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2024年4月9日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌直前、池田勝正が守護役(えき)として中嶋城の普請を行う)

この項目は「諸役負担、軍事負担、一部の権利返上」の補足である。同頁を併せて読んでいただきたい。この補足を行う事で、守護職を任じられる名誉と引き換えの苛烈な負担が池田家へ課されていたことが更にお分かり頂けると思う。
 状況としては、越前国守護朝倉氏攻めの結果、噂通りに近江国浅井家の幕府・織田信長方からの離反が判明し、この方面での争乱の火蓋が切られたカタチとなった。
 他方で、元々の幕府にとっての討伐対象であった、阿波国三好氏勢力は反幕府方として、京都を取り囲む包囲網を形成して、西から攻め上る構えを見せていた。元亀元年6月には、堺に軍勢が集まっている事が盛んに報じられ、不穏な空気を感じざるを得なくなっていた。これに備えるため、摂津守護である池田・伊丹方に、急遽の守護役が課される事となった。

十三公園(撮影:2006年2月頃)
これらの一連の動きは、織田信長の耳に入っており、京都の東西へその備えを行った。軍事面での戦術上、それを超えた戦略上も兼ねて、将軍自らの後巻きの出陣を進めていた。
 東部方面の近江国では、髙島郡の田中城(清水城館)を想定。西部方面の摂津国では、欠郡の中嶋城(現大阪市淀川区)をその場と決定していた。しかし同城は、そのまま使うには手薄であったらしく、急遽の補強を行う事となった。加えて、その補完的要地である榎並城(現大阪市城東区)にも手を加えている。
 この時、池田家(勝正)は、中嶋城の普請に2〜300名の人夫を出している。これは奴隷労働ではないので、当然賃金などの労役負担金品を池田家が供出している。

この中嶋城の対応については、典厩家の城としての社会的な象徴や認知があった事と、瀬戸内海と京都とをつなぐ交通と物流への監視、加えて、大坂本願寺への備えという意味があったと考えられる。
 後年、織田信長が政権として畿内地域で独立を始めた頃の天正2年夏、反織田方であった大坂本願寺を包囲するために、この中嶋から崇禅寺方面にかけて大合戦が行われており、この地域が要所の証左としての出来事もある。

池田家は、将軍義昭の実兄を殺害した阿波国三好家の一族であり、将軍義昭により守護職に取り立てられたとはいえ、疑いと迫害を多分に受けていた事は、数々の歴史的痕跡により容易に想像できる。
 元々、脆弱な足利義昭政権を支える為に、非常に重い課役を命じられていた事は、様々な史料からも判明する。池田家中は、それらに絶えられなくなった事と将軍義昭政権維持が危ぶまれる程の敵の軍事攻勢を前にして、池田家の人々は精神的にも追い込まれて、家中政治は断裂するに至った。同時に、藤原家の象徴的存在でもあった、近衛前久の反幕府行動もあり、同じ藤原一族としての池田氏も、その策動を意識せざるを得なかった事情もあるだろう。

<参考史料>
<永禄12年>--------------
正月 摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
 ※兵庫県史(史料編・中世2)P432
1/5 阿波足利家擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
 ※言継卿記4-299、群書類従20(合戦部:細川両家記)P631など
1/27 京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
 ※言継卿記4-P305など
3 幕府・織田信長勢、摂津国兵庫を攻撃
 ※(新)神戸市史(歴史編3・近世)P3など
3/2 摂津国豊嶋郡などへ徳政令発布
 ※箕面市史(資料編2)P413など
7 幕府・織田信長勢、播磨・但馬国方面へ向けて出陣
 ※龍野市史4(史料編1)P463など
8/1 摂津守護池田勝正、但馬山名氏討伐に従軍
 ※池田市史(史料編1)P81など
8/8 摂津守護池田勝正、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しの通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P900など
8/17 堺商人今井宗久、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しについて池田勝正へ音信
 ※堺市史5(続編)P898など
8/27 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P906
10/23 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P914
10/26 摂津守護池田勝正など幕府勢、播磨国へ出陣
 ※足利季世記(改定 史籍集覧第13冊)P255、池田市史(史料編1)P81など
11/11 摂津守護池田勝正、織田信長方から再度押領停止の通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P916、織田信長文書の研究-上-P323など
11/19 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P916

<永禄13年・元亀元年>--------------
1/23 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
 ※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア53号P134(二條宴乗記)など
2/2 将軍義昭、禁裏へ参内
 ※言継卿記4-P383
2/22 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P927
4/20 幕府・織田信長勢、京都を出陣
 ※言継卿記4-P407、多聞院日記2(増補 続史料大成)P181など
4/26 越前国天筒山・金ヶ崎城などが落ちる
 ※朽木村史(史料編)P147、信長公記(新人物往来社)P103など
4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
 ※朽木村史(資料編)P147+148、信長公記(新人物往来社)P103など
4/30 織田信長、京都に帰着
 ※言継卿記4-P411、多聞院日記2(増補 続史料大成)P182、ビブリア53号P146(二條宴乗記)など
5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
 ※織田信長文書の研究-上-P409など
6/1 摂津池田衆、摂津国欠郡中嶋城の普請を行う
 ※新修 茨木市史(通史2)P28など(狩野文書)
6/18 摂津池田城内で内紛が起こる
 ※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634など
6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
 ※言継卿記4-P425など
6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
 ※言継卿記4-P425
8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
 ※言継卿記4-P440、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P156など
8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
 ※ビブリア52号P155(二條宴乗記)、池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P440など


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2010年12月29日水曜日

元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程

また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していますが、単独で兵を多数率いていたわけでは無いようです。
 そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
 西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
 永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
 この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
 さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
 やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。

 個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。

 そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
 一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。

 こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。

 それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。




2010年12月22日水曜日

元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路

元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。
 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。
 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵の前衛拠点制圧を目的として、最低二筋に分かれて決戦地点まで進みます。

ですので、22日に近江国高島郡田中城に入った後は、ここから二手に分かれて進軍したと個人的に想定しています。
 というのは、元々浅井方の動きを知るためのもので、高島郡から西近江街道を進めば、越前国境まで浅井領内を進みます。この行動に対して反応するかどうかを試したのではないかとも考えています。また、浅井勢が北上した時にこれを察知して食い止める必要も有り、西近江街道に軍勢を入れておく必要もあったと思われます。
 もちろん、疋田城ほか、抵抗する拠点を制圧・攻囲する必要もあります。また、湖北は、今津・海津など要港があり、これも視野に入れつつ、実際的に補給の事も考えておかなければいけません。

さて、池田勝正はこの二つの内、どちらを進んだかです。

現在もそうなのですが、軍隊は地域性を帯び、やはり織田信長の軍勢の最小単位もやはり、一族衆単位です。この当時の軍隊はそういう編成になっているようで、池田衆は幕府から出した軍勢として位置づけられています。摂津守護職を受けている家ですから当然でしょう。
 この時、池田衆は3,000の兵を出しているのは、当時の史料からもわかりますので、それは中核といっても良い勢力です。また、信長にとっても尤も信頼の置ける部隊のひとつでしたので、そばに置いたか、敢えて、幕府衆として西近江街道を進ませたかは、今も判断に悩むところです。
 しかし、この時の事に関する若桜国方面での記述では、信長や徳川家康についての記述が多いように見えますので、勝正など幕府衆は信長に随伴していなかったかもしれません。

それからまた、高島郡で陣を取った時、この地域は浅井方の勢力も入り込み、幕府方などの勢力と拮抗していた地域であったよです。
 元亀元年早々の諸国大名宛てに公武参内を促す触れ状に、「西佐々木七家」とありますが、この西佐々木七家の惣領家とされる佐々木越中家の本拠と考えられる清水山城を宿泊場所に選んでいません。ちなみに田中城は、割と大きな安曇川を境として南側にあります。
 今後、調査が進めば田中城と清水山城との関係がはっきりするのかもしれませんが、しかし、こういった環境やその行動から見て、この安曇川が勢力の境だったのでは無いかとも考えられます。

広い平野となっている高島郡安曇川で軍勢と物資を集めたと思われます。ここで敵と味方の政治的な判断を行い、信長は若狭方面へ進みます。また、若狭でも軍勢を集めており、伝わるところによると、ここで兵の総数が50,000(全体を合わせてだと思います)になったとしています。
 さて、それを見越して、安曇川の平野に控えを置き、途中の補給が無い、西近江街道を進む一隊に半分以上を預け、大軍を維持させて示威行動を取らせたのではないでしょうか。
 途中に人数を割く計算もあると思いますが、信長は常に大軍を準備し、その圧倒的な数で敵の戦意を削ぎ、交渉に持ち込む事が常套手段です。ですので、この時もその常套手段を用いて目的遂行を続けたと思われます。
 西近江街道を進む一隊は、疋田城を囲みます。ここを攻める必要は無く、釘付けにさえしておけば良いところで、その事で、浅井勢が塩津街道から北上すれば、ここで食い止める事と、動きがいち早く察知できます。ちなみに、北国街道もありますが、この時は浅井勢がこれを使っても意味はありません。

史料を見ると信長は、用意周到に準備を行い、行動しています。カケのような事はほとんどしません。カケのように見える行動は、永禄12年正月の三好三人衆勢力による京都本圀寺攻めの時や天正4年の本願寺合戦の折に原田直政が戦死した戦いなどがありますが、数としては少ないです。
 それは大抵、守りの戦いで、全体がひっくり返る程の状況ではありません。手当を間違えば、大きな損害になると考えた場合には、自ら迅速果敢に行動しています。そういった事は全て、政権主導者として必要な事を行っているのであって、時と場所を機敏に捉えて、信長は過不足無く周到に行動しています。

よって、この元亀元年の越前朝倉攻めは、後年にドラマチックに描かれていますが、こういった信長による用意周到な計画と行動によって、相手の行動も当然ながら想定されており、勝正の行動もそれに沿ったものだったと考えられます。

まだ、調べ足りないところもあるのですが、今のところそういった状況も想定できるのではないかと考えています。



2010年12月8日水曜日

元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて

金ヶ崎の退き口で有名な元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、これに池田勝正が幕府守護格として3,000を率いて参陣しています。これは幕府方としては、主力を成す軍勢です。
 しかし実は、この遠征は周到に用意され、敵か味方かを知る事が主要目的であり、それを見越した手配がされていた事がわかります。
 永禄12年段階で、浅井方の不穏な動きが伝わっており、これを確認するためであったと考えられます。撤退は折り込み済みの行動だったというわけです。信長は、浅井に動きがあった場合に備えて、京都に軍勢の控えを置き、岐阜方面などでも準備をしていた事が各種資料からわかります。また、将軍の近江出陣も予定されていました。信長はイメージとは違い、非常に慎重で、用意もしっかり整えなければ、大規模な行動は起こしません。

想定外だったのは、むしろ摂津池田の幕府からの離反でした。

さて、元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、若狭守護武田家の救援を大儀として、この軍事行動を起こしたようですが、武田家に背く勢力の背景は朝倉氏でした。最終的にこの繋がりを辿って、朝倉氏領内への軍事侵攻を企んでいましたが、やはり事が進むに連れ、想定通りの動きが見られました。それがいわゆる「金ヶ崎の退き口」となったわけです。
 ですので、撤退も幕臣である朽木氏の領内に入り、朽木から京都への街道を使わず、より安全な丹波国を経由して京都へ入っています。撤退ルートも予め設定されており、波多野氏などの友好的な勢力下の領内を通って京都へ戻っているのです。
 戻ると今度は、本願寺や一揆の動向を暫く観察し、同時に兵糧等の物資を運び込んで京都での会戦準備を行っています。この時、将軍の居所を兼ねた城が落成したばかりです。ここからも信長の周到さが窺われます。
 それを見届けた信長は、5月9日になって、岐阜へ戻るため、数万の軍勢を率いて京都を出発しています。

 さて、話しを戻します。若狭武藤氏及び越前朝倉攻めのため、信長は3万程の軍勢を率いて4月20日に京都を出陣します。これに勝正も同じく軍勢を率いて京都を出たようです。軍勢は和爾を経由して、高島郡田中の田中城に到着。ここで宿泊します。
 補給や安全確保のためにも軍勢は、ここから二手に分かれたと思われ、二方向から敦賀へ向けて進んだのだと思います。であれば、高島郡の平野部に軍勢を更に招集していたと考えられます。信長は、示威も兼ね、また、独自の戦術からも常に大軍を動かしています。また、この平野には田中の城を初め、多数の城や寺社があり、宿営も容易です。ここで、味方か敵かを確認できる、政治的な行動を示す場所でもあったと考えられます。

 そして信長は熊川を経由して、若狭国へ入るルートを使い、別の一隊を西近江路から進ませ、海津経由で途中、疋田城を囲んで孤立化させて、敦賀に入ったと思われます。