 復元された町並みを見学していると、室町時代の鎧兜や旅装束などを着用できるお店があって、ちょっと悩んだのですが思い切って着てみました。

写真は、着せてもらっているところから、嬉しくなってはじけている一連の写真です。やはり、ちょっと照れくさいです。最近、太ったのもあるのですが、被りモノは似合いません。小顔がいいですね。
 時代劇でも同じ様なものを使っているようです。素材は、金属のところと樹脂みたいなところがあって、鎧の胴は、樹脂のような素材なのですが、それでもずっしりと重いです。両手の篭手も小さな鎖が表面に施されていますので、ずっしりと重く、生地も分厚いので、真夏に鎧兜は大変だと思います。

意外と気づかないのが、足下です。上体が重いのに足は草履や足袋のようなものしかありませんので、歩くと痛いです。今の靴のように分厚い底や柔らかいクッションもありませんので、かかとに直接重さがかかって、石や凸凹等があると痛いのです。


下半身、特に足は力のかかるところですから、耐久力のある適当な素材がなかったのか、長い間足回りは進化していないように思います。昔の人は大変だっただろうなと思います。
 あまり、鎧兜を着用する機会には巡り会えませんので大変貴重な体験でした。しかも何と、500円(税込)という破格値です。

みなさんも一乗谷を訪ねられた時はどうぞご体験下さい。良い記念になりますし、オススメです。

2011年5月12日木曜日

池田家中の荒木村重

最近は、荒木村重の知名度が上がってきたようです。インターネット上の検索では、それについての記述が非常に増えています。
 しかし、現実的には、知らない人も多多いようですね。やはり、謎の部分が多いため、正式な取り上げられ方があまりされないからなのかもしれません。
 織田信長関係の何かのストーリーに取り上げられたとしても、「ちょい出」程度の露出です。

村重は、池田勝正を研究する上では、重要な人物で、村重の史料の中に解明のヒントが多くあります。というか、それも含めて観て行かないと地域的な動きが解らないのが実際のところです。

史料から見ると、村重が勝正の重臣であった事は間違いありません。家中政治の中で、その始動期から勝正政権とも言える勢力を支えていたと思われます。また、よく村重について流布される「下克上」とのニュアンスは、個人的にそれに当たらないと思っています。
 下克上とは、「成り上がり」や「成金」のように、あまりいい意味では無い印象を受けるのですが、詳しくその経緯を見ると村重は、家政の対立に競り勝っただけです。それも、その出世過程では、合意もあって組織の幹部となっていきます。要するに中枢から起用されて、正当な出世をします。ですので、「交代」といった言葉の方が、ふさわしいように思います。

個人的には、言葉の持つ意味とは別に持つイメージで、違和感を持つものがいくつかあるのですが、「下克上」という言葉もその一つです。使用する側の意図や偏見、悪意を込めた時に使う傾向があるように思います。その意味では、「蜜月」という言葉もキライです。

脱線しました。また追々、荒木村重の事もご紹介していきたいと思います。

2011年5月10日火曜日

元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。

最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。

ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記されています。
 これは、呼び出しの意味も有る内容の書状ですが、武田孫犬丸元明の禁裏及び将軍への参候は事実上不可能です。
 その上で、浅井父子と京極高吉へも同じ旨通達されているようです。京極氏は室町幕府の四職の一家の名族です。また、その高吉の娘は武田元明に嫁しているようです。

そんな関係でもある人々を幕府の命で行動させるのですから、政治的な意味合いも重くなる筈で、これについてどのような行動を取るか、織田信長は初めから難題を相手に課していたと考えられます。
 この幕府命令について、『言継卿記』3月16日条に、河内守護三好左京大夫義継、松永山城守久秀、豊後の大名大友左衛門督義鎮(宗麟)使者、但馬国山名祐豊重臣大田垣兄弟、備前国大名宇喜多氏などが参洛して、幕府などへ挨拶に訪ねたとあります。

さて、その1ヶ月後に越前守護朝倉攻めの軍勢が京都を発つのですが、1月に発行した触れ状にもある浅井氏は、この軍事行動に参加した形跡がないように思われます。西近江街道の途中、高嶋郡あたりで合流したのかとも思いましたが、その形跡も無いようです。
 ですので、天皇からも公認されたこの官軍の征伐ともいえる軍事行動に浅井氏は、はじめから参加しておらず、その時点で、噂通りに官軍に弓を弾くかどうかの確認を取った行動であったと思われます。
 浅井氏の政権離脱は、はじめから予想された事だったのだと思います。用意周到な織田信長の行動に対して、浅井長政の行動だけが、「突然」であるのは、不自然なように思います。


また、幕府・織田信長政権が、越前の朝倉氏を攻めたのは、朝倉氏の関与を止めさせて、若狭国内乱への介入と整理、そしてまた権門や禁裏への対応を行なう意図があったように思います。
 また、浅井氏にとっても、日本海側の小浜や敦賀など良港からの物流が、近江国北部を経由して京都・奈良・大坂へも通じてもおり、朝倉氏との関係を絶つ訳にいかなかったのだろうとも思います。この権利は、当時でも莫大な額に上っていたようです。

今も昔もやっぱり「お金」の問題だと思います。