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2015年2月11日水曜日

戦国時代の交通・流通(はじめに)

私は、摂津守護池田筑後守勝正について研究していますが、彼が活動した室町時代末期には流通もかなり発達していました。
 そのため、様々な交通手段やそれに関わる組織、経済、手段、規制(法)、整備、管理、地形などなど様々な要素が社会の中で概念化されていました。

人間(個人)は社会に属し、生きるために活動しますので、当然、移動を伴います。陸路・海(川)路を使います。それらがどうなっていて、当時利用され、認知されていたのかを知りたいと思い、これらの分野についても調べたりしています。
 気付いたり、見えてきた事を少しずつ記事にしていきたいと思います。特に近畿周辺の事になると思いますが、ご興味のある方はどうぞご参照下さい。


追伸:この分野に興味を持って、現地の見学に行ったりすると、皇太子殿下が訪ねられた時の写真が飾ってあったり、記念碑が建てられていたりすることが多いので、現地の人に聞いてみました。
 すると、皇太子殿下は歴代の皇族の方々の研究分野は植物系が多いけども、皇太子殿下については、中世の水運や交通についてご研究されているとの事でした。それを聞くと、急に皇室が身近になったような気もしました。なんだか、ちょっと嬉しくなるような感情もあり、思わぬ新発見でした。


河内(枚方)街道について



2011年1月12日水曜日

河内(枚方)街道

河内街道について、ちょっとコラムを作ってみましたので、ご覧下さい。

東大阪市加納の旧市街
この河内街道は、今の日常生活でも利用しているのですが、歴史的な道です。1704年に大和川の付け替えが行われるまでは、河内平野を東西に横切る新開池があって、これを渡って枚方から、八尾までをつなぐ主要な道でした。河内街道は、茨田郡・若江郡の南北の主要道だったようです。
 なお、江戸時代の古図には、河内街道との呼称は見当たらないようで、明治時代以降に河内街道と呼ばれるようになったようです。

永禄年間初頭に河内国守護畠山氏が三好長慶によって追われると、三好方の池田勝正はその影響で、河内国へも軍事活動範囲を拡げていきます。
 また、大阪平野の中央部にもあたる若江郡は、川に囲まれた島のようになっていて、天然の要害といってもよく、ここには若江城がありました。その若江城に阿波国三好家の宗家でもある義継が入っていた事から、池田勝正も何度か訪れているようです。

宇波神社に街道が突き当たる
元亀元年6月、摂津池田家中で内訌が起り、勝正は家を出ます。勝正は一旦、大坂方面へ南下しつつ京都へ入り、将軍義昭に状況報告を行います。6月20日の事です。
 その6日後、勝正は再び河内国若江の三好義継と共に京都の将軍義昭へ状況報告に向かいます。

その頃、勝正は若江城を経て京都を訪ねたかどうかは不明ですが、もし若江城に勝正が入っていたとすれば、この河内街道も使っていたのかもしれません。前述のように、河内街道は茨田・若江郡の主要街道だった訳ですから。