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2016年10月4日火曜日

近江国佐々木一族にゆかりの河内国河内郡の霊松山西光寺(現東大阪市)

浄土真宗本願寺派 霊松山 西光寺
筆者の住んでいるところに、浄土真宗本願寺派の霊松山西光寺というお寺があります。同寺は室町時代にその興りを持つ古いお寺で、その創建に近江国の名族佐々木氏につながる伝承があります。
 先ず西光寺について、公式な研究に基づく資料をご案内します。
※大阪府の地名2 P968

(資料1)-----------------------
◎西光寺(東大阪市吉原)
浄土真宗本願寺派、山号霊松山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると永正5年(1508)正善は、俗名を佐々木(大原)重綱といい、江州佐々木氏の一族で、文明年中(1469-87)戦乱を避け当地に移住。久宝寺村(現八尾市)にいた蓮如に帰依して出家し、今米村の中氏の援助で当地に道場を創設したという。もとの山号は好月山という。現寺号となったのは正保4年(1647)。当寺の住持藤井氏は豊臣方の武将木村重成の縁者で、重成も幼少の頃から当寺に出入りしている。その子、門十郎は藤井家の養子となり、代々当地一帯の六郷庄の大庄屋を務めた(大阪府全志)。
-----------------------(資料1終わり)

それから、西光寺で直接お聞きしたところによると、佐々木氏が河内国内に入国したキッカケは、福万寺城への入城だったらしいとの事です。それについて、その伝承を裏付ける資料があるので、ご紹介します。
※日本城郭全集9 P143

(資料2)-----------------------
◎福万寺城(八尾市福万寺町)
福万寺の三十八(みとは)神社の境内が城址である。文和年間(1352-55)、近江守護佐々木氏の一族の佐々木二郎盛恵が居城した。その後、廃城となり、その後に三十八神社を建てた。(吉田 勝)
-----------------------(資料2終わり)

この福万寺城は、発掘などがされておらず不詳ですが、福万寺地域には慥かに伝承が残るようです。そしてこの城は、その名の通り福万寺村にあり、その村については以下のようにあります。
※大阪府の地名2 P1015

(資料3)-----------------------
◎福万寺村
河内郡に属する。玉串川沿いの若江郡山本新田の東にあり、村の北半は東方恩地川まで、南半は恩地川を越えて更に東方に延びる。耕地は碁盤目状の区画を持ち、古代条里制の遺構とみられる。十三街道が通る。村名となった福万寺は、いつ頃の寺で、いつまであったか不明。
 「河内志」は古跡として廃福万寺をあげる。産土神の三十八神社の地は、鎌倉時代に佐々木盛綱の孫佐々木二郎盛恵の拠った福万寺城跡と伝える
 村高は、正保郷帳の写と見られる河内国一国村高控帳で1,184石余り。文禄3年(1594)12月、村高のうち52石余りが北条氏規領となり(北条家文書)、以後狭山藩北条領として幕末に至る。残りは寛永11年(1634)大坂町奉行曽我古祐領となり、曽我領として幕末に至る。曽我氏の陣屋は当村にあった。
-----------------------(資料3終わり)

福万寺城及び福万寺村にある資料と西光寺の項目内容とは、人物名や時代が異なっていますが、近江国佐々木氏は、鎌倉から室町時代にかけて大きな勢力を持つに至ります。
【参考サイト】
河内福万寺城(お城の旅日記)
福万寺城跡(兵どもが夢の跡)

それから、それを裏付けると思われるもう一つの資料をご紹介します。河内郡の隣りの若江郡に、若江城があったのですが、この城にも佐々木氏に関する伝承があります。
※日本城郭大系12 P109

(資料4)-----------------------
◎若江城(東大阪市若江本町)
若江城の名が歴史上記録された時期は、大きく二つの時期に分けられる。最初は創築者畠山氏の時代、第二の時期は天文(1532-55)から天正(1573-92)年間である。
 若江城は、高屋城を本拠とする河内守護畠山氏が築城し、代々守護代遊佐氏を置いて領国守護にあたらせた城であった。創築年代は明確ではないが、南北朝争乱のようやくおさまった、明徳・応永年間の早い時期、畠山基国の時と推定されている。
(中略)
天文初年、若江城は近江守護佐々木六角氏麾下の若江下野守兼俊の居城であった。天文6年、若江兼俊は佐々木氏に背き、大軍によって当城を包囲された。このため、兼俊およびその父円休は、降伏開城し、高野山に追放された。跡には堀江河内守時秀が城主として配された。その後城主は、若江河内守実高(天文11年頃)、若江下野守行綱(同21年6月没)、堀江河内守実達(弘治3年(1557)6月没)、山田豊後守定兼(永禄4年(1561)9月没)と替わった。この山田定兼は、近江・河内両国で5,000貫を領していたという。
(後略)
-----------------------(資料4終わり)

ちなみに、福万寺城は若江城に近く、郡毎にあった城の時代に敵対したり、はたまた、何か連携するような関係にあったかもしれません。そして福万寺の北東方向には、池島城跡もあります。
 また、上記の「資料4」にある、天文初年頃、本願寺の当主などの日記『証如上人日記』『私心記』にもやはり近江国佐々木氏関連の記事が多く見られます。この当時、本願寺教団の本拠地は、今の大阪城と同じ場所にあり、その当主がが佐々木氏を重要人物の動きとして日記に書き残しています。佐々木氏とその関係者が、大坂や近隣に来たり、直接音信したりもしています。

それから、歴史の専門機関などへ聞いてみると、河内地域には近江国にゆかりを持つ場合も少なからずようです。しかし、この西光寺のそれについては未知だったとの事でした。
 いずれにしても、伝承というのは割と正確な方向性を持っていると感じているのが、個人的な経験です。根も葉もない、捏造的なものは殆ど出会った事がありません。日本人は昔から正直だったのです。

さて、西光寺と佐々木氏についてですが、そのキッカケとなった福万寺城は、八尾市域にあり、西光寺は東大阪市内にあります。その現代の行政界が、真相に近づくための感覚を益々阻んでいるところがあります。これについて、現在の東大阪市になる前の旧河内市の変遷過程の歴史をご紹介します。
※大阪府の地名2 P967

(資料5)-----------------------
◎旧河内市地区
東大阪市域のうち主に玉串川流域を占め、律令制以来の河内郡の西部と若江郡の北東部にあたる。河内市は昭和42年(1967)枚岡市・布施市と合併して東大阪市となった。中央部を玉串川が北西流し、近鉄奈良線が東西に通る。
 古代には河内湖の入江が広がり、朝廷に供御の魚類を貢進する「河内国江厨」が設けられた。平安時代にはこれに代わって大江御厨が設置され、中世には水走氏が在地領主として御厨一帯に勢力を伸張、室町時代には年貢物の流通にも関係して活躍した
 近世には、宝永元年(1704)の大和川付け替えにより水量の減少した玉串川、分流の菱江川・吉田川の川床、新開池に新田が開発された。
 明治22年(1889)の町村制施行により、河内郡東六郷村・英田村・三野郷村、若江郡若江村・玉川村・西六郷村・北江村が成立。同29年中河内郡の成立により同郡に所属。
 昭和6年東西の六郷村と北江村が合併して盾津村が成立し、同18年町制施行。同年玉川村が町制施行。同30年この2町3村が合併して河内市が成立。同年境界変更で福万寺・上之島(明治22年成立の三野郷村の一部)が八尾市に編入された
-----------------------(資料5終わり)

この行政界の変遷を見ると、昭和30年(1955)に福万寺地域は八尾市に編入されていて、それまで何千年と河内郡にあって、同郷的な感覚を維持してきた吉原村と福万寺村は、はじめて分断されたともいえるのです。今でも市や村が違えば、そこに住む人々の帰属意識は大きく違いますが、時を遡る程、やはり大きく違います。
 ですので、吉原村内の西光寺の創建と福万寺村内の福万寺城に、佐々木氏が関わっているのは、必然性の高い理由があると考えられる訳です。多分、佐々木氏が河内国河内郡を領知(地)した事による入郡であったのだろうと考えられます。
西光寺内の灯篭にある「平四ツ目結」紋
また、西光寺を訪ねてみると、寺紋は「平四ツ目結」で、近江佐々木六角氏と同じです。これもまた、伝承を裏付ける有力な要素です。
 それから、お寺の建物を見ると、少し違和感があります。浄土真宗系のお寺とは屋根の形状が違うのです。お寺の方のお話しによると、同寺は天台宗から改宗しており、屋根の形状は、その経緯を語るもの、との事です。
 元の山号は「好月山」で、現寺号となったのは、正保4年(1647)と伝わっている事から、その時に改宗があったのかもしれません。ただ、現在の本堂の屋根の形状との関係がどういう経緯があるのかは不明です。本堂の建設は、その後のような感じもしますし...。
追伸:西光寺は大和川付け替え事業の中心人物であった今米村の中氏とのつながりが深いお寺でもあり、その付け替え工事の関係で亡くなった方々も中氏がこのお寺で供養したとの事です。

さて、天台宗といえば、比叡山ですので、やはり近江国佐々木氏とのつながりを感じさせます。詳しい事は不明ですが、時代によっての変遷が、文字に尽くされていないところがあるようです。
 色々な地域の歴史を見ていると、村全体が改宗する事により、その村にあるお寺も変わります。こういった事例が時々あります。吉原村の西光寺もそのような事があったのでしょう。

それにしても、河内国に根付いた近江国の名族佐々木氏一派の歴史が今も残るというのは、大変興味深いです。

【追伸】
福万寺城跡と伝わる、現在の八尾市福万寺にある、三十八神社です。このあたりは微高地で、西側に玉串川に隣接しています。また、俊徳街道と十三街道が玉串川を渡ってスグ、集落で合流(現福万寺公民館南西角)し、東進します。寺内町・環濠集落である有力集落「萱振(かやふり)」へも通じています。勿論、玉串川は水運の用を成しており、交通の要衝でもありました。川湊的な要素もあったでしょう。
 ちなみに、現在の玉串川は、いわゆる水尾川で、新大和川開削によって干上がった後の現象で、川の底の最小限の流れで、後年にこれを農業用に灌漑したようです。玉串川の川幅は広く、
 さて、こちらの三十八神社は清掃が行き届き、大変気持ちの良い場所です。地域の方々に大切にされていることが、訪れるとわかります。また、この付近は条里制の痕跡が今も残り、生駒山脈を間近に見ながら、畑や田んぼを眺めると、古の空間に浸る事のできる貴重な場所たと思います。
 
 
三十八神社

玉串川堤道(北方を望む)


2016年10月1日土曜日

戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)

筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。
 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地です。神社の本殿に残されていた古文書により、天文元年(1532)に人々が移ってきた事が伝えられています。
 それは戦国時代です。神社と村の由来が、東大阪市(教育委員会)により案内されていましたので、ご紹介します。
 
(資料1)-------------
諏訪神社は、本殿内に残されていた古文書によって、天文元年(1532)信濃国諏原(すはら)之庄の住人諏訪連(すわのむらじ)の子孫らが当地に村を開き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三柱を勧請したとされています。
 現在はその中で諏訪大明神をまつる一社だけが残され、覆屋の中に大切に保存されています。この本殿は一間社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎(もや)の四周には写実的な花鳥彫刻をもつ蟇股(かえるまた)をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在するという特色を持っています。
 この本殿は、海老虹梁に江戸時代の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものと見られる事などから、室町時代に建立されたのち、江戸初期に大改修が行われたと考えられますが、建立年代が明らかで、市内に現存する最古の建築であるとともに、中新開の歴史を伝える貴重な記念物であることから、昭和49年(1974)3月25日に市の文化財(建造物)に指定されました。
平成16年3月 東大阪市
-------------(資料1終わり)

東大阪市中新開にある諏訪神社
秋になると祭りがあり、周辺各村(集落)から「地車(だんじり)」が繰り出し、賑やかに祝いますが、中新開村からももちろん地車が出されます。やはり由来が信州という事もあってか、その衣装が少し違います。浴衣のような衣装で、近隣の村とは一線を画す文化があります。
 さて、河内国の中部は、江戸時代中期に行われた大和川付け替え工事で、それまでとは大きく地形が異なります。
 現在出回っている大和川付け替え以前の地形をある程度精密に描いた地図がないかと色々探してみましたが、細かなところは省略してあるものが多く、復元レベルの地図は未だにありません。ですので、大和川の付け替えが完了した、宝永元年(1704)以前から存在する村を頼りに地形から推定して、細かな部分を再現させるしかありません。
 そういう意味では、中新開村の歴史というのはとても参考になります。大和川が開かれる172年前に、信州から今の中新開地域へ人々が移ってきているのですから、ここはその頃も陸地だった事が判明します。
 以下、『大阪府の地名2(平凡社)』東大阪市の項目から中新開村に関する記述を抜粋してみます。

(資料2)-------------
◎中新開村
河内郡に属し、吉原村の南にある。大和川付け替えまでは東方を吉田川、西方を菱江川が流れ、両川の氾濫原に立地したため、低湿地が多かった。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高215石余、幕府領、小物成として葭年貢銀7匁2分。寛文2年(1662)からは大坂城代青山宗俊領があり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大坂城代太田資次領で215石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同じ。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で218石余。慶応元年(1865)より京都守護職領(役知)、文政8年(1825)には菜種1.7石を芝村に売っている(額田家文書)。

◎新開庄
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これを受けた河内国守護細川顕氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
-------------(資料2終わり)

それから、この中新開村が属していた河内郡についての資料を以下にあげてみます。出典は、中新開村と同じです。

(資料3)-------------
◎河内郡
「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良(さらら)郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野池などの湖沼・湿地が存在し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しき■(呂?)かも」とある日下江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串川(吉田川)が若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)と八尾市の一部。

【古代】
(略)「大阪府の地名2」の「河内郡」の項目をご覧下さい。

【中世】
大江御厨に関係し、当地方の代表的中世領主として活躍するのが水走(みずはや)氏である。水走氏は平安時代末頃、当郡域の水走(現東大阪市)を開発した季忠を祖とし、当郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、当郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに、枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、当郡一帯を支配した。源平争乱時には当主康忠は鎌倉御家人となり本領を安堵されている。
 また日下(草香)を本拠地とする武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わっている。鎌倉時代郡内に奈良興福寺領法通寺庄(現東大阪市)、高野山金剛三昧院領新開庄があり、南北朝期には足代庄(現東大阪市・生野区)も史料に登場する。
 新開庄は弘元の乱の功によって、一時楠木正成の所領となったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、祈祷料所として京都東寺に寄進された。しかしその後も楠木氏の本拠に近い当郡には南朝の勢力が及び、正平5年(1350)北畠親房は足代庄を教興寺(現八尾市)の祈祷料所としている。
 延文4年(1359)新将軍足利義詮が南朝方に侵攻した時、南朝軍の水走氏らは北朝軍に降伏、続く南朝軍の反撃では、河内守護代椙原入道が水走の城に籠もって戦った。
 このように当郡は南北朝両勢力拮抗の地域として度々戦場となった。室町時代から戦国時代にかけても戦乱の場となる事が多かったが、これは隣接する若江郡の若江城(現東大阪市)が、河内守護所として河内の政治的中心地であったことによる。

【近世】
豊臣秀吉によついわゆる太閤検地は、文禄3年(1594)に行われ、同年の日付を有する日下村・横小路村などの検地帳が伝わる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳によれば、当郡は21村・石高14,616石5斗5升、うち田方17,013石2斗4升1合・畑方3,872石4斗3升6合、山・葭年貢高30石9斗3合、ほかに小物成として山年貢銀787匁4分4厘・山年貢米8石8斗6升・葭年貢銀192匁3分・「作相」麦41石4斗・枚岡明神領京銭20貫文。
 同控帳によると所領構成は、幕府領6,117石余・大坂町奉行曽我古祐領4,016石余・大和小泉藩片桐領2,039石余・旗本石河勝政領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が多い。元禄郷帳によれば26村・15,229石余。
 宝永元年(1704)秋に大和川の付け替えが終わると、翌2年から深野池の池床や大和川諸流の川床・堤敷などの干拓・開墾が始まり、当郡内にも河内屋南新田・川中新田(現東大阪市)が成立、これらは幕府領に組み入れられた。元文2年(1737)の河内国高帳では、25村・高約16,025石。内訳は幕府領約7,724石・小泉藩領約1,868石・旗本石川領1,000石・旗本彦坂領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が散在。天保郷帳では29村・高16,077石5斗。

【近代】
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。
 同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村・東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。
 同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
-------------(資料3終わり)

それらの要素の関係性から、中新開村付近を流れていた流域を推定してみると以下のようになるのではないかと思います。
 ただし、どうも、時代による自然環境の違いで水際の位置が変わったり、小規模な開発などで、いくつかの段階があるようです。図は、大和川付け替え後に行われた大規模な開発の領域と、それ以前の水際を分けてあります。大和川付け替え以前の開発は、明確な資料無く、個人推定です。
<図の変化概要>
初期の新田開発(紫色)→ 大和川付け替え後の開発(青色)→ 現代の地図 → 中世の水際推定

明治後期から現在の地図へ変化(紫色は最も早い開発)

大和川付け替え後の新田開発については、詳しく判っていますので、判断に迷う事はありません。しかし今のところ、それ以前の開発と思われる川田村のあたりがよく判らず、水際が読めていません。この川田村のあたりからもう少し東側に水が入り込んで、水際が東にあった可能性もあります。
 また、地図の右上にある「加納村」は、西加納、下加納と分かれていて、川田村は後年に独立したのかもしれません。それと、加納村は、地形的に素直に区分けするなら河内郡になろうかと思いますが、若江郡に所属しています。
 吉原村あたりの水際と湿地が加納村との境を分断するような環境であったため、そのような郡境であったのだろうと思います。もしかすると加納村は島のようになっていたのかもしれません。
 現在の栗原神社(式内社で鎮座地は動いてないらしい)付近から東側は、殆ど平坦地で、新開池と考えられる地域と海抜もほぼ同じです。ここには府道168号線が通りますが、その道を東方向に進むと「今米2丁目交差点」あたりから「川中北口交差点」にかけて、緩やかに地形が高くなり、「焼肉いちばん」のあたりでピークになっています。そこから更に東に進むと若干、下りつつ、300メートルほど先に恩智川があります。
 ただ、新開池や深野池へ流れ込む川は、天井川が多く、周囲より2〜3メートル程高くなっているようで、海抜が低いから川の跡という訳でもないところがあるようで、そこは判断が難しいところです。

大和川付け替え後の新田開発図
さて、そういう現在の状況も鑑みると、吉原村から東側は新開池からの水が入り込み、池状、または湿地になっていたのではないかと思われます。
 なおかつ、その高さより高い位置に川筋がある、恩智川が氾濫すると西側へ流れ込んで来るような環境にあったのではないかと思います。
 少し、参考に中野村についての解説をご紹介しておきます。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

(資料4)-------------
 若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」の字形で、自然堤防上に位置する。この事から考えて、かつて横枕西方を流れる菱江川から分かれて、新開池に流入する川があり、当村はその川床を開発して成立した可能性がある
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では、高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。
 元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14年(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免二ツ六分八厘。家数60・寺1、人数324。余業は、男は木綿糸・日用稼ぎ、女は木綿稼ぎ。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
【追伸:東大阪市公式サイト「歴史散策:C地区:荒本〜吉田」
中野村の日吉神社は、江戸時代以前には現在の高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと大山咋命(おおやまくいのみこと)をまつっています。安産の御守札を出していて、村中で難産する人はなかったということです。
-------------(資料4終わり)

『大阪府の地名』でも、上記の地図の紫色部分に川があった可能性を示唆しています。やはり自然地形として、ここに川があっために、若江郡と河内郡との境にしたと考える方が自然だと思います。
 また、想像を少し逞しくすると、地形の高低差はそれほど極端ではありませんので、この川は浅く、葦や葭が生い茂る湿地のような感じだったかもしれません。
 
それから、常に移動を必要とする現代生活からは、このような環境は不便に思えますが、戦国時代には寧ろ、その逆の感覚で、外敵を寄せ付けない環境を村の周囲に持つ方が、財産や村の防御の面で、都合が良かったのです。また、水辺や湿地から受ける自然の恩恵は、生活を支えるためには好都合でもあったのです。もちろん、水辺は舟での交通や輸送という意味では、それも村にとっては恩恵といえる要素です。ただ、水害は困りますよね。
【出典】大和川付け替え後の新田開発図:国史跡・重要文化財 鴻池新田会所HPより

筆者は特に戦国時代の後期の五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉国)周辺を専門にしていますので、そのあたりの時代に興味があります。その当時の河内中部地域の地形についても調べています。
【参考サイト】
付け替えられた大和川
300年、人・ゆめ・未来 大和川
国史跡・重要文化財 鴻池新田会所

今も旧集落地域を歩くと、興味深い立地や水害への備えが家の造りから解ります。地形そのものやそういった歴史的な痕跡が手がかりとなって、川の跡が判ったりするのも感慨深いです。
 それから、これらの川が境になって郡が分かれてもいます。菱江川の東が河内郡で、西側は若江郡です。戦国時代には、郡が違うと領主も違うので、共有している利益・利害も違ったりします。そういう何か、川を挟んで睨み合うような、不幸な出来事も長い歴史の中で何度かあったかもしれません。

今年放映されている「真田丸」の時代にも河内国はこういう状況にありました。地図の下(南側)にある 暗峠奈良街道は、大坂の陣の合戦でも徳川家康が通った道です。また、大坂城の攻防戦では、若江郡も戦場になって、合戦が行われていますので、隣接する河内郡も巻き込まれたものと思われます。

2016年2月27日土曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡)

江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、流路が変わり、現在のような風景になったのですが、今もそれ以前の川と池の境目が残っています。結構な段差があるところもあって、それらの痕跡をその当時の地図と見比べると面白いです。

先に紹介した、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図を元に、池・川の痕跡を写真でご紹介します。地図の中に、a〜eまでの地点を入れてあり、それに相対して以下に写真を示します。

大和川付け替え前の川の流路

 a地点(古箕輪八幡神社付近):
東大阪市古箕輪にある古箕輪八幡神社は少し高くなっていて、このあたりから北に落ち込んでいます。北への見通しが利くため、戦前は陸軍の用地だったようで、今もそれを記す石標が残っています。
 江戸時代から戦後、昭和30年くらいまで、このあたりに舟が着き、港のようになっていました。また、この近くにある藤五郎橋あたりは、水位を調整するパナマ運河のような閘門がありました。

東大阪市古箕輪の古箕輪八幡神社の段差

b地点(加納2丁目付近):
東大阪市加納2丁目の旧集落の鎮守宇波(うわ)神社西側の段差です。ここは現在、戸建住宅の建築中で、次第に見えなく、気づきにくくなるでしょう。左側は、宇波神社の地車保管庫です。
 このあたりが段丘の最北端にあたり、水深もあった事から船着場だったようです。宇波神社は、写真の段差よりも更に上で、この段丘の一番高い所にあります。万が一の水害の被害を受け無いよう、村の人々の想いが伝わります。

 
戸建住宅のための擁壁は1メートル以上ある


c地点(今米1丁目付近):
今米1丁目付近の旧吉田川の川筋跡です。今はもう川はありませんが、大きな川だったようです。このあたりも結構な段差が残っています。 すぐ南には川中村が隣接していて、ここは、大和川付け替えに尽力した中甚兵衛公のご子孫(甚兵衛公兄の系統)が今もお住いです。中甚兵衛公には、大正3年に従五位が贈られています。江戸時代で言えば、ちょっとした大名が受ける位階です。中世でも通用する、高い位です。

今米1丁目付近の入り組んだ段差

d地点(水走2丁目付近) :
東大阪市水走2丁目付近は旧集落で、大津神社があります。この神社は式内社で、平安時代にまとめられた神社の叢書に出てくる、古い神社です。
 神社には、大津神社由緒として「当社は延喜式神名帳に載せられている古社にして、御祭神は大歳神(おおちしのかみ)の御子大土神(おおすなのかみ:土之御祖神:すなのみおやのかみ)で、字宮森に鎮座するとあります。創建の年月は詳らかではないが、伝説によれば、天児屋根命(枚岡神社の御祭神)の乳母津速比賣(つはやひめ)ともいわれています。
 社名よりして古代当地は、湖沼時代に沿岸地域での港津として重要な交通上の拠点として発展してきた地と推察されます。平安時代から室町時代の中世にかけての集落が営まれた水走遺跡と合わせ、土豪水走氏が河内の一つの拠点として拓き発展してきたものと考えられる。」と石碑に刻まれ、紹介文があります。
 古水走村は、吉田川の東岸に位置し、すぐ南には奈良街道が通っていますので、交通の要衝でもあったでしょう。


東大阪市水走にある大津神社

e地点(吉田本町付近) :
東大阪市吉田本町付近は、今も地形が少し高くなっていて、その半島のようになった地形の上を古い道が通っています。d地点の大津神社から200メートル程南にある吉田本町郵便局のすぐ西側は、写真のような断崖です。2メートルくらいはあろうかと思います。湖だった頃、水深は結構深かったのだろうと思います。

東大阪吉田本町郵便局の西側あたり

f地点(稲葉1丁目付近):
玉串川が北上して分岐すると、東に注げば吉田川になります。玉串川は西側に注いで行きますが、その川筋跡が残っています。稲葉1丁目付近の段差がそれで、写真のように、結構高さがあります。写真の右手前にある道を行くとすぐに、稲葉神社があり、樹木の右手には近畿自動車教習所があるところの段差です。

近畿自動車教習所の南側境界のあたり


g地点(吉田1丁目の花園商店街付近):
東大阪市吉田1丁目の花園商店街の中を府道15号線が通っていますが、商店街なので、車の通行は難しい雰囲気なのですが、通れなくは無いです。しかし、商店街が賑わっていた頃は、朝晩以外は買い物客が行き交っていたでしょうし、日中は無理だったでしょうね。そういう所に府道が設定されているのは、昔からの大動脈だったからです。
 そんな道の脇が断崖です。ここも2メートルくらいはあります。玉串川から吉田川になる分岐点のあたりです。川に沿って道があり、駅ができたので、その道が商店街になったようです。
 このあたりの実際は、なだらかに高低差がついているのですが、写真の場所は生活の都合上、削ってしまって垂直な角が出ています。幸か不幸か、そのために、高さが見た目にも分かり易くなっていますね。


東大阪市の花園商店街に沿った断崖



他にも色々あるのですが、今回はこのくらいにしておきます。また追い追い、増やしていきたいと思いますので、どうぞご期待ください。
 当たり前のいつもの景色も、その理由を知れば、とても興味深く、見え方も全く変わります。今回ご紹介した池・川跡は、先人が豊かな地域づくりの為に開いた痕跡でもあり、確実に今に繋がっている事なのです。

日常の何気ない凸凹ですが、面白いでしょ?

【関連記事】
東大阪市箕輪・古箕輪にある八幡宮のルーツを考えてみる

2016年2月3日水曜日

中世の摂津国大坂周辺の地形について(はじめに)

中世の摂津国大坂周辺は、江戸時代の宝栄元年(1704)の大和川付け替えで、現在のような流路になるまでは少し風景は違っていました。当然、その付け替え以前は、交通を始め、様々な要素が、その後とは違います。摂津池田衆の家運が最盛期だった室町時代末期頃も、その事を踏まえて見ていく必要があります。
 この大和川付け替えについては、大東市立民俗資料館で判りやすく学ぶことができます。また、淀川の治水の歴史については、枚方市にある淀川資料館で詳しく見ることができます。現在の災害の無い、豊かな生活を送ることができるのは、壮絶とも言える先人の努力のおかげである事がよくわかります。
 淀川資料館では、近現代に功労のあった、外国人技師のエッセル、デ・レイケ、沖野忠雄技師、大橋房太郎大阪府議の志には、本当に感動します。特に大橋府議は、献身的な努力を生涯に渡り続けられ、水害で苦しむ人々を減らすべく、尽力されました。何しろ、私の生まれ育った「放出(はなてん)」出身の偉人です。出身が庄屋の身分であったにも関わらず、亡くなる時には借家住まいとなって、私財も全て注ぎ込んで、大阪府民のために働かれた方です。葬儀は府葬で、その見送りには多くの人が感謝を捧げたとの事です。
 感情移入してしまいました。淀川資料館も機会があれは、是非、見学してみて下さい。淀川は身近なのに、知らない事ばかりでした。学校で教える事も無いと思いますので、是非お子さんを連れて、見学をされて、淀川縁でお弁当でも食べて、のんびり楽しんでみてはいかがでしょうか。
 
以下の図は、大東市立歴史民俗資料館が発行する常設展示案内パンフレットに紹介されている中世の流域復元図です。


大和川付け替え前の川の流路

 
さて、以下に散文的に昔の大坂周辺の川や池についてのコラムを増やしていきたいと思います。どうぞお楽しみに。

東大阪に残る昔の川(新開池・深野池)の跡
戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)
・大東市に残る昔の川の跡