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2023年7月4日火曜日

摂津国人池田筑後守長正について考える

池田筑後守長正という人物は、私の研究している池田筑後守勝正の先代で、一世代前にあたります。この長正という人物については、不明な点が多く、史料もそれ程多くないため、その全容把握に難儀しています。強い思い込みで見ていると、行動の表裏反目が多く、残されている史料では、その意味をどのように理解すべきか非常に悩むことがありました。
 しかし、この長正という人物の行動を解明する事は、摂津池田氏の京都中央政権に対する家中の流れを把握することができ、その事が摂津の政治事情解明の一端にもなると思われます。
 これについては、馬部 隆弘氏先生の『戦国細川権力の研究』により、近年急速にその解明が進んでいます。その波に乗り、摂津池田家から見た細川権力との関係性を解く事につながればとも考えています。
 実際、同書のおかげで、これまで永年、意味の解らなかった長正関連文書の意味が解け、私の研究も大きく進みました。暗闇に光が差し込むように、池田長正の行動が少し判りました。これによって、池田信正から長正を経て、勝正に至る連続性の隙間が埋まりました。
 完全に解くには、もう少し課題もありますが、池田長正の池田家中での立ち位置や最終的には惣領となるのですが、その経緯も、概ね推定できるようになりました。
 細かなところは、要素毎に分けてご紹介しようと考えていますが、今回は大きな流れ(概要)だけ、お伝えしておこうと思います。今後は、以下のような項目で、それぞれの記事をご紹介できたらと思います。

  • 長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった
  • 長正の母は、三好政長(宗三)の娘
  • 長正は、池田城に起居しなかった
  • 池田四人衆の権力化に対抗した長正
  • 長正の家中での地位は、管領細川晴元に依存
  • 長正は荒木氏などを登用し、独自の組織運営体制を構築
  • 長正は、池田四人衆と和解し、摂津池田家惣領となった
  • 三好一族としての池田家が権益を拡大
  • 永禄6年2月、池田長正死亡


さて、それに沿って簡単にご紹介します。

◎長正は当初、池田家中での惣領候補とはされなかった
池田信正が、細川晴元により不慮に切腹させられると、それが突然の事でもあり、家中は大混乱となりました。次の(独自)後継者も決められていなかったからです。
 それに加えて、舅である事を理由に、三好政長は勝手に後継者を指名して、上位権力(管領細川晴元)に認めさせ、池田家の財産を掠め取ろうとしていました。そもそも、信正の舅であるにも関わらず、細川晴元の重臣でありながら、取り計らいもせず、池田信正を切腹に追いやった事は、当時の慣習を大きく逸脱し、摂津国内外の国人衆の動揺と波紋を呼び起こしました。
 池田家中は、三好政長の暴挙・介入に猛反発し、別の独自惣領候補を立てた上で、家中の三好政長派を追放します。内訌が起きました。


◎長正の母は、三好政長(宗三)の娘
惣領池田信正の死後、軍記物ですが『細川両家記』天文17年条によると、(前略)跡職(池田筑後守の)には三好越前守入道宗三(政長)の孫にて候間、宗三申し請けられる別儀無き者也。、とあります。また同じく軍記物の『続応仁後記巻5』摂州舎利寺軍事付細川畠山両家和睦事条には、(前略)然れ共、其の子(池田筑後守の子)は正しく三好新五郎入道宗三の孫なる故に遺跡相違無く立て置きて、其の子を宗三に預け置かれけり。、としています。
 自分の血筋を元に池田家惣領とさせ、あからさまに池田家の乗っ取りを謀っていました。この軍記物に現れる三好政長の孫とは、「太松丸」で、信正の死の直後に催された将軍義晴の管領細川晴元邸御成りに、「裏門役:池田太松丸」の名が見られる事から、この太松丸が、三好政長(宗三)の孫とされる人物と考えられます。


◎長正は、池田城に起居しなかった
天文17年(1548)夏頃、三好政長(宗三)派の池田家中一党は、追放されてしまいます。『戦国遺文:三好氏篇(三好長慶の、細川晴元側近垪和道祐・平井丹後守直信への音信)』には、(前略)皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く、仰せ付けられ太松、条々跡目之儀、安堵せしめ候き、然る所彼の■体者渡し置かず、三好宗三相抱え、今度種々儀を以て、城中へ執り入り、同名親類に対し、一言之■に及ばず、諸蔵之家財贓物相注ぎ以て、早知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、宗三申し掠め上儀、池田筑後守生涯せしめ段、現形之儀候。難き申すべく覚悟以て、宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固之旨申す事、将亦宗三父子に対し候て、子細無く共親にて候上、相■彼是申し尽し難くを以て候。(後略)とあります。
 この時、池田家中は「孫八郎」という別の惣領を立てていますので、池田の三好政長派一党は、太松丸を頼って、京都に身を寄せていたのかもしれません。
 具体的な場所は不明ですが、史料も暫く見えなくなり、次に見られるようになるのは、3年後の天文20年5月です。「池田(右)兵衞尉長正」として、摂津国豊嶋郡箕面寺に禁制を下しています。
 この池田兵衞尉長正という人物が「太松丸」と同一人物かどうか、また、親子関係なのか等は、今のところ不明ですが、その行動からすると、同一人物ではないかと思われます。父である池田信正の死が突然であり、混乱期の中で元服した(させた)とも考えられます。
 ちなみに、天文18年6月、池田家にとっては、その不幸の元凶とも言える三好政長が戦死します。惣領池田筑後守信正の切腹から大体一年後です。この事で、細川晴元政権も瓦解し、一行は京都を落ち延びて丹波・近江国方面へ身を寄せます。
 天文20年5月に長正は、箕面寺に禁制を下していますので、このあたりの地域に居たのでしょうか。丹波・摂津国境や芥河氏・塩川氏、波多野氏などの細川晴元方の人物に身を寄せていたとも考えられます。今のところ、その活動場所については想像の域内です。

◎池田四人衆の権力化に対抗した長正
摂津池田家の当主代行的臨時家政機関となっていた「池田四人衆」ですが、その四人組は、独立的な池田家存続を志向して、外部勢力の影響を受けない方策を施行していました。ですからそれは、「権力化」といっても、「家」の存続についての自衛措置であり、正統な理由であって、自然な欲求でした。
 しかし、これに対して、池田長正は惣領後継者の立場を崩さず行動していたことが伺えます。長正が摂津国豊嶋郡箕面寺に禁制を下しているところや奈良春日社領垂水西牧南郷を管理する今西家(現大阪府豊中市)に対して神供米切出しを行っている事からみても、その意図が推察できます。特に今西家への「神供米切出」は、先代信正の契約継承です。(但し、規模は150石分の内38石分で、影響の及ぶ範囲に収まっていて、全体の4分の1程)


◎長正の家中での地位は、管領細川晴元に依存
馬部先生の論文『江口合戦への道程』瓦林春信の立場の項目に、興味深い見解ありますので、抜粋させていただきます。
 「瓦林春信が晴元方にいたのは天文五年から一〇年までのわずかな期間で、それ以外は一貫して敵対していたことになる。しかも、一度は投降を許したものの、わずかな期間で晴元のもとを離れたのである。そのような人物の帰参を認めてまでして三好政長を支援したことに、長慶は怒りを覚えたのであろう。(中略)
 その状況下での瓦林春信の宥免は、たとえどのような前歴があろうとも政長に味方する摂津国人は晴元方の摂津国人と見做され、所領が安堵されることを意味する。その分、誰かが所領を失うわけである。つまり、政長に敵対すると晴元の敵と見做され、所領安堵がなされない可能性を示唆したことになる。いわば、春信の宥免は摂津国人衆の危機感を煽って、その結束の切り崩しを図る行為でもあった。
 実際、晴元方の切り崩しはある程度奏功しており、先述の芥川孫十郎と池田長正は江口合戦後に晴元のもとに帰参している。また、長らく晴国や氏綱のもとで活動していた摂津国人の能勢国頼も、晴元方の摂津国人である塩川国満を介して晴元のもとに参じている。(中略)
 三好長慶がそれに対抗するには、晴元とは別の所領安堵をする主体を用意するしかない。そのため、氏綱を擁立したといえよう。
 ところが、江口合戦で政長を討った後も、「就三好右衛門大夫(政勝)事、三筑(三好長慶)条々申事」とみえるように、長慶は政勝の弾劾を続けている。つまり、政勝さえ排除すれば、晴元を改めて推戴する余地をまだ残しているのである。このように、長慶の目指すところはあくまでも政長・政勝父子の排除であり、天文一七年末に方針を変えたのちも晴元の排除を主たる目的に据えたわけではなかった。」との見解が示されています。
 この研究結果により、私の読んでいた池田長正に関する行動の不可解な史料群について、その意味が判るようになりました。池田家中の総意としての惣領を「孫八郎」として立てている池田四人衆に対する抵抗として、池田長正は、細川晴元の権威に初期の頃は特に依存し、自らの立場を顕示し、高めようとしていた行動が、史料に顕れているものと思われます。池田家中の争いは、管領争いと鏡のように連動していたと言えます。
 と同時に、長正は箕面寺への禁制発行や大坂石山本願寺への接近、先代信正の契約の継承(今西家への神供米切出し継続(約束の履行))なども独自で行い、地域関係も繋ぎとめたり、新たな関係構築も行っていました。これは、晴元権力を後ろ盾とする、具体的な積極行動とも考えられます。


◎荒木氏などを登用し、長正は独自の組織運営体制を構築
亡命中の長正の、人的・地域的に影響力が及ぼせる範囲が断片的であったため、これまでの池田家が採っていたように、物理的な不備を埋める方策としても、分業体制を採用したと考えられます。池田長正は「池田四人衆」にあたる役職として、荒木氏を登用しています。これが後に、荒木村重につながって行くのですが、その出発点は、この池田家分裂時にあります。長正の行動を詳しく見ると、新たに始められた行動が多々あり、これはこれで、注目要素です。池田家の伝統権力として定着します。

◎長正は、池田四人衆と和解し、摂津池田家惣領となった
池田長正は、池田家惣領の名乗りである「筑後守」を署名している史料があることから、正式な惣領として、家中から承認を得ていたことは間違いありません。
 しかし、それがいつ、どのように成されたのかは、不明な要素も多くあります。しかしながら、その転機としての大きな要素は、池田四人衆が推す信正後継者であった「池田孫八郎」が、何らかの理由で死亡した事にあるようです。これは、病気の可能性が高いと思われます。
 これが、最終的に長正と四人衆の和解に至った一つのキッカケであった事は確かだと思います。
 しかし、史料上には「孫八郎」が死亡したと思われる弘治3年(1557)以降も、少なくとも数年間、史料上では長正と四人衆との反目があったようです。長正が「筑後守」を名乗るという、本質的な和解に至るまでには、他にもいくつもの解決すべき要素があったと考えられます。


◎三好一族としての摂津池田家が権益を拡大
池田長正と池田四人衆の対立していた時期は、三好長慶の勢力が拡大していた時代です。権限や権益も比例して大きくなっており、その活動を追えば、池田家が三好一族的噯いを受けているところをみると、長正の血縁が元になっている手は明白です。
 そういった状況の中で、「四人衆の池田家政についての当初のコダワリ」は、その時代の流れに掻き消されていったのかもしれません。また、長正自身も独自に築いた権益やヒト・モノ・コトの関係性も、四人衆にとっては否定できなくなり、話し合いにより融合すべき要素に成長していた事物になっていたと思われます。
 何れにしても、大きくみれば、成長する三好長慶政権の中で、池田家もそれを共有し、活用しながら拡大した事は確かです。
 一方で、その上位権力であった、三好長慶の方針転換もあったのかもしれません。天文17年頃の長慶による、同族の政長(宗三)・政勝父子の排斥運動を何らかの理由で問題視しなくなったか、方針転換(改めた)があって、それが、池田家の家政方針に影響を与えたということが、可能性としてはあるかもしれません。

◎永禄6年2月、池田長正死亡

この年、池田長正の他に、細川晴元・細川氏綱が死亡しています。室町幕府の要職である「管領」の両巨頭が同じ年に死亡しています。また、この年の8月、三好長慶の一人息子も病気で死亡しており、五畿内地域に伝染病の蔓延があった可能性があります。
 その頃の長慶は、代替わりを終えていた直後でもあり、跡継ぎの死亡は大きな落胆だったらしく、自身も翌年の7月に死亡します。その死の直前、自らの四人兄弟の一人である、安宅冬康とも相反し、殺害に至っており、精神的にも落ち込みが激しかったことを物語っています。
 さて、そんな激動の周辺環境の中、池田家中の代替わりは、前代に苦しんだ経験を乗り越えて、長正の後継継承は非常に速やかに行われました。
 長正が永禄6年2月に死亡し、その翌月には、池田勝正の惣領就任を告げる音信を関係者に送っています。
 この流れを考えると、長正と勝正は血のつながりが有り、三好家との関係性を重視しようとしていた筈です。永禄6年の時点では、三好長慶は存命で、後継者も健在であった事から、池田家中は、それまでとこれからの関係維持を図るために、順当な後継者選定をおこなった筈です。
 しかし、池田長正と勝正は、親子というには、活動期間が近いようにも思われ、長正が病死(突然的)の可能性もある事から、両者は兄弟であった可能性もあるかもしれません。この点は、今も私の課題であり、よく解らないところです。


池田長正花押 ※(右)兵衛尉の頃


2022年10月17日月曜日

摂津池田家中の有力な家系、筑後守家と遠江守家について

1570年(元亀元)6月18日、摂津池田家中で内訌が発生し、官僚機構でもある池田四人衆の内、惣領池田筑後守勝正親派であった、池田豊後守正泰、同周防守正詮が殺害されて、事態は紛糾。勝正自身が城を出る程に深刻化しました。
 四人衆の構成員でもあった、豊後守正泰と周防守正詮が死亡したのは、その原因が定かではありません。勝正を裏切ったことにより、勝正自身が殺害したのか、勝正と対立する誰かによって殺害されたのか、真相は分からないのですが、私は、後者の理由によるものではないかと思います。反勝正派によって、勝正の側近が殺害されたと見ています。

また、この内訌後、間もなく、「民部丞」を名乗る人物が、勝正の後任として活動していることが見られ、これは池田家中の政変の度に見られる、遠江守家と民部丞家の人物であることから、この時ももう一つの有力家系である、遠江守家と民部丞家の台頭(活用とも)があったと思われます。
 殺害について、遠江守家グループを支持する人々による同意もあったと思われます。これにより、当主の殺害を避けつつ、家中での勝正親派を粛正し、強い意味を内外に表明したのだと思います。

時間を遡れば、勝正の惣領擁立自体も、四人衆権威の影響が大きく、勝正の惣領就任時の1563年(永禄6)3月にも内訌があり、四人衆の内、池田山城守基好、同十郎次郎正朝など8名が殺害されています。
 新たな惣領の就任時には、反勢力の整理が行われていた経緯もあるように思われます。

勝正の場合、惣領そのものの殺害が行われなかったのは、やはり、当時も主殺しは外聞が悪く、池田家の将来にも関わるブランド力の毀損に繋がる事を考えての事だと思います。もちろん、人情もあったでしょう。

勝正の動きを総合的に見れば、その前の惣領(信正・長正)に比べると、四人衆による後見の影響力が強い惣領権力であったと思われます。
 一方の四人衆は、自己の富裕と家系の存続は、運命共同体であり、この池田家を存続させなければ、自身の栄誉はありません。
 そのため、対外的な要因と、家中の欲求との整合性を合致させる必要があり、家中に対して、決断に対する説得力を帯びさせる工夫が必要になります。それが両立できなければ、承服されません。

特に家中騒動という、非常事態で常に表出するのが、筑後守系と遠江守系の有力両家の補完対処です。これは、実力のぶつかり合いと競争で、その時を凌ぐというよりは、四人衆という官僚組織が創設されてからは、半ば、お決まりのパターンのようになって、入れ替えが行われているように感じる情況も見られます。これは、深刻な家中対立を避ける意味があったのかもしれません。加えて、対外対応(混乱が長期化すれば攻め込まれるなどの懸念も)でもあり、家中の説得でもあったのではないかと思われます。
 現代社会でも使われる「二大政党政治」のような感覚かもしれません。

池田家を構成する人々に説明し、組織存続を図る基本要素を、方策を用いてその場を治めるには、この二大勢力の使い分けは、有効であったと思われます。これが、池田家政の官僚化の中で現れた現象ではないかと思われます。
 池田家が富裕になり繁栄するにあたり、上位権力との結びつきも年々深まるようになっていました。幕府の官僚機構との接点(天文21年2月13日付の本願寺日記では、飯尾新七郎なる人物が記録され、池田十郎兵衞の弟で、与力である。、としています。)もあった可能性もあり、制度の取り込みも行って、池田家中での応用も行われていたのかもしれません。
 次第に家政機関による内政の技術力も向上していたと考えられ、権限の集中や、より権威を高める動きもあったと思われ、惣領を決める上で、四人衆の権力体としての発言力の高まりが想定できます。

1570年(元亀元)6月、惣領筑後守勝正追放直後の7月、9月、11月に見られる「民部丞」による禁制は、池田家権力とも親密な場所である重要度を考えても、様式も踏襲されており、惣領格の人物です。しかしそれが、一旦廃されたと思われる動きを経て、再び元亀3年11月に民部丞が幕府に惣領として申請されて許されるに至っては、家中の権力の整理が行われたと思われます。その頃、池田四人衆を改め、欠員2名を補充せずに荒木村重を加えた3名体制となっていたのですが、この三人衆が、分裂します。血縁を持つ池田一族と新参の荒木村重などとの対立が深刻化します。
 民部丞を惣領として立て、遠江守も、池田家の重要人物として史料に見られるようになり、活動している様子がわかります。
 記録としては、対外的な文書によるものから類推する事になりますが、対外的な行動の前に、必ず身内での合意を取り付ける必要がある事から、それらは、一体化した行動であり、対外的なやりとりの文書の中に、その様子を読み取ることができると、考えるべきでしょう。

 

池田城跡公園(大阪府池田市)

摂津池田城の想像模型 



2022年6月5日日曜日

摂津池田家の政治体制の考察

応仁・文明頃の勢力図

池田家の惣領が信正の頃(勝正の先々代)になると、摂津国人の中でも一歩抜き出た存在に成長します。信正は畿内地域で活躍していた三好一族と親密になり、当時の管領であった細川晴元重臣三好政長の娘を娶って一族となりました。そのため、管領職であった晴元とも一気に距離が近くなり、重臣的な扱いを受けるようになります。
 また一方で、信正は幕府(将軍義晴)に「毛氈・鞍覆」使用の許可を申請し、間もなくこれを認められると、幕府とも直接的な関係を結びました。池田家は、御家人のような関係と、晴元の重臣としての立場を持ち、それらの関係性を一種の自衛策としても機能させていたらしい事が窺えます。これは管領・将軍職共に、政治的変転多く、安定しなかったからでもあります。
 こういった池田家当主の社会的地位の上昇で、支配領域の拡大と共に、経済的にも富む事となりました。それに相対して、政治的な必要用件も増大するのは当然で、京都に屋敷を持ったり、池田以外の場所にも屋敷を置く必要もあったようです。
 それに伴って、家中の政治が、当主だけでは対応できない状況ともなって、いわゆる近世時代の家老のような「池田四人衆」制度が創出されたと考えられます。
 池田四人衆は、当時の史料でもその呼称が確認できる事から、外部組織からも認識されていた事が解ります。池田家の国内有力者としての急成長は、社会的地位の上昇による、家政機関の創出と役割分担組織を作ったことが、成長の源となったと考えられます。


天文17年(1548)5月、しかしその信正が、晴元から突然に切腹を命じられます。これが余りにも急であったため、池田家中は混乱し、次の当主選定を巡って対立が起きました。
 この時に、当主を支える補助機構であったはずの四人衆が、独自の当主候補を立てた形跡があり、当主とは別の権力機関としての側面も見せるようになります。
 しかし、この時の対立には理由があり、信正の舅であった三好政長が、信正亡き後の池田家に介入し、財産を我が物のようにしようとしたため、これに反発する動きが池田家中に起こったためです。
 四人衆側は、「孫八郎」なる人物を立て、それに対する当主と目される人物は長正(太松は多分、長正の子)でした。この両頭は数年間、対立、または併存していた可能性があります。
 
弘治3年(1557)5月、孫八郎は何らかの理由で死亡します。これを機に、池田家中は対立を止め、長正を当主として一本化したようです。最終的に長正は「筑後守」を名乗り、正統な池田家当主として内外に公言しています。
 この四人衆と長正の対立の過程で、長正は四人衆と同目的で独自に人材登用を行ったと見られ、この時に荒木氏が池田家に深く関わるようになります。四人衆と長正が和解した後も荒木氏は、長正の重臣としての地位を失う事無く、いわば四人衆と並列するカタチで四人衆制度が拡大さました。
 その後しばらくは家中の政治が安定し、信正時代には見られなかった、広範囲に禁制を下す行動や文書が見られ、池田家の活動範囲が大きく拡がっています。近畿地域で拡大する三好政権の下で、安定的な地域権力の確保に成功したと言えるでしょう。

山田彦太夫宛の池田筑後守長正書状

長正の死後、勝正の時代となりますが、この重臣集団は整理される事無く受け継がれ、その代替わりの時に、村重もその集団の中に組み込まれていったようです。
 また、いわゆる「池田二十一人衆」という多数の重臣集団も存在したと思われますが、その後直ぐに、意思決定の早さを重視した少人数制へと変化しているようです。
 この時、それまでの四人衆体制に戻らずに三人制、いわば「池田三人衆」という新しい体制を打ち出したと考えられ、それを示す史料も実在しています。
 多分これは、旧誼であり、永らく上位権威として、また一族として行動を共にしていた三好三人衆を手本として創出されたと考えられますが、間もなく、それがうまく機能しなくなり、家中対立が再び起きてしまいます。やはり池田家の社会的な位置づけからも、集団の代表は必要だったのです。
 そしてそれは、織田信長と将軍義昭の対立の時期であり、元亀3年(1572)冬頃には、池田一族が幕府方へ加担し、一方の村重は信長方へ加担する事となりました。
 この時、池田一族は、代表者を立てる必要性に迫られ、池田民部丞擁立を将軍義昭に通知し、受入られています。これが知正にあたるのかどうか、今のところは不明。


それからまた、元亀元年(1570)の勝正追放後に「民部丞」なる人物が、山城国大山崎惣中、摂津国多田院、同国箕面寺へ宛てて禁制を下しています。これらは何れも池田氏と浅からぬ関係を持っている場所です。この後に民部丞の禁制や文書は見られませんが、それが元亀3年の池田一族の文書に現れる「民部丞」と同一人物かどうか、完全に一致させる史料は今のところ見つかっていません。
 しかし、それは同一人物である可能性は極めて高いように思われます。特に箕面寺に宛てた禁制は、勝正が下した内容と同様である事から、その権力を継ぐ法則を実行できる人物である事は確実です。
 
元亀4年(1573)7月の室町幕府機能停止をもって、新たな時代を迎える事となり、元号は天正となります。しかし、その後も翌2年頃まで組織のカタチを維持できたかは不明ですが、池田衆は存続を維持していたと見られ、史料にも池田一族の行動が見られます。
 しかし、伊丹城の落城をもって京都周辺地域の拠点が消滅すると、史料上では池田衆の活動は見られなくなっています。翌3年には、完全に新たな時代を迎える事になったと思われます。

2016年7月8日金曜日

摂津池田家が滅びた理由

池田勝正を中心に、20年程、摂津池田家の歴史を調べていると、同家がなぜ滅びたのかがわかったような気がします。一つの要素で、また、一人だけがその原因を作った訳ではないのですが、その中でも、最も重要な要素があるように思います。
 詳しい分析は、また後日に「摂津池田家の支配体制」などの研究を通じてご紹介したいと思いますが、ここではその前哨としての記事にしておきたいと思います。

摂津国内において、最も大きな勢力として成長した池田家が、実質的に当主勝正を最後に、伝統的独自文化を保持した組織としては、終焉を迎えます。
 室町将軍第十四代義栄や同十五代義昭政権の樹立と運営に大きく貢献し、キリスト教宣教師ルイス・フロイスの報告書にも「(池田)家は天下に高名であり、要すればいつでも五畿内において、もっとも卓越し、もっとも装備が整った一万の軍兵を戦場に送り出す事ができた。」などとも、紹介される程でした。
 
それ程までの組織が、なぜ崩れ、滅びたか。少し時間を巻き戻して、簡単に経過を見てみます。

勝正の先々代の当主は信正で、この人物が他の国人衆に先がけて、今でいう官僚制、江戸時代でいう家老制を採り入れます。これは、信正が将軍の宰相であった管領の細川晴元重臣として、京都に居ることが多かったための措置だったようですが、この制度が池田家の活動のスピードを早め、その範囲を拡げる事に寄与して、急速に成長していきます。
 その証左として、池田家は代を重ねる毎に成長し、勝正の代には、前記の如く、五畿内の誰もが認める大勢力に成長していました。フロイスの記述に現れる池田家が、勝正の代の様子です。

しかし、これが活力でありながら、池田家にとっての最大の課題であった訳です。

つまり、活動するために関わる人数が増えるのですが、組織の柱となる人々(一族)と、外来の勢力との差を池田家主導部が、上手く制御できなかった事に、組織崩壊の最大の理由があったと見られます。家の存在意義の核を見失ったと言えるのかもしれません。
 近年まで日本の伝統的習慣であった、一族結合(家制度)ですが、室町時代にも当然この感覚を中心に組織が作られています。
 しかし、組織が大きくなれば一族だけでは人数が足りず、有能な人材登用を継続していく事になりますが、この過程での人間関係と組織体制作りに失敗した事が、池田家の滅んだ原因だと思われます。加えて、家老組織(四人衆と呼んでいた)が、別の権力体となり、代替わりの度に当主との関係が難しくなります。
 こういった背景もあり、内輪もめの回数も増え、またその間隔も狭くなり、元亀元年(1570)6月に大きな内訌を発生させ、当主勝正は、池田家を追われる事となりました。これが池田家崩壊の始まりとなりました。その3年後、更に四人衆と荒木村重が内訌を起こし、組織が二分され、元亀4年夏、将軍義昭政権と共に池田家も機能停止し、実質的な組織の解体となりました。その後は主従が逆転します。ご存知の通り、荒木村重が摂津国を制圧して、守護格の扱いを受けるに至ります。
※個人的にはこの時村重は、摂津国の他、河内国中北部も領地を任されたと考えています。詳しくは「荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について」をご覧下さい。
 
これらは何も池田家の事、室町時代の事として終わる話しでは無いと思います。今でも同じですよね。会社や地域自治、国のあり方など、全く同じ事が今でも起きています。
 義務と権利をうまく使い分け、運命共同体の向かう方向をしっかりと指し示し、主導的人物と支援組織を有機的に組み上げられるかどうかが理想だと思いますが、これが一番難しいですよね。
 
そういう意味では、江戸時代というのは、凄い社会だったのでは無いかと思います。善悪を法によって規定し、これに社会が収まって、内乱を起こさずに何百年も社会として機能していたのですから。


2016年1月24日日曜日

池田四人衆の事について(はじめに)

摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較にならない程の差になったと考えられます。

池田四人衆とは、守護職家でいえば、守護代のような、近世大名の組織体制でいうところの家老のような、当主と同等の権力を持つ執政機構といえるのだろうと思います。
 四人衆は、勝正が当主の時代から見ると先々代の信正の代に創設されたと考えられます。これは信正が、管領である細川晴元の重臣で、その側に仕えるために京都の屋敷に居住していた事から、本拠である池田城に当主の分身を置くために考え出された体制のようです。
 四人衆はその名の通り4名で構成され、個人的には、その内の2名は京都で当主の補佐を行い、一方の2名は池田に居て、本拠地の管理を行ったものと考えています。

その後、池田家が大きな勢力に成長して行く過程で、離合集散を引き起こしながら、管領機構である四人衆自体が当主と対立する程の「権力体」になってしまいます。皮肉な事に、池田家を成長させた官僚機構が、滅亡の原因となってしまったとも言えます。

以下、池田四人衆について書いた項目をまとめてみました。また、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。論文的に、体系的な書き方もできていけたらと考えています。



2015年7月4日土曜日

信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について

私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。
 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。
 江戸時代でいうと「家老」と同等の立場のようで、官僚のような役割ももっていたようです。ただ、あらゆる点で中世は、江戸時代のように固定化した概念はあまりなく、その範囲も限定されたものでもなく、割と不規則だったように見えます。人物本位といったところがあると思います。
 その家老のような人物を4人選んだらしく、「四人衆(よにんしゅう)」と呼ばれる集団が、当主を補佐しています。そらからまた、この家老集団を出現させた需要として、池田信正が京都の中央政権に重く取り立てられ、同所に屋敷などを持つようになった事から、国元の政治を取り仕切る機関が必要になったからだと考えられます。

この四人衆時代の変遷があり、3期に分かれます。最後には内部分裂を起こし、池田家が解体となりますが、その最後まで中心的な役割を果たしていたのが池田紀伊守正秀です。
 以下に1期から3期までの四人衆の構成をご紹介します。

<第一期> (順不同)
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗山城守基好
 ・同苗十郎次郎正朝
当主と四人衆のイメージ画

<第二期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗周防守正詮
 ・同苗豊後守(正泰ヵ)

<第三期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・荒木信濃守村重

池田四人衆についての詳しくは「摂津池田四人衆の事」をご覧いただければと思いますが、この中心的な人物である池田紀伊守正秀については、生没年が不明です。私の守備範囲である年代の記録から判る範囲で、以下にご紹介します。
 ただ、没年については、1575年(天正3)以降、史料上に見られなくなりますので、その頃の可能性は高いと思います。この頃には随分と高齢だったとも想定されるため、その事も併せ考えると、没年の想定をこの頃に置くのも不自然では無いと思います。
 また近日に史料を上げて、詳しく正秀の行動をお知らせする事にしまして、ここではダイジェスト版でご紹介しようと思います。

◎池田家中政治の中心人物
当時の史料には「四人衆」との記述が多方面で現れる事から家政機関として、外部組織にも認知されていた事は確実です。
 そしてまた、その四人衆は「禁制」も多数発行しており、そこに4名の署名があって、正秀の名も見られます。それから『言継卿記』に、正秀が公家である山科言継の屋敷を訪ねて会談したりしており、外交の面でも広範囲に活動していたようです。
 池田家は、京都周辺の主要な重要都市に屋敷や拠点を持っていたいとようです。前記の京都を始め、和泉国の堺、摂津国平野にはあったようです。これは、正秀個人の所有なのか、池田家としての共同資産なのかわ分からないのですが、用件のある度にお寺などで宿泊するよりは、屋敷や拠点を持つことは便利ですし、重要です。その地域への出先機関ともなります。
 それからその他の地域でも、例えば、摂津国尼崎、同大坂、同冨田、同芥川城下、河内国飯森山城下など、大きな都市や軍事拠点には何らかの機関もあったと想定されます。本願寺宗が、各地に布教拠点を設けますが、これと同じような事は、宗教活動で無くても必要ですので、当時の通信事情を考えても、効率を考えればどうしても必要になって来ると思われます。
 
◎正秀の名前について
池田正秀の名前についてですが、中世と現代とでは社会的な慣習が異なります。個人は「家」を中心に活動し、生活しています。家は途切れずに続き、自分自身はその通過点であると考えているため、「生ききる」事に人生の価値を置いています。一方で、極まった時の「潔さ」という一面もあったと思います。どちらにしても、「後世」を意識しての価値観だと思います。
 さて、現代的に言うと、姓と名は、池田正秀です。しかし、その当時には社会的地位と現在の立場などが、名前の間に入ってきます。歌舞伎役者や落語家などの伝統芸能では、こういった習慣がまだ残っていますね。
 正秀は「紀伊守」という官途を名乗る家系だったようで、その官途を名乗ります。また、紀伊守を名乗る前段階の名前もあったりして、その時々の年齢や事情によって変わっていきますが、諱(いみな)はあまり変わりません。
 それから、跡継ぎが育ち、家の代表者を嫡男に譲る時が来れば、後見役となって入道(仏門に入るなど)となり、入道号を名乗ります。多分、「正行」は、正秀の嫡男で跡継ぎです。彼は父と同じく紀伊守を名乗っています。また、跡継ぎの事だけでは無く、何らかの理由で代表を退く場合にも入道となり、浮世から離れます。
 正秀の場合の入道号は「清貧斎」です。読みは多分、「せいひん」だと思います。「せいとん」という読み仮名を『言継卿記』に1箇所だけ書き込んであるのですが、せいとんの意味が分かりません。誤記ではないかとも思います。
 当時の史料を見ると「池田紀伊守入道」とあり、これは正秀を指します。時代によっては、同じ名乗りを記録していますが、その場合には諱(いみな)が重要な判断基準となります。
 それから、茶道や連歌に通じる場合、「斎号」というものを名乗ることがあります。正秀はその両方に秀でていた事から斎号も持っていたようで、「一狐」とも署名しています。これの意味はわからないのですが、狐(きつね)は、中国の伝説にも登場する妖怪だったり、イナリのような、神格化された信仰の要素など、日本には古くから身近な動物でした。正秀はそれらの要素の何かに注目して、斎号を取ったのだろうと思われます。
 ちなみに、正秀がいつ頃から入道号を名乗ったかというと、この長正が無くなった永禄6年初頭頃からでは無いかと考えています。対立はしましたが、当主長正は池田家のためによく働き、長正が亡くなる頃は、正秀が長正に心を寄せていて、その死亡を悼んだのではないかと思います。
 長正が死亡した直後と考えられる、永禄6年らしい2月27日付けの摂津国多田院僧衆へ宛てた音信では、勝正の書状に添えて四人衆が同内容の書状を発行しています。これに正秀は清貧斎と署名しています。

◎文化人としての活動
正秀は、連歌会にも出座し、多くの歌を残しています。織田信長が京都で政権を始動させる前、三好長慶がその座にありましたが、長慶は連歌を愛好しており、それらの歌会にも度々呼ばれています。
 一方で茶道にも通じ、様々な名物茶器も所有して、「清貧釜(せいひんがま)」など、彼の名を冠する茶道具もありました。堺商人の天王寺屋宗及などが記した茶席・茶道に関する史料『茶道古典全集』には、正秀の名が頻出しています。
 
◎武士・武人として
正秀など四人衆は、当主信正から勝正の代まで少なくとも3代に関わる活動をしていますので、その間に数多くの戦場を経験しています。その経験から後年には、戦場でも老練な作戦立案や目利きができたようです。
 『信長公記』によると、1569年(永禄12)正月の京都本圀寺・桂川合戦での機転の利いた手配りに正秀を褒めたと記述されています。これは池田衆の名代としての事だったのかもしれませんが、特記事項として取り上げられています。
 その2年後、1571年(元亀2)8月28日、今の茨木市で行われた大合戦「白井河原合戦」では、非常によく練られた作戦を成功させ、不利だった状況を見事に挽回しています。この時は三人衆時代で、その中心は正秀だったと見られます。

◎家中での発言力と求心力
1548年(天文17)5月6日、当主信正が、管領細川晴元から切腹を突然に命じられ、池田家中が混乱します。その時、四人衆が暫定的に当主の代行的役割を果たしますが、その時も家中の対立があって、暫く当主の一本化ができずにいました。その一方の当主を擁立していたのが四人衆でしたが、その四人衆が推す人物が病気などで死亡してしまい、結局は長正を当主にする事で決着します。
 四人衆は、当主格と対立もでき、「家」としての意思決定もできる機関であった事が、それを見てもわかります。
 当主の並存期間には、四人衆が独自に領内へ法度(禁制的なもの)を公布し、前当主信正に代わる、若しくは、同等の機関である事を公言しています。そこには四人衆を構成する正秀など4名の署名があり、地域社会に対する公権力を発動しています。

◎最期には幕臣に取り立てられる
数々の経験から、1573年(元亀4)初頭には、将軍義昭の近臣として、幕臣として取り立てられています。この頃には池田三人衆も分裂し、池田一族は幕府へ加担。対する荒木村重は小田信長へ加担して、それぞれの道を歩みます。
 皮肉な事に、両者は両陣営から重く取り立てられ、村重も将軍義昭方との交渉役として活動する事となります。実際に顔を合わす事もあったのかも知れません。
 この京都の中央政権内での将軍義昭と織田信長の分裂という極限状態で、両陣営から池田衆の取り組みが盛んに行われていた事が窺え、それは如何に池田家が地域ブランドを持っていたかを示す事実でもあります。
 その事を知る当時の記述があります。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記した報告書『耶蘇会士日本通信』には、内藤如安(丹波国人)の都に着きたる日(3月12日)、池田殿兵士2,000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の来着に依り、都は少しく沈静せり。、とあります。
 これを率いる事ができたのはやはり、池田正秀を抜きにしては不可能で、池田衆が動いた事の京都市中の反応も、その当時の実力に相対するものだったと考えて、間違いは無いと思います。




2013年6月24日月曜日

池田四人衆から三人衆へ

<概要>
元亀元年(1570)6月、摂津国守護所である池田城内において内訌が発生。同国守護職であり、池田家当主でもあった池田勝正は、重臣集団から追放されて城を出ました。
 池田衆は、将軍義昭を中心とする幕府方に忠誠を尽くして東奔西走しましたが、過酷な政権維持環境のために家中が動揺しました。
 そこに旧誼を頼って三好三人衆が調略を行った結果、池田家中はその誘いに乗ったようです。これらの交渉は越前国朝倉氏討伐のため、勝正が留守にしていた時期を狙って行われていたようです。

その池田衆の越前国出陣では、3,000もの兵を出しているにも関わらず織田信長は、池田衆を信用せず、万一のためとして人質を出す事を要求しました。
 この事で池田家中の議論は紛糾し、誰を人質として出すのかでも、意見が分かれたのかもしれません。兎に角、池田四人衆の内、勝正親派と考えられる人物2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)が殺害されました。しかしながら勝正は殺されませんでした。勝正は池田城を出、能勢街道を南に辿って刀根山を経て、大坂方面へ落ちたとされています。勝正は一旦、原田城に入ったのかもしれません。
 池田家中で内訌の起きた18日、この日は将軍義昭が近江国高島郡への出陣のため、京都を出る事が予定されていた日でもありました。この事態を幕府は深刻に受け止め、池田家中の内訌の報に接すると、出陣延期の旨の触れを出しました。
 朝倉・浅井氏との戦争では将軍義昭の動座が必要であり、いわゆる「姉川合戦」は、幕府として勝たなければならない決戦と目していました。
 そしてまた、将軍義昭の出陣が予定されていたのですから、その予定日に向けて、軍勢や様々な手配が行われていた事でしょう。遅くてもその前日には兵を率いて京都に入り、打ち合わせや軍容等を調える必要があった筈です。
 出陣の延期(結果的に中止)は、池田衆が大きな要素を支えていた事を示すものとも想定できます。

その後勝正は、18日の内訌発生以来、暫く史料上には現れず、26日になって河内国守護の三好義継を伴って入京し、将軍と対面しています。勝正はこの7日の間、様々な対応や調整を行っていたと思われます。ですから勝正入京の目的は、将軍義昭への事態の報告であろうと考えられます。勝正はこの後、一貫して幕府方として行動しています。

家政機関の変遷
<(a)後任当主擁立時代>
他方、三好三人衆方となった池田衆は、勝正追放直後は「民部丞」なる、新たな当主を立てていた可能性もあります。

<(b)多人数合議制時代>
しかし間もなく淘汰され、当主を置かない多人数の合議的体制で家政を執るようになったと見られます。
 それが「池田二十一人衆」と伝わった集団であり、小河出羽守家綱を始めとする20名の池田家中の人々による欠年(元亀2年と個人推定)6月24日付け連署状(『中之坊文書』)であろうと考えられます。
 ちなみに「小河家綱」とは、池田家中ではあまり聞いた事の無い人物で、宛先(摂津国有馬郡湯山年寄中)への影響力を持つ外部の人物かもしれません。

<(c)池田三人衆時代>
しかし、これ程の人数が居ては意思決定が遅くなるため、更に体制の変更が行われて、三人衆体制になったと考えられます。元亀2年春頃からそういった動きがあったのではないかと考えています。
 3人とは、多数決制を利用する場合に都合の良い奇数であり、意思決定機関としての意見が割れる事態を避けられる点で理想的であり、役割分担も好都合である事が多いでしょう。また、この「三人衆」制は、三好三人衆をモデルにしたのかもしれません。実際にこの体制で数年間、家政を運営し、実績もありました。
 もちろん池田三人衆は、各々に家中で求心力のある棟梁的な人物であった事は間違いありません。そしてこの池田三人衆体制が、割と短期間の内に結果を出す事になります。それが元亀2年8月の「白井河原合戦」です。
 伝承記録なども参考にすると、この時荒木村重は、まだ新参的な立場であったらしく、囮役という危険な役を買って出ましたが、この事で大勝利につながった事から、一躍、近隣にも名を知られる程になります。
 池田三人衆体制は、池田家の劣勢をはね除け、しかも勝正よりも更に広い版図を築いたのですから、これ程の実利はありません。

<(d)池田三人衆分裂時代>
しかし間もなく、頼りにしていた三好三人衆も分裂を始めて衰退し始めます。元亀3年の夏から秋頃、運命共同体であった池田衆もそれに相対するように分裂を始めます。
 「池田一族派」対「荒木村重派」という構図となったようです。そのキッカケは、いわゆる「よそもん(部外者)」かもしれません。状況が複雑で、根深くなったため、感情が先行する事は現在でもよくある事です。
 ここで各派の習性が象徴的というか、興味深い方向へ進みます。池田一族派は、一度廃嫡したとも思われる「民部丞」を再び担ぎ出す動きを見せます。
 ちょうどこの時、幕府内でも将軍義昭と織田信長との内訌があり、分裂していました。この動きの中で、双方が親派作りに腐心し、有力諸家の争奪戦を繰り広げます。
 池田一族派は、この流れの中で将軍義昭方に活路を見出します。将軍義昭はこれを喜び、池田一族派を側近に取り立てるなど、優遇します。
 一方の荒木村重派は、細川藤孝を通じて織田方となり、信長を喜ばせます。また、村重は高槻城の内訌を実行に移して織田方勢力にするなどの手土産付きでしたから、随分と耳目を集めたようです。村重は、白井河原合戦から連続する要素を利用したのかもしれません。

元亀4年7月18日、将軍義昭の籠る山城国槙島城が織田方に攻められて落ち、降伏した事から、室町幕府は機能を停止します。
 これにより、池田家中の争いも決着がつき、荒木村重の時代が幕を明ける事となりました、池田家の歴史も、この時をもって終わったといえます。

同月28日、元号は「天正」と変わり、それが池田家の終わりと、荒木村重時代の到来のハッキリとした区切りとなりました。

<(e)摂津池田家の滅亡>
天正の世になってからの京都を中心とする五畿内情勢ですが、実は、天正2年頃までは決定的な要素を欠いてもいたために、まだ、将軍義昭の残党が本願寺方の協力などを得て活動していました。そのため、池田衆もその集団に属して活動していたようです。
 しかし、天正3年になるとその決着がつき、史料上でも活動が見られなくなります。この頃に池田衆としての活動は、本当の意味で閉じたと考えられます。




2013年6月16日日曜日

池田四人衆について

<概要>
池田四人衆とは、国人であった摂津国池田家が、戦国大名として成長する過程で生まれた、家政機関です。
 四人衆制度は池田信正が当主であった時代に生まれ、長正、勝正の代まで機能していました。
 元亀元年6月の池田家内訌で、当主の勝正が追放され、その時に四人衆も再編されます。その後もその機構を受け継いだ状態で三人衆体制と集約されますが、その時には時代の要請に応えられない状態となってしまい、機能不全に陥ります。
 そうなると、家政運営もうまくいかなくなり、結局は血(血統や家系)の争いとなって自滅してしまう事となりました。ですので、四人衆制度の誕生から終焉までを見た時、勝正追放事件を以て、四人衆制度は一旦閉じたカタチとなります。

各時代の体制
<(1)信正時代>
当主信正が、池田家を発展させる過程で当主を補佐する目的で、一族の中から池田勘右衛門尉正村・同苗十郎次郎正朝・同苗山城守基好・同苗紀伊守正秀の4名がその任にあたったと考えられます。
 多分、信正は京都に居た管領の側に仕えるために常駐する必要が出たためで、国元での池田に当主と同等の家政執行機関が必要になって編成されたのでしょう。
 その後、信正が不本意に管領細川晴元に切腹させられると、次の後継問題で家中が分裂してしまいます。
 
<(2)対立時代>
この時、四人衆が擁立する当主候補である孫八郎と、別の当主候補である長正が対立します。その過程で、それぞれが別々の運営体制を持つ事となり、それが暫く続きます。その時間が、立場の固定化を招きました。
 それから、この長正の代で荒木氏の登用があったようで、長正の重臣として書状などの公文書も発行しています。この荒木氏の何れかの家系が、荒木村重につながると見られます。
 
<(3)長正時代>
しかしながら、四人衆が当主として推す孫八郎は、弘治3年に病気など、何らかの理由で死亡します。近世への幕開け的な時代でもあり、家中が分裂している場合でもなかった事から、それらを悟ったのか、四人衆と長正は和解したようです。
 これにより、当主は正式に長正となり、家政機関も再編されます。しかし、この時、長正の成長に功労のあった荒木氏を中枢機関から外す事はできなかったらしく、一族の外からの登用となって、四人衆と荒木氏が同じような立場での体制となったようです。
 これは近世に近づくにつれて、政治の要望が、「大量に」「迅速に」、移動や管理が求められるようになり、人員が不足していた事にもよるのかもしれません。
 何れにしても、池田家中の大きな問題が克服されるにあたっては、その取り巻く環境に対応させて解決を図ったのでしょう。この再編の過程で、人材の登用も積極化したのかもしれません。
 そんな矢先、当主の長正が死亡します。永禄6年2月頃のようです。
 
<(4)勝正時代>
この時は、後継者が予め決まっていたようで、スムーズに代替りが行われています。
 しかしながら、若干の波乱はあり、四人衆の内2名(池田勘右衛門尉正村・同苗山城守基好)が勝正により粛正され、新たに勝正親派の人材が2名(池田豊後守正泰・同苗周防守正詮)加わります。
 この2名を加える事で、その他の荒木氏とのバランスを変える意図があったのかもしれません。意思決定機関の多数派工作の可能性もあります。何れにしてもこの事で結果的に、荒木氏の池田家中での立場は更に強くなったといえます。
 勝正は、結束するための摂理の整理、つまり、人員の整備をする事無く、長正からの制度をそのまま引き継いでしまったために、議論の収拾ができなくなったのかもしれません。これは時代のセイかもしれませんが、勝正の当主時代に一度、大きな内訌が起きています。
 しかしながら、勝正の代では歴代の中で最大の版図を築くまでに成長します。河内・大和国など、近隣でも知られた存在になっています。
 そんな事もあり、問題の種は見えなくなり、うやむやになってしまいます。

そして間もなく、織田信長の入京という日本史の中でも画期の時代を迎え、その対応を迫られました。やはりそれは非常な難題で、結局は家中での議論が紛糾し、闘争となってしまいました。
 元亀元年6月、越前国朝倉氏討伐から戻ったところで、池田家中の内訌が起きてしまいました。この時、池田家は摂津守護職を任されていた事もあり、守護所での騒動発生は、室町幕府内でも動揺が広がったようです。
 問題の種は時間が成長させ、芽を出し、花を咲かせたのです。

京都奪還を目論む三好三人衆が勢いを増し、旧誼を通じて池田家の調略を行いました。大坂の本願寺には、同じ日野家の縁を通じて三好三人衆に加担する近衛前久が起居もしていました。近衛氏は藤原氏の筆頭で、同じ藤原家系の池田家はこれらの縁故に何らかの活路を見出したのかもしれません。

これらの詳しくは、また別の機会を設けたいと思いますが、この勝正の追放を以て、池田家の歴史は終焉に等しい状態に陥ります。良かれと思ってした事が、結局は混乱を招き、その後の池田家中は更に短い間隔で内訌を繰り返すようになります。

長くなりましたので、続きはまた後で。少々お待ち下さい。次は、元亀元年6月の内訌後から、池田家滅亡までのをご案内します。




2012年3月23日金曜日

永禄6年(1563)3月、池田勝正が池田四人衆の内2名を粛正した事

永禄6年(1563)2月、摂津国池田家の惣領池田長正が死亡した事により、勝正がその跡を継ぎました。
 翌月22日、池田勝正は酒宴の席で、同家官僚機構ともなっていた池田四人衆の内2名(池田山城守基好・同苗勘右衛門尉正村)を殺害しました。他にもそれに連なる人物も粛正したようです。

この事件で荒木弥助が手柄を立て、勝正に一目を置かれるようになったようです。この事件(内訌といえるかも)について、『言継卿記』『細川両家記』『足利季世紀』『陰徳太平記』に記述があります。

こういった代替わりによる内紛は、先代の長正の時にもあり、時代が足早に進むようになると池田家中も相対的な影響を受けるようになって、内紛に至る間隔も狭くなっていきます。

最終的に、元亀4年(天正元年は同年7月に改元)の将軍義昭の都落ちと同じくして、池田家は崩壊・解体してしまいますが、内紛の原因は多くの場合、官僚機構である四人衆が源泉となっていました。

当主を補佐するべき官僚機構が、権力集団となってしまい、結局は当主と対立してしまう性格を持つようになります。

今でも起きている事が、この時代にもハッキリと見られます。


摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)