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2024年4月9日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(内訌直前、池田勝正が守護役(えき)として中嶋城の普請を行う)

この項目は「諸役負担、軍事負担、一部の権利返上」の補足である。同頁を併せて読んでいただきたい。この補足を行う事で、守護職を任じられる名誉と引き換えの苛烈な負担が池田家へ課されていたことが更にお分かり頂けると思う。
 状況としては、越前国守護朝倉氏攻めの結果、噂通りに近江国浅井家の幕府・織田信長方からの離反が判明し、この方面での争乱の火蓋が切られたカタチとなった。
 他方で、元々の幕府にとっての討伐対象であった、阿波国三好氏勢力は反幕府方として、京都を取り囲む包囲網を形成して、西から攻め上る構えを見せていた。元亀元年6月には、堺に軍勢が集まっている事が盛んに報じられ、不穏な空気を感じざるを得なくなっていた。これに備えるため、摂津守護である池田・伊丹方に、急遽の守護役が課される事となった。

十三公園(撮影:2006年2月頃)
これらの一連の動きは、織田信長の耳に入っており、京都の東西へその備えを行った。軍事面での戦術上、それを超えた戦略上も兼ねて、将軍自らの後巻きの出陣を進めていた。
 東部方面の近江国では、髙島郡の田中城(清水城館)を想定。西部方面の摂津国では、欠郡の中嶋城(現大阪市淀川区)をその場と決定していた。しかし同城は、そのまま使うには手薄であったらしく、急遽の補強を行う事となった。加えて、その補完的要地である榎並城(現大阪市城東区)にも手を加えている。
 この時、池田家(勝正)は、中嶋城の普請に2〜300名の人夫を出している。これは奴隷労働ではないので、当然賃金などの労役負担金品を池田家が供出している。

この中嶋城の対応については、典厩家の城としての社会的な象徴や認知があった事と、瀬戸内海と京都とをつなぐ交通と物流への監視、加えて、大坂本願寺への備えという意味があったと考えられる。
 後年、織田信長が政権として畿内地域で独立を始めた頃の天正2年夏、反織田方であった大坂本願寺を包囲するために、この中嶋から崇禅寺方面にかけて大合戦が行われており、この地域が要所の証左としての出来事もある。

池田家は、将軍義昭の実兄を殺害した阿波国三好家の一族であり、将軍義昭により守護職に取り立てられたとはいえ、疑いと迫害を多分に受けていた事は、数々の歴史的痕跡により容易に想像できる。
 元々、脆弱な足利義昭政権を支える為に、非常に重い課役を命じられていた事は、様々な史料からも判明する。池田家中は、それらに絶えられなくなった事と将軍義昭政権維持が危ぶまれる程の敵の軍事攻勢を前にして、池田家の人々は精神的にも追い込まれて、家中政治は断裂するに至った。同時に、藤原家の象徴的存在でもあった、近衛前久の反幕府行動もあり、同じ藤原一族としての池田氏も、その策動を意識せざるを得なかった事情もあるだろう。

<参考史料>
<永禄12年>--------------
正月 摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
 ※兵庫県史(史料編・中世2)P432
1/5 阿波足利家擁立派三好三人衆勢、将軍義昭の宿所本圀寺を襲撃
 ※言継卿記4-299、群書類従20(合戦部:細川両家記)P631など
1/27 京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
 ※言継卿記4-P305など
3 幕府・織田信長勢、摂津国兵庫を攻撃
 ※(新)神戸市史(歴史編3・近世)P3など
3/2 摂津国豊嶋郡などへ徳政令発布
 ※箕面市史(資料編2)P413など
7 幕府・織田信長勢、播磨・但馬国方面へ向けて出陣
 ※龍野市史4(史料編1)P463など
8/1 摂津守護池田勝正、但馬山名氏討伐に従軍
 ※池田市史(史料編1)P81など
8/8 摂津守護池田勝正、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しの通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P900など
8/17 堺商人今井宗久、天王寺善珠庵分の年貢引き渡しについて池田勝正へ音信
 ※堺市史5(続編)P898など
8/27 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P906
10/23 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P914
10/26 摂津守護池田勝正など幕府勢、播磨国へ出陣
 ※足利季世記(改定 史籍集覧第13冊)P255、池田市史(史料編1)P81など
11/11 摂津守護池田勝正、織田信長方から再度押領停止の通達を受ける
 ※堺市史5(続編)P916、織田信長文書の研究-上-P323など
11/19 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗正詮などへ音信
 ※堺市史5(続編)P916

<永禄13年・元亀元年>--------------
1/23 織田信長、摂津守護池田勝正など諸大名へ触れ状を発行
 ※織田信長文書の研究-上-P346、ビブリア53号P134(二條宴乗記)など
2/2 将軍義昭、禁裏へ参内
 ※言継卿記4-P383
2/22 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族同苗清貧斎正秀へ音信
 ※堺市史5(続編)P927
4/20 幕府・織田信長勢、京都を出陣
 ※言継卿記4-P407、多聞院日記2(増補 続史料大成)P181など
4/26 越前国天筒山・金ヶ崎城などが落ちる
 ※朽木村史(史料編)P147、信長公記(新人物往来社)P103など
4/28 越前国金ヶ崎からの撤退戦始まる
 ※朽木村史(資料編)P147+148、信長公記(新人物往来社)P103など
4/30 織田信長、京都に帰着
 ※言継卿記4-P411、多聞院日記2(増補 続史料大成)P182、ビブリア53号P146(二條宴乗記)など
5/上 織田信長、五畿内の主立った武家から人質を取る
 ※織田信長文書の研究-上-P409など
6/1 摂津池田衆、摂津国欠郡中嶋城の普請を行う
 ※新修 茨木市史(通史2)P28など(狩野文書)
6/18 摂津池田城内で内紛が起こる
 ※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634など
6/26 摂津守護池田筑後守勝正、将軍義昭に面会
 ※言継卿記4-P425など
6/27 将軍義昭、近江国出陣を延期(中止)
 ※言継卿記4-P425
8/25 摂津国豊島郡原田城が焼ける
 ※言継卿記4-P440、戦国摂津の下剋上(高山右近と中川清秀)P156など
8/27 摂津守護池田勝正、摂津国欠郡天満森へ着陣
 ※ビブリア52号P155(二條宴乗記)、池田市史(史料編1)P81、言継卿記4-P440など


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2023年5月6日土曜日

大坂本願寺五十一支城の一つ、伝葱生(なぎう)城について

全く偶然の出会いでした。大阪市旭区にある、城北公園は、市バスの行き先として名前を聞いたのですが、一度も訪ねたことが無かったので、今回初めて訪ねました。初めは、千林の商店街をウロウロし、その内に、京街道を辿って淀川へ。淀川の堤防道をのんびり歩いて、城北公園へ向かいました。その帰り道、お寺がありましたので、ちょっと寄ってみました。

指月山常宣寺です。付近に一石五輪塔があり、古い寺だと思いました。そうすると、案内板があり、この付近は葱生(なぎ)城があったと伝わる場所との事。元亀天正の乱で、織田信長方に対抗した大坂本願寺五十一支城の一つとされてます。五十一支城の事は知っていましたが、あまり熱心に関心を持たなかったので、この付近にもあった城のことは知りませんでした。驚きました。

その出会いがあり、これを機に、葱生城の事を少し調べて、資料を提示しておきたいと思います。いつもの手法で進めたいと思います。先ずは、日本城郭大系です。
※日本城郭大系12-P188

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◎葱生城(大阪市旭区大宮)
葱生は荒生とも書く。『東成郡誌』に「大字荒生の東方に古城址ありありと伝ふ」とあるが、築城者・築城年・正確な位置などいずれも不明である。石山合戦における本願寺の支城五十一の一つであろうか。『日本城各全集』では、大字「荒生」の東に続く大字「中」のもう一つ東隣の大字「江野」に含まれていた字「殿屋敷」を葱生城跡に比定しているが、確定はむずかしい。
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続いて、日本城各全集です。
※日本城各全集9-P130

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◎葱生城(大阪市旭区大宮)
荒生城とも書く。砦のあったと思われる場所は、明治42年頃までは、淀川左岸の堤下に沿った所にあった。明治18年、上流の枚方では堤防が決壊して、大阪市内をはじめ河内、摂津に大きな被害をもたらしたので、淀川の改修工事が行われるようになった。その際に川床が北に付け替えられて、現在の流れになったのである。だから付近一帯は、昔の面影が全然認められないのである。
 『東成郡誌』『旭区史』によると「葱生の東方に古城址あり」というのみで、築城者・築城年代については何らの記載もなく、不明であった。最近になり、旧家所蔵の古地図の発見により、砦のあったと思われる場所を確認するに至ったのである。
 その昔、葱生は、榎並庄に属し、庄内には灌漑用に淀川から引き入れた洫川(いじかわ)が縦横につけられていた。この淀川と洫川とに囲まれた一角に、殿屋敷という字名のある土地が砦跡である。その西方には、北城道東、北城道西という字名の地も隣接している。また、この殿屋敷の東方は、河内国に近い関係上、河内とは深いつながりがあったことと思われる。
 殿屋敷の地は北を淀川に接し、西方と南方を洫川に囲まれた東西約200メートル、南北の最長で70メートルぐらいの面積があるので、周囲の水路を利用して、要害としたであろうと思われる。
 しかし、いつの頃より砦として利用されたかについては、現在のところ資料による究明は不可能である。ただ、想像の域でしかないが、正平24年(1369)、楠木正儀が榎並に陣した年代を上限とし、石山合戦の天正4年(1576)を下限とする期間に、砦があったことは間違い無いと思う。
 このうちいちばん可能性のあるのは、石山合戦のおりに本願寺軍が、森口、毛馬、野江などに五十一支城を築いて信長方に備えた時、この葱生の東方にも砦が設けられたのではないかという仮説である。
 この殿屋敷の地は、森口と毛馬のほぼ中間に位置し、淀川を隔ててて、江口城址、茨木城址が望見せされ、南方は野江城(榎並城址)を経て、石山本願寺が約4キロメートルの彼方にある地点である。
 このように、本願寺を守備するための前進拠点には、格好の土地であるということが第一の理由である。また、付近の農民には一向衆徒が多く、合戦の折に稲田を刈って兵糧とし、本願寺に供している。その後、毎年、本願寺よりこぶし大の餅600個を、末寺を通じて信徒に交付している事実より推して、近在の農民信徒も、葱生城に楯籠もったのではないかと思われるのが第二の理由である。
 以上の他に、歴史に名の残る武将が築城したり、入城しておれば、当然なんらかの史料が残るものであるという理由からでもある。
 現在、淀川は殿屋敷のはるか北を流れ、周囲の洫川も全部埋められている。古地図に見られた数条のの道路だけが断片的に痕跡をとどめ、わずかに砦跡を確認する生きた資料となっている。殿屋敷の現状は住宅が密集しており、その付近の住民は数百年前の歴史が、地下で無言の内に見守っているとは知らずに、平和な生活を送っている。
 砦跡のあった殿屋敷の地は、大宮幼稚園の南側の一画であることを付記しておく。
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『日本城各全集』によると、城と関係の深いとされる殿屋敷の地は、葱生城のあったとされる「常宣寺」からは、東南方向へ800メートル程離れています。
 そして、大阪府の地名です。
※大阪府の地名1-P610

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庄園分布図(吉川弘文館)
◎荒生村(なぎう):旭区生江1-3丁目、鷹殿1-2丁目、都島区御幸町1-2丁目、高倉町1-2丁目
平安時代以降榎並庄を形成した村で、西は赤川村、北は淀川に臨む。淀川対岸の西成郡三番村(現淀川区)へ荒生渡がある。集落は村域北部に集中するが、慶長10年(1605)の摂津国絵図は淀川沿いに「ナキフの内」と記す小集落を載せ、「摂津志」にも属邑一とある。これは字池川(いけがわ)のことであろう(大阪府全志)。村名は本来、葱生(宝暦3年摂州住吉東生西成三郡地図)または、■生(寛永-正保期摂津国高帳)と表記するのが正しいが、「葱」の俗字である「■」を「荒」に誤記、定着して一般的な表記となったと考えられる。「摂陽群談」には「薙生(なぎう)」とみえる。また元禄郷帳なども荒生を「なぎう」と読ませているが、のちに「なぎ」と略称されるようになった(「地名索引」内務省地理局編)。いずれにせよ当地が古くから葱の産地であった(摂津志・古今要覧稿)ことによる名であろう。
 元和初年の摂津一国高御改帳に「なきう村」とみえ、大坂藩松平忠明領で高488石余。同藩領であったのは元和元年(1615)から5年まで、その後幕府領となり、幕末には大坂城代領(役知)。享保20年(1735)摂河泉石高帳は2石余の流作を記すが、江戸時代を通じて村高の大きな変化はない。名産には葱の他に越瓜(あさうり)があった(享保8年摂州榎並河内八個両莊之地図)。出潮引汐奸賊聞集記(大阪市立博物館蔵)によると、天保8年(1837)の大塩の乱の時、大塩平八郎から施行を受け、天満(現北区)に火災があれば駆けつける約束をした当村の住人忠七ら8名は、天満への途中で変を知り遁走している。村の東方には城跡があったと伝え、石山合戦における本願寺(跡地は現東区)の端城五一ヵ所の一つとも考えられるが城名を含め詳細は不詳。字小反田の糸桜山蓮生寺は浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来像に「摂津国欠郡榎並莊葱生」の墨書銘がある。字池川の指月山常宣も寺同派。
※■ = 草冠に忩
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摂津国榎並庄について、見てみます。中世時代の項目を抜粋します。
※大阪府の地名1-P609(旭区)

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【中世】
榎並庄は鎌倉時代末頃には近衛家の支配が衰退して奈良春日領となり、十五世紀後半には上庄の半分と下庄東方・同西方が京都北野社領となった。鎌倉時代から南北朝時代頃、当区には赤川村に赤川(せきせん)寺(大金剛院)、般若寺村に般若寺という大寺院があったが、いずれも洪水や戦乱によって消滅したと伝える。第二次世界大戦後、新淀川の河床から鎌倉時代の遺物が出土、大金剛院のものと推定されるが、現在は赤川廃寺跡として市の埋蔵文化財包蔵地に指定されている。現兵庫県川西市の満願寺には、赤川村大金剛院の住持覚賢が元仁2年(1225)から6年間かかって書写した大般若経六〇〇巻が残る。同教の寛喜2年(1230)の奥書には、赤川村は西成郡とされており、一説に当区西部はもと西成郡北中島に属したが、淀川の水脈変化により東成郡となったともいわれる。しかし淀川の流路については不明な点が多く、また東成郡・西成郡の混用例も少なくないので、赤川付近が西成であったと断定できる証拠はまだない。文明年間(1469-87)蓮如の教化により当地方にも真宗が浸透したと考えられ、元亀-天正年間(1570-92)織田信長と石山本願寺(跡地は現中央区)の合戦では荒生(なぎう)村・江野村に本願寺の端城の一つが置かれたと伝える。

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この地域にあった大寺院が気になります。赤川村の伝大金剛院についてです。
※大阪府の地名1-P610

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◎赤川廃寺跡(旭区赤川4丁目)
淀川河川敷にあり、「赤川廃寺跡」として大阪市の埋蔵文化財包蔵地指定されている。寺は天台宗で大金剛院と称し、俗に赤川(せきせん)寺ともよばれたという(東成郡誌)。現在兵庫県川西市満願寺に残る大般若経六〇〇巻は、第一巻追奥書により、元仁2年(1225)から寛喜2年(1230)まで6年の歳月を費やして「榎並下御庄大金剛院」の住持覚賢が書写、天文16年(1547)池田信正が摂州豊嶋郡久安寺(現池田市)に寄進したのを、安永9年(1780)内平野町2丁目(現中央区)の山中成亮(長浜屋吉右衞門)が発願して、修補、脱巻を書写し経函12を添えて満願寺に寄進したものであることがわかる。大金剛院は同経巻111の嘉禄2年(1226)奥書に記すように西成郡柴島(現東淀川区)に別所を有する大寺院であった。しかし、室町時代頃洪水によって流出したと考えられる。第二次世界大戦後、淀川河川敷から鎌倉時代の土師器や須恵器・瓦器・陶磁器などが出土しているが、いずれも赤川廃寺の遺物とみられている。
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これらの要素は、全て摂津国榎並庄内にあります。榎並庄は、現大阪市城東区野江・関目付近を中心とし、かつての大和川と淀川の合流点に近い低湿地に存在した大規模な庄園でした。近世には淀川南東、鯰江川以北の摂州25村を榎並庄と称していて、現旭区・都島区のほぼ全域と、城東区北半、鶴見区の一部にあたり、野江村の水神社付近には、中世榎並城がありました。馬場村(現旭区)の集落部を字榎並というのが注目されています。
 この榎並庄は、摂津池田家と姻戚関係にある三好政長(入道宗三)の支配領域でしたので、非常に関係の深い所で、重要な場所です。榎並庄と榎並城については、また別の記事に詳しく取り上げたいと思います。それからまた、この地域は、摂津・河内の国境でもあり、非常に敏感な場所でもあります。

三好政長は、池田家惣領信正の義理の父にあたりますが、この政長という人物は非常に欲深く、この縁をたどって、富裕であった摂津池田家の財産を我が物にしようと画策し、この個人の欲望が中央政権をも揺るがす程に影響を与えます。
 この不正が元で、政長は失脚し、また、管領細川晴元政権が転覆するほどの信用問題となりますが、そんな事には構わず、政長の跡継ぎである政勝もその方針を引き継ぎ、とことん池田家の財産にコダワリ続けます。

結局それは、実力を伴わず、願望の範囲に収束していき、時代は流れて、摂津池田家から頭角を顕した荒木村重が、事実上の摂津国一職を担うようになり、無効化していきます。

しかし、その三好政長一党の凄まじい執念を見るにつけ、人間の性(さが)の一端を見たように思います。その視点からの歴史も、現代を生きる私達の教訓たり得る事実として、非常に興味深い所があります。

その後、この三好一任斎為三の一党は、関ヶ原合戦を経て江戸幕府の旗本ととして、家を繋ぎます。三好家は、讃良郡南野、河内郡横小路(現東大阪市)、錦部郡小山田、高田(現富田林市)の四か村など、二千二十石余りの禄を得ていました。三好家は江戸在府のため、代官を派遣して領知を支配しました。その代官所跡の一つが、雁屋(現四條畷市)の公民館南側の民有地でした。何らかの由緒を提示して得られた領知なのかもしれません。

2013年9月2日月曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その6:三好為三と下野守が別人であると考える要素)

三好下野守と同苗為三が別人だという事は、史料上では明らかです。その一方で、同一人物であるとの要素(説)も検証しつつ、別人であるとの考えの精度を、更に高める必要もあろうかと思います。
 また、くどい様ですが、両者の前提は、下野守は政勝の兄で、政勝は入道して為三と名乗ったと考えています。

さて、三好下野守と同苗為三について、既述の記事から抜き出して、両者が別人であると考えさせる中心部分の史料を元に、考えをまとめてみたいと思います。両者の活動の経緯については、それぞれの記事をご覧下さい。
 両者が別人と私が考える決定的要素は、永禄12年5月頃、三好下野守が死亡した後にも、三好為三の活動が史料上で見られる事です。しかも、下野守と入れ替わるように、それまで殆ど見られなかった、為三の自署史料も現れます。
 先ずは、下野守が死亡したと伝える史料から見てみましょう。永禄12年5月26日条にある『二條宴乗記』の記述です。
※ビブリア52号P78・62号(補遺)P64(二條宴乗記)

-史料(1)-------------------------------
52号:
三好下野(守)入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
64号:
三好下野(守)入道釣閑斎、当月三日に遠行由。
--------------------------------

 三好下野守は、阿波国で死亡したらしいと、入って来た情報を短く書き留めています。これについて、二條宴乗記は「言語道断」と自分の感想を書き残していますが、言葉に言い表せないと、しています。
 これは、その人格や個人的な事にも寄るとは思いますが、一乗院が色々と下野守を通じて様々な便宜(興福寺の権利獲得などの政治的な折衝窓口として)を得ていた事から、その死亡によって、何か大きなものを無くしたような気持ちになっていたのかもしれません。下野守は、様々な団体の訴えを聞き、対応していました。

また、キリスト教の宣教師ルイス・フロイスの編纂した『日本史』第29章(第1部77章)-司祭を(都へ)連れ戻す事に関して翌1568年に更に生じた事-条には、三好下野守の死について記述があります。
※日本史4-五畿内篇2(中央公論社刊(普及版))P70

-史料(1-a)-------------------------------
けれども1年と経たぬ内に、この下野殿は奇禍に遭い、哀れな死を遂げたし、(後略)。
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下野守は死亡したとの記述がここでも確認できます。この史料は、その出来事から「1年も経たない内に」という期間まで考証を加えてくれています。また、フロイスは当然、二條宴乗の記した日記を見る事はできません。下野守が死亡したと、フロイス自身も記録にとどめ、把握していた訳です。
 やはり、下野守の永禄12年頃の死亡は、事実と考えられます。また、「奇禍に遭い」とは、何かの謀略による死を示唆しているのでしょうか?何れにしても、その最期については、詳しく判りません。

ちなみに二條宴乗とは、奈良興福寺一乗院の坊官で、本願寺宗でいうところの下間氏のような役割を果たす、家政機関の中心人物です。また、奈良興福寺の一院である、多聞院の英俊が残した『多聞院日記』という文書もありますが、こちらも宴乗と同じような立場で残した日記です。
 こういった家政機関は、独自に色々と情報を収集し、備忘録として日記に残していたのです。奈良はこの当時、大都市でしたので、多くの商人や重要人物が出入りし、情報をもたらしました。
 それらの日記を読むと、特に二條宴乗は、堺の動きも熱心に収集していたようです。商人や使者などから、色々と話しを聞いている様子も日記から判ります。三好下野守が死亡したとの情報は、堺方面から、もたらされたのかもしれません。

そして、下野守が死亡したと奈良興福寺一乗院に伝わった翌月の閏5月、三好為三が関わる、三好三人衆家中での死亡者も出る程の喧嘩について、同じ奈良の多聞院に伝わっています。
※多聞院日記2(増補 続史料大成)P130

-史料(2)-------------------------------
淡路国於喧嘩有て、三好為三被官矢野伯耆守以下死に、三人衆果て云々。実否如何。
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この記述は奈良興福寺における、三好三人衆についての関心の高さを窺わせます。永禄10年から翌年にかけて、三好三人衆と松永久秀の抗争があり、これが奈良を舞台に行われた事から、興福寺は三好三人衆についてよく知っています。また、様々な土地や権利の安堵も受けていたりしますので、実益も受けていました。
 同12年から元亀元年頃まで、将軍義昭政権の永続性を不安視し、三好三人衆が返り咲く可能性を、多くの宗教勢力を始め、その他大小の権威が想定していた事もあって、興福寺もそれに漏れない考えを持っていた事を窺わせる動きです。

上記2つの史料からは、下野守が死亡した後にも為三は生きていたという事が判ります。更に、元亀元年9月1日条の『多聞院日記』には、三好為三の動きが記述されています。これに関連して、『言継卿記』8月29日条にも、為三についての記述が見られます。
※言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206など

-史料(3)-------------------------------
『多聞院日記』9月1日条、(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
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多聞院英俊は、三好為三の動きに関心を持ち続けています。多分、英俊は、為三についてどこに所属する、どんな人物で、どんな経歴を持つのかを、ある程度は知っていたのだろうと思います。
 英俊は為三について自身の日記中に、人物録のように詳しくは書き残してはいませんが、その動向に関心を持ち続けているという事は、そこに何らかの重要性を感じているからに違いありません。
 ちなみに、三好下野守は、数千の軍勢を常に動かす程の人物でしたので、「300計り」とは規模が小さ過ぎます。また、下野守は三好三人衆の中枢であり、そんなに簡単に寝返るとは考えられません。

さて、元亀元年9月、為三の幕府・織田信長方への投降時、為三は幕府方に寝返りの条件を要求しています。同年9月20日付けで、信長が為三へ宛てた音信があります。
※織田信長文書の研究-上-P392

-史料(4)-------------------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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これについて、信長と幕府は、1年近く経ってから解答をしています。随分と結論に至るまでに苦慮していたようです。しかし、この頃幕府・信長方が、京都周辺において軍事的な空白地域を作り出していたため、それへの対応として、こういった措置が取られたようです。

先ず、元亀2年6月16日、信長が為三の要求について、結論を出します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-史料(5)-------------------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭(忠親)へ了簡される事肝要候。
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この史料で注目したいのは、「史料(4)」の要求に対して信長は、為三の本知は東成郡榎並庄だから、そこを先ずは回復するようにとの、解答をしています。豊嶋郡領有の要求の代替案を出して対応しています。これは幕府方として身を寄せていた、池田勝正に対応する配慮と考えられます。
 そして「史料(5)」に続いて、将軍義昭が、為三の要求に解答を出します。同年7月31日付けで、為三に宛てて御内書を下しています。
※大日本史料10-6P685

-史料(6)-------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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直上の2つの史料を見ると、信長は厳しい条件を為三に告げていますが、将軍義昭はその厳しさを緩和し、希望が持てるような内容を加えて伝えています。

一方で、将軍義昭の御内書に見える「舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事」とは、下野守存命中にはあり得ない概念が記されています。
 三好三人衆の一人であった下野守が、既に死亡している旨を、将軍義昭・信長方に寝返る際に、為三は告げていたのでしょう。
 何れにしても永禄12年5月以降、三好下野守に関する資料は見られなくなり、直接的史料も見当たりません。しかしながら、それと入れ替わるように為三の資料は現れるようになります。
 
「史料(6)」に代表されるその関連の動きを見ても、三好下野守と為三は、確かに兄弟であろうと考えられます。
 それからまた、既出の「史料(4)」に関連する興味深い史料があります。天文17年8月12日付けで、三好長慶が、管領細川右京大夫晴元奉行人塀和道祐・波々伯部左衛門尉・高畠伊豆守・田井源介長次・平井丹後守へ訴えた史料です。
※大阪編年史1-P459

-史料(7)-------------------------------
急度申せしめ候。仍て同名越前守入道宗三(政長)礼■次、恣に御屋形様の御前を申し掠め諸人悩まし懸け、悪行尽期無きに依り、既に度々於、上様御気遣い成られ次第淵底御存知の条、申し分るに能わず候や。都鄙静謐に及ぶべく仕立て之無く、各於併て面目失い段候。今度池田内輪存分事、前筑後守(信正)覚悟、悪事段々、是非に及ばず候。然りと雖も一座御赦免成られ、程無く生涯為され儀、皆々迷惑せしめ候処、家督事相違無く仰せ付けられ太松(長正か。不明な池田一族。)、条々跡目の儀、安堵せしめ候き。然る所、彼の様体者、三好宗三相拘え渡し置かず、今度種々儀以って、城中(池田)へ執り入り、同名親類に対し一言の■及ばず、諸蔵の家財贓物相注以って、早や知行等迄進退候事驚き存じ候。此の如く時者、池田家儀我が物にせしむべく為、三好宗三掠め上げ申し儀、筑後守信正生害せしめ段、現行の儀候。歎き申すべく覚悟以って、三好宗三一味族追い退け、惣同名与力被官相談じ、城中堅固の旨申す事、将亦三好宗三父子に対し候て、子細無く共親(外舅)にて候上、相■彼れ是れ以って申し尽し難く候。然りと雖も万事堪忍せしめ、然るに自り彼の心中引き立て■■の儀、馳走せしむべく歟と、結局扶助致し随分其の意に成り来り■■今度河内国の儀も、最前彼の身を請け、粉骨致すべく旨深重に申し談、木本(木ノ本?)に三好右衛門大夫政勝在陣せしめ、彼の陣を引き破り、自ら放火致して罷り退き候事、外聞後難顧みず、拙身(三好長慶)を相果たすべく造意、侍上げ於者、言語道断の働き候。所詮三好宗三・政勝父子を御成敗成られ、皆出頭致し、世上静謐候様に、近江守護六角弾正少弼定頼為御意見預るべく旨、摂津・丹波国年寄衆(大身の国人衆)、一味の儀以って、相心得申すべくの由候。御分別成られ、然るべく様御取り合い、祝着為すべく候。恐々謹言。
※■=欠字部分。
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この頃は三好宗三が嫡子の同苗右衛門大夫政勝に家督を譲り、家の後見人として活動していた時期です。
 史料の下線部分、宗三・政勝父子の行動に注目して下さい。天文17年の時点で、血縁を持つ裕福な池田家の乗っ取りを、宗三・政勝父子は企んでいました。これは実態からすると、婚姻による、同化政策ともいえます。

天文17年から22年後の元亀元年、三好政勝はこの時に、これまで果たし得なかった野望を固有の権利として、将軍義昭・織田信長へ要求したのが「史料(4)」の背景と考えられます。
 そしてその回答として信長は「史料(5)」で、為三の本知は摂津国東成郡榎並庄である事から、そこを先ず回復するようにと、伝えています。その理由は、宗三・政勝父子がかつて、榎並城主だったからです。

そして更に、三好三人衆のひとり、有能であった兄の下野守の後継として、阿波三好家に復帰し、その跡職を継ごうとします。それに関すると思われる史料があります。
 欠年8月2日付け、三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※ 島本町史(史料編) P435

-史料(8)-------------------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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しかし、為三は一族との折り合いをつけられなかったようです。それから間もなく、為三は離反する事となりました。
 その離反が、元亀元年9月、摂津国野田・福島の陣から将軍義昭・信長方に投降した「史料(3)」の行動理由だったと考えられます。
 ちなみに、真偽の程は難しい判断を要しますが、摂津池田家と関わりの深い、個人宅に伝わる興味深い史料があります。欠年10月7日付けで、三好為三が上御宿所へ宛てて音信しているものです。
※箕面市史(史料編6)P438

-史料(9)-------------------------------
代官之事 一、刀根分、一、茨木分、以上。
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元亀3年4月頃、三好為三は、将軍義昭・信長方から再び離反し、三好三人衆方に復帰したようです。これは年記を欠く史料ですが、内容を見ると、元亀3年に該当するものかもしれません。元亀元年との推定もありますが、文中に登場する松永久秀・篠原長房・織田信長の関係性が、判明している10月13日段階では、元亀元年と想定すると各々の場所との整合性が取れません。
 欠年10月13日付けで、為三が、聞咲(所属不明)という人物に音信した史料です。
※戦国遺文(三好氏編2)P272、大阪編年史1-P459

-史料(10)-------------------------------
前置き:尚々細々書状を以って申し入れるべく候ところに音無く、中々是非に及ばず候。そもしの事に有るべからず■■■候。尚追々申し承るべく候、以上。
本文:御状委細拝見せしめ候。その後切々申し承るべく候に、遠路候へば、とかく音無く本意に背き存じ候。一、摂津国大坂の事、京都へ相済まさず候。この一儀種々才覚申し儀候。この間日々天満宮まで罷り出、大坂へ参会申し候。御屋形様へ重々懇ろ候の事、一、篠原長房・安宅神太郎渡海候。奈良右(不明な人物)河内国若江に寄せられ候。安宅神太郎摂津国東成郡榎並に在陣候。昨日(10月12日)松永山城守久秀・十河・松山重治等と牧・交野辺罷り立ち候。少々川を越し、摂津国高槻へ上がり候由候。同国茨木表相働き、同国池田へ打ち越し相働くべく候旨候。一、その表の事、「むさと」之在り由候。推量申し候。扨々(さてさて)笑止に候。細々仰せられ候、随分御才覚この時候。一、織田信長火急に上洛すべく候由候。左様候はば、何方も相済ませるべく候。御屋形様へは池田跡替え地為、河内半国・堂嶋・堺南北・丹波国一跡前へ遣わし候。■斎の事、今少し見合わせ申し候者、相済ませるべく候。堂嶋にて御存知の如く摂り、一円之無き事候間、御馳走申さず無念候。其の為然るべく使いに相調うべく候。一、摂州(意味は不明)尚承られるべく候。いささか等閑無く候。何れも追々申し談ずべく候。此の外急ぎ候間、申し候旨申し候。恐々謹言。
※■=欠字(判読不明も含む)部分。
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この史料も下線部分に注目して下さい。この段階でも為三はまだ、摂津国豊嶋郡と思しき池田領の領有に拘っており、しかも、その領域が膨大に拡がっています。この根拠はやはり、天文17年の事件以来の「史料(7)」によるものと思われます。

為三も微妙な権力の中心線のズレを捉えつつ、そこに自分の要求を挟むという、何とも絶妙な動きをしているのには、感心させられます。
 元亀3年10月頃は、将軍義昭と信長が決定的な不和となり、幕府内部が分裂状態に陥っていましたので、為三のこういった要求は受け入れられる可能性も、無かった訳ではありません。また、文中に「御屋形様」とあるのは、三好義継を指すものと思われ、「河内半国」の領有要求も同国南側を想定しているのかもしれません。

兎に角、為三の要求は一貫しており、これを相手に求めるからには、当然ながらその要求の根拠となるものが必要条件となります。
 その必要条件とは真実の「核」であって、それが三好政勝を経て入道し、為三となった人物*であり、それらは同一人物と考えてもいいように思います。
※実際、諱の「政勝」は一生涯持ち続けますが、表にはなかなか出て来なくなります。

そしてまた、下野守と為三が兄弟であった事も間違いが無いと思います。先ずは、明確な史料がある事でそれが判ります。「史料(6)」です。更に、それを裏付けるのは「史料(8)」であると考えられます。
 「史料(8)」に署名している三好日向守、石成主税助は、三好三人衆と呼ばれるメンバーで、家政機関の最高位に就いている人物です。公文書を発行する場合、これに三好下野守は漏れなく署名しますが、この史料の場合には、下野守に代わって、為三が登場しています。下野守の弟である事から、その跡を継いだものと思われます。
 この事が為三の兄下野守の跡職を認めさせるよう主張する元になっていると思われます。政治は、前例主義ですから、その事実があればそれをしっかりと正当化してもらえる勢力に加担するべく、為三は考えていたのだろうと思います。

従って、下野守と為三は兄弟である事は、事実であると考えられます。これにより、下野守と為三の父も三好宗三であろうと、必然的に定義ができるものと考えられます。



2013年8月15日木曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方であった摂津池田家と幕府方であった和田伊賀守惟政との決戦が摂津国嶋上郡の「郡(こおり)村」一帯で行われました。これが白井河原合戦と呼ばれています。
 この合戦についての詳しくは、白井河原合戦の項目をご覧いただく事として、今回は、同合戦に関する別の要素を見たいと思います。
 
それは白井河原合戦に至るまでの三好為三を巡る動きです。

初めに概況からです。元亀元年4月以降、近江国大名の浅井氏が幕府・織田信長方(以下、幕府方で統一)から離反したのを初めとして、敵対する連合勢力が一斉に京都を目指して進んだ事から窮地に陥ります。これにより幕府方は、一旦反発勢力と和睦を結ばざるを得なくなります。幕府方は天皇の権威を頼み、軍事的失策を挽回しようと画策していました。
 幕府方は辛うじて京都を保持しつつも、四方八方から敵に囲まれ、軍事的には非常に苦しい状況にありました。そしてそれが、翌2年には更に深刻となり、余談を許さない状況に陥り、幕府方にとっては、どん底の状態が続きます。
 当然、幕府方は、軍事的優位に立とうとあれこれと手を尽くしました。どんな要素からも、挽回の糸口を掴もうと調略や奇襲など、色々と積極的に行っていました。

特に元亀元年6月から、幕府方がなぜこれ程までに苦戦したかというと、反勢力側に本願寺宗が加わった事も、その大きな要因です。宗教勢力が加わった事により、各地の反幕府勢力を繋ぐ役目を果たし、また、社会に深く入り込んだ信者が、地域社会に動揺をもたらすようになったからでもあります。
 それが何らかの、区別し易い単位になれば、それなりの対策を講じる事ができますが、人の心までは、見た目で区別する事はできません。心の拠り所が自分なのか、他者(敵)なのか、それが判り易く政権の利益を侵す因子となれば、排除する方向へ動きますが、点在しつつ、その区別がつかない以上、成す術がありません。
 つまり、幕府方領内の住人にも敵を抱える事となり、税の徴収、軍事動員、情報管理などに困難を来すようになります。
 
さて、元亀元年春頃から翌年秋にかけて、そんな状況の中で、幕府方は白井河原合戦を迎える事となります。
 そして三好為三は、元亀元年8月から三好三人衆方を離れ、同3年4月頃まで幕府方として活動していました。その間の為三に関する動きを見ていくと、興味深い背景が浮かび上がってきます。

以下、経年でそれらの資料をご紹介しようと思います。

元亀元年6月、幕府方摂津池田家の内訌を合図に、反幕府勢の三好三人衆方が、京都奪還を目指して軍勢を五畿内地域で大挙蜂起させます。
※言継卿記4-P424、多聞院日記2(増補 続史料大成)P194、群書類従20(合戦部:細川両家記)P634

-(史料1)-----------------------
『言継卿記』6月19日条:摂津国池田内破れ云々、其の外尚別心の衆出来の由風聞、(後略)。
『多聞院日記』6月22日条:去る18・9日比(頃)歟。摂津国池田三十六人衆として、四人衆の内二人生害せしめ城取り了ぬ云々。則ち三好日向守長逸以下入り了ぬと。大略ウソ也歟。
『細川両家記』:一、織田信長方一味の摂津国池田筑後守勝正を同名内衆一味して違背する也。然らば、元亀元年6月18日池田勝正は同苗豊後守・同周防守2人生害させ、勝正は立ち出けり。相残り池田同名衆一味同心して阿波国方へ使者を下し、当城欺(あざむ)き如く成り行き上は、御方へ一味申すべく候。不日に御上洛候儀待ち奉り由注進候也。並びに摂津国欠郡大坂へも信長より色々難題申し懸けられ条、是も阿波国方へ内談の由風聞也。旁以て阿波国方大慶の由候也。然らば先ず淡路国へ打ち越し、安宅方相調え一味して、今度は和泉国へ摂津国難太へ渡海有るべく也と云う。先陣衆は細川六郎(昭元)殿、同典厩(細川右馬頭藤賢)。但し次第不同。三好彦次郎殿の名代三好山城守入道咲岩斎、子息同苗徳太郎、又三人衆と申すは三好日向守入道北斎、同息兵庫介、三好下野守、同息、同舎弟の為三入道、石成主税介。是を三人衆と申す也。三好治部少輔、同苗備中守、同苗帯刀左衛門、同苗久助、松山彦十郎、同舎弟伊沢、篠原玄蕃頭、加地権介、塩田若狭守、逸見、市原、矢野伯耆守、牟岐勘右衛門、三木判大夫、紀伊国雑賀の孫市。将又讃岐国十河方都合其の勢13,000と風聞也。
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※但し、『細川両家記』に三好三人衆方として登場する細川典厩は、この頃幕府方として行動しており、事実と異なる。また、死亡している三好下野守も含まれています。

続いて、翌月27日、摂津国中嶋へ入った三好為三などの軍勢が軍容を整えて幕府方を待ち構えます。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P634、信長公記P108

-(史料2)-----------------------
『細川両家記』:
一、7月27日、右(『同記』8月18日条)人数摂津国欠郡中嶋の内天満森へ陣取り也。阿波国にて相定まり如く、同郡野田・福嶋に猶以て堀を掘り、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱株・逆茂木引き、此の両所へ楯て籠られ也。東国勢相待たれ候由候也。然るに此の処は昔387年以前に源判官平家御退治の時、御陣取りの処也。是れより御船に召され候て、四国西国まで御理運に成り由候也。
『信長公記』:
野田福島御陣の事条、(前略)。御敵、南方諸牢人大将分の事。細川六郎殿(昭元)、三好日向守、三好山城守、安宅、十河、篠原、石成、松山、香西、三好為三、斉藤龍興、永井隼人、此の如き衆8,000ばかり野田・福島に楯籠りこれある由に候。
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この時、本願寺宗の幕府方からの離反は顕在化しており、三好三人衆勢は、摂津国野田・福島などの本願寺宗の影響力の強い地域で陣を取ったり、城を構築するなどしていました。

そんな状況下では、各地で三好三人衆方に連絡を取り始める勢力が増えていきます。また、本願寺宗の中興の祖である親鸞は、公卿日野家に縁を持つ人物でもあり、その日野家と近衛家の近しい関係から、将軍義昭から追われた近衛前久が大坂本願寺に身を寄せていました。この前久も反幕府方勢力の糾合に加担しており、本願寺宗のネットワークを使って、活発な活動を行っていました。それからまた前久は、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄を共に養護していた事から、両者は反幕府勢力として共闘していました。

さて、史料です。三好三人衆方の三好日向守入道宗功(長逸)・石成主税助長信・塩田若狭守長隆・奈良但馬守入道宗保・加地権介久勝・三好一任斎為三が、欠年8月2日付けで、山城国大山崎惣中へ宛てて音信しています。
※島本町史(史料編) P435

-(史料3)-----------------------
当所制札の儀申され候。何れも停止の条、之進めず候。前々御制札旨、聊かも相違在るべからずの間、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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これは、顔ぶれ、史料の内容、その対象地域からして、個人的に元亀元年の史料ではないかと考えています。
 三好為三は、それまでの経緯から阿波系三好氏と折り合いが悪かったのか、三好三人衆方から離反します。準備を整え、これからという矢先に三好三人衆方から中核的な人物が、幕府方に寝返ります。
※群書類従20(合戦部:細川両家記)P636、言継卿記4-P441、多聞院日記2(増補 続史料大成)P206、信長公記P109

-(史料4)-----------------------
『細川両家記』:一、同8月30日に三好下野守の舎弟為三入道は信長へ降参して野田より出、御所様へ出仕申され候なり。『言継卿記』8月29日条、明日武家摂津国へ御動座云々。奉公衆・公家衆、御迎え為御上洛、御成り次第責めるべくの士云々。三好為三(300計り)降参の由風聞。
『多聞院日記』9月1日条:(前略)三好為三・香西以下帰参云々。実否如何。『信長公記』野田福島御陣の事条、(前略)さる程に、三好為三・香西両人は、御味方に調略に参じ仕るべきの旨、申し合わせられ候と雖も、近陣に用心厳しく、なり難く存知す。8月28日夜中に、為三・香西、摂津国天王寺へ参らせられ候。
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この時点では、為三が幕府方へ寝返ったとの事は、未確認情報の噂の範囲でしたが、それは事実でした。三好三人衆の中枢に居て、重要な情報を持っていると思われる為三が寝返ったのですから、幕府方は非常に期待し、破格の条件も呑む事を為三に伝えていたのでしょう。
 それについての史料があります。元亀元年9月20日付けで、織田信長が為三へ摂津国豊嶋郡の知行希望について音信しています。
※織田信長文書の研究-上-P417

-(史料5)-----------------------
摂津国豊嶋郡の事、扶助せしめ候。追って糺明遂げ、申し談ずべく候。疎意有るべからず候。
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この時、豊嶋郡を根拠地として大きな勢力を誇った池田家の当主池田勝正が、三好三人衆方の調略から家中の内訌に発展させた事で城を出、幕府方へ身を寄せていました。なお、勝正は幕府から公式に摂津守護を任されていた人物でもありました。
 この頃、勝正は、摂津池田家の内訌を治めて、復帰を果たすために活動している最中でしたので、この為三の要求について、幕府は頭を悩ませたようです。しかし、幕府方への多方面からの一斉蜂起もあって、僅かな失策が内部崩壊にもなりかねない、幕府にとって非常に苦しい時期でもありました。
 
翌2年も、その緊張は解ける事がありませんでした。再び五畿内地域とその周辺地域から、幕府方を攻めようとする勢力が京都を目指して動きを活発にさせます。

そんな中、京都に一番近い三好三人衆方の勢力であった池田家は、京都の防衛上、当面の制圧目標となり、和田惟政が中心となってこれに当たりました。同時に惟政は、大和国の松永久秀などへの対応も行っており、苦しいやり繰りを迫られていました。

しかし、惟政は、三好三人衆方池田衆に対して、優位に戦闘を展開し、順調に勢力図を塗り替えていました。池田衆は収入基盤の一つである、西牧南郷地域までも失い、池田城近くにまで攻め入られます。
 個人的には、今の箕面川辺りまで惟政の率いる幕府勢が進んでいたと想像しています。ですので、西国街道も幕府方が支配していただろうと考えています。
 
しかしながら、惟政にとっては苦しい戦いが続いています。奈良方面へも出陣しながらの対応ですので、兵も物資も余裕は無かったでしょう。京都の防衛も、イザという時のために戦力と物資を保持しておく必要があります。
 そんな環境の中、地域支配の手隙を埋めるために、めぼしい武将の活用を考え始めるのは自然な事です。幕府は、池田方の領地を一旦欠所にして、再編する事も可能になった事から、三好為三の要求を聞き入れる事が可能となりました。
 そういう状況下で発行されたと思われる史料があります。欠年6月16日付けで、織田信長が、為三の領知について将軍義昭側近の明智十兵衛尉光秀へ音信します。
※織田信長文書の研究-上-P392

-(史料6)-----------------------
三好為三摂津国東成郡榎並表へ執り出でに付きては、彼の本知の旨に任せ、榎並の事、為三申し付け候様にあり度く候。然者伊丹兵庫頭(忠親)近所に、為三へ遣し候領知在りの条、相博(そうはく:交換)然るべく候。異儀なきの様に、兵庫頭へ了簡される事肝要候。
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その信長の決定について、京都の中央政権トップである将軍義昭も、元亀2年7月31日付けで、正式に為三へ通知を行います。
 この頃には、和田勢が更に池田領の中核部分まで進んで優位となり、池田勝正も和田方として、細川藤孝と共に池田城を攻めていました。
※大日本史料10-6-P685

-(史料7)-----------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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お気づきとは思いますが、為三へのこの幕府の正式通知には、信長に要求した、為三の要望は盛り込まれておらず、その対案としてなのか、為三の兄である下野守の知行について、それを認めると伝えています。
 これに加えて、信長から先に提示のあった、為三の本来の所領である摂津国東成郡榎並庄領有は、手柄を立て次第に認める旨、幕府としても相違無いと伝えています。

上記の一連の史料は、幕府の池田勝正への配慮が窺われます。為三の要求に対して、幕府と信長は、明らかに勝正の立場とのバランスを考慮した結果を導いています。
※一方で、幕府としての領地接収の伏線もあったと思われます。

しかし、元亀2年の7月から8月にかけて、池田勝正も加えて和田惟政は、伊丹忠親と共同で三好三人衆方の池田城を攻めていましたが、8月18日、和田・伊丹連合軍は敗走し、この地域での軍事バランスが予想外に大きく崩れました。
 池田衆は200余名を討ち取って勝利したのですが、これは和田・伊丹方にとって大きな損害だったらしく、直ぐに体制を立て直す事が出来ない程だったようです。池田衆はこの隙を見逃す事無く、和田領内へ攻め入るべく大挙東進を始めます。同月22日頃、3,000という大軍を出陣させます。
 和田惟政はこれに対応する事ができず、慌てて本拠の高槻城に戻り、策を講じますが間に合わず、結果は「白井河原合戦」の歴史が示す通りとなりました。

その一連の流れとしての決戦となった白井河原合戦は、いわば象徴的な結果としての歴史的要素ですが、この大合戦に至る要因が必然的に醸成されていた事が判ります。

元亀元年8月、幕府方に寝返ってから、その要求が実現するまでに1年程かかって、やっとその兆しが見え始めたのですが、残念ながら為三は、願望を遂げられませんでした。
 しかし、連続した出来事で見ると、この白井河原合戦に至る過程で、為三にとって大きな転機があった事は、これら一連の史料から窺い知る事ができるように思います。





2013年7月17日水曜日

三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)

この記事については、最近(2015年11月)に、戦国遺文(三好氏編3)が発刊された事で、以下の時点よりも目にする史料が増えましたので、近日に追って修正をしたいと思いますので、少々お待ち下さい。

 三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その3:三好下野守(宗渭)について)
三好下野守(宗渭)については、不明な事も多く、特にその初期の活動についてはよくわかっていません。また、諱についてもわかっておらず、通説となっている「政康」についても断定されたものではありません。

それから、三好下野守と三好為三の関係については、「兄弟」との史料があります。元亀2年(1571)7月31日付け、将軍義昭が三好為三に下した御内書です。
※大日本史料10-6P685(狩野文書)

-(史料1)------------------------------
舎兄三好下野守跡職並びに自分当知行事、織田信長執り申し旨に任せ、存知すべく事肝要候。猶明智十兵衛尉光秀申すべく候也。
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後にまた、三好為三について取り上げる予定ですが、為三は三好宗三政長の跡取り「政勝」と考えられますので、下野守と為三が兄弟であれば、両者の父は宗三政長であろうと考えられます。
 実は、現代感覚と違って必ずしも長男が家を継ぐとは限らないのですが、後の実績を見ても有能であった長兄の下野守が家の跡取りにならなかったのは、下野守が既に管領細川晴元に近従するなどして、家を離れていたなどの状況があったのかもしれません。それからまた、三好長慶と宗三政長の闘争があり、この時に競り負けた政長は隠居させられたという、急な外圧があった事にもよるかもしれません。

それから、この三好政長は、摂津国榎並庄を本拠とし、榎並城を居城としていました。
 今谷明氏は、三好長慶を中心とする勢力を阿波三好氏、三好政長を中心とする勢力を摂津三好氏などと区別して見ていたようですが、両者のこういった拠点地域を見ての事と思われます。
 長慶よりも一世代違う年長であり、細川晴元の重臣であるなどの安定感があった政長を選び、池田氏は色々と期待しつつ繋がるようになったようです。一方の政長はこれにより、摂津国内で更に安定した勢力基盤を手に入れようともしたのでしょう。
 摂津三好氏の本拠地であった榎並庄に政長は、大変こだわっていたようです。天文18年(1550)6月の江口合戦での敗戦を見ても、こだわりのあまりに状況を見誤ったようなところも見受けられます。政勝が年若かったせいもあるのかもしれません。
 そして、これが跡取りの政勝(為三)にも引継がれ、政勝もまた、その領有に非常にこだわっています。江口合戦で不覚を取ったため、強く心残りになったのかもしません。
 
しかしながら、政勝(為三)と比べると、下野守は兄弟とはいえそれ程のこだわりは見せていません。そういうこだわりをしなくても良い経済環境や立場があったとも考えられます。
 それ故にその活動の初期は特に、活動の様子がわかる史料もなかなか無く、史上でも下野守は、突然現れる感じを受けます。
 三好下野守について、私の調べている享禄2年(1529)から天正7年(1579)までの間の史料上の初見は、今のところ摂津国川辺郡本興寺(現尼崎市)に宛てた禁制です。三好散位政生として、弘治2年(1556)8月付けで本興寺並びに西門前へ宛てて禁制を下しています。
※兵庫県史(史料編・中世1)P444
 
-(史料2)------------------------------
一、当手甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り寄宿事付き竹木剪り採り事、一、矢銭・兵糧米等相懸け事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯之輩於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て下知件の如し。
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この時は状況からして、将軍義輝・細川晴元の下で行動していたようです。文末の「仍て下知件の如し」とは、直状形式といわれる文体で、下野守が上意を伝達している事を意味します。

一方、弘治という元号が4年で終わり、その年(1558)の2月28日から「永禄」と変わります。この元号は、将軍を経ずに天皇が申請による改元を認めており、統治者が変わった事を示していました。
 改元の申請者の実力や資金力、朝廷への貢献など、様々な点で検討されますが、それに相応しいと認められたのは、管領細川氏綱を支えていた三好長慶でした。ただ、表向きは長慶よりも上位の人物であった氏綱を立てて行われています。
 そんな中、三好下野守の音信が永禄元年閏6月20日付けで、細川晴元と共に、前記と同じく本興寺に宛てて音信されています。先ず、細川入道(永川)晴元が、摂津国尼崎本興寺へ宛てた史料です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445
 
-(史料3)------------------------------
音信為青銅100疋到来候。誠に以って喜悦候。猶三好下野守散位政生申すべく候。恐々謹言。
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次に、同日付けで、三好下野守散位政生が、尼崎本興寺玉床下へ宛てた音信です。
※兵庫県史(史料編・中世1)P445

-(史料4)------------------------------
屋形(入道(永川)晴元)出張に就き、御音信の通り、即ち披露致し処、祝着之旨、直札以って申され候。尚相意を得申すべく由候。将又私へ鳥目50疋、御意懸けられ候。御懇ろの段、恐悦の至り候。委細大物左衛門尉申し入れるべく候。恐々謹言。
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更に、同年6月9日付けで、山城国大山崎へ宛てて、細川入道(永川)晴元の奉行人として、三好下野守(政生)・香西越後守が、山城国大山崎へ宛てて禁制を下します。
※島本町史(史料編)P432

-(史料5)------------------------------
一、当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉、一、山林竹木剪り採り事並びに放火の事、一、矢銭・兵糧米相懸け事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩有ら者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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この下野守の一連の動きがあった頃、将軍義輝と三好長慶との間に和睦の機運が高まり、模索され始めます。しかし、将軍と晴元方の内部調整が進まず、しばらくグズグズとします。永禄元年12月、将軍義輝は5年ぶりに京都へ戻ります。

それから2年を経て、大坂本願寺宗の寺である、河内国交野郡の順興寺実従が、三好下野守へ音信しています。永禄3年(1560)4月8日付けの『私心記』に見られます。文中の土屋氏は河内北部の国人です。
※本願寺日記-下-P430

-(史料6)------------------------------
土屋■■■(孫三郎?)返礼ニ、絞手綱ニ具遣わし候。使い四郎左衛門。三好下野守へ樽三荷二種、四郎左衛門ト忠兵衛ト遣わし候。
※■=欠字
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この永禄3年頃は更に京都の政治情勢が変わっています。将軍義輝は永禄元年12月3日に入京し、三好長慶との闘争は一応の落着となっていました。しかし、この和睦に同意せず、細川晴元は別行動を取った事から、その時点で反幕府方となって、公式の身分的には浪人となっていました。
 三好下野守との関係は、この時に岐路を迎えたのかもしれません。下野守の弟である右衛門大夫政勝は、晴元と共に行動し、下野守は将軍や幕府方へ身を寄せるなど、別の道を選んだのかもしれません。
 永禄元年頃、細川氏綱を支えていた河内守護家畠山氏と三好長慶は、細川晴元方に対して共闘していたのですが、永禄2年には畠山家中で内訌が起こります。これに幕府方として三好長慶が介入します。乱はその年の内に沈静化したものの、翌3年早々、内訌を起こした安見氏と畠山氏が今度は一体化して、長慶に反旗を翻します。怒った長慶は再び河内国へ討伐軍を起こします。
  『私心記』を見ると、そんな状況下で、下野守が河内国で行動していた事が判ります。また一方で、この下野守の行動は、反三好長慶として一貫していた可能性はありますが、ハッキリとした事はわかりません。

長慶はこの時、将軍義輝を抱えて幕府方の重要人物(相伴衆)となっており、幕府軍としての河内国討伐戦を指揮していました。
 高い格式を持つとはいえ、いち守護職の権力的な勢力となってしまった現実ではこの力に対抗できず、畠山氏は降伏し、もう一つの守護職権を持つ紀伊国へ一旦落ち延びます。畠山氏は畿内の周縁部勢力となり、これがまた細川晴元勢と繋がるなどして、三好氏に反発します。

この流れの中で、同族であった三好下野守も許されて、三好長慶に迎えられたのかもしれません。長慶の領知が拡大され、人材が必要になったという事もあるのかもしれません。
 というのも、将軍義輝は長慶に、細川晴元との和解を促し、長慶はこれを受け入れます。永禄4年(1561)5月4日、晴元は逃亡先であった近江国朽木を出、堺を経て、摂津国高槻の普門寺へ入ります。こうなれば、三好下野守も、長慶への敵対行動の理由を完全に失います。

ちなみに三好下野守は、「三好下野入道聞書」という刀剣に関する著書も残す程、当時一流の目利き(鑑定家)でもありました。この深い知識は、多くの人に尊ばれ、下野守は細川藤孝の師でもあったようです。
 これは、晴元や将軍義輝の側に仕えるなどで、日本国中の名品を目にし、知識・経験を貯えた事の結晶かもしれません。 また、そういう役割をしていたのかも知れませんね。当時、祝事や贈答などで名刀のやり取りは頻繁に行われています。

さて、河内国が長慶によって制圧された翌年、永禄4年には、三好下野守は長慶方として行動しているようです。『細川両家記』の記述を見てみます。

-(史料7)------------------------------
(前略)、然るに又南方泉州表へは紀伊国根来寺衆、畠山高政、安見方一味して岸和田辺へ陣取り也。是併せ去年十河民部大輔殿死去により出張由也。(中略)。一、和泉国表へは、阿波国三好実休大将為、安宅摂津守冬康・三好山城守・同苗下野守・同苗備中守・篠原右京亮長房・吉成勘介、此の外河内国高屋の城の阿波国衆打ち出し、泉州表へ陣取り。敵味方の間5丁(5,500メートル)・3丁(3,300メートル)には過ぎざりけり。兎に角して年暮れ候也。
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これ以降、三好下野守は一貫して三好長慶の一族衆として、重要な役割を果たしますが、有能であり、人格者でもあったのか、比較的短期間の内に「家老」のような重い役割を持つ立場になっていきます。
 三好長慶が永禄7年に死亡すると、三好三人衆のひとりとして、三好家を支えます。やはり、誰もが認める能力を備えていた事は、こういった結果を見ても窺えます。
 
さて、この三好下野守と摂津池田家も浅からず関係しています。測った訳では無いと思いますが、運命がうまく両者を導いているようにも見えます。池田信正の死後、その後継を巡って家中の対立が起こりますが、弘治3年に官僚集団ともいえる池田四人衆が推す「孫八郎」が死亡したのをキッカケに、もう一方の後継候補であった長正と和解したようです。
 ちょうどその頃、京都の中央政権もひとつの画期を迎えます。細川氏綱を推す三好長慶が、細川晴元との闘争に打ち勝ち、近江国に亡命していた将軍義輝が京都に戻って和睦します。三好長慶が支える氏綱政権が安定し始めた事により、これまでとは違った動きが出始め、様々な再編、新たな課題の克服に迫られるようになります。

池田氏はこの流れに乗り、三好家と血縁を持っていた事が家運の繁栄に繋がり、一族的扱いを受けるようになります。これは政権の安定を図る必要があった時期に、池田家政がうまく対応した事にもよるでしょうし、三好下野守との個人的な相性が良かった事もあったのでしょう。
 池田家にとっては、親戚(長正から見るとオジ)が中央政権の重臣に居るのですから、これ程の良い環境はありません。池田氏は一族扱いを受け、同政権内で禁制の発行も許される程の立場に成長します。
 その後、次の当主勝正の代でも池田家は、三好家との良好な関係を維持し、三好三人衆が推す第14代将軍足利義栄政権樹立にも大きな支援勢力の一つにもなりました。

少し興味深い資料があります。『摂津国豊嶋郡池田村大広寺所蔵池田系図』に、永禄10年7月の事として、摂津池田家の一族である池田宗伯(これは法名で諱はわからず)が、三好三人衆の三好下野守により、大和国北葛城郡箸尾村に知行を得たとあります。
 系図での記述ですので、取扱いに注意は要しますが、しかし、これが時期・場所・人物ともに、全く的外れではないのです。事実、この時には箸尾庄の領主であった箸尾氏は、三好三人衆に土地を追われて居らず、欠所地になっていた事が『多聞院日記』に見られます。
 詳しくは、わが街池田:池田氏関係の図録(奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城跡)のページをご覧下さい。
 
しかし、永禄11年秋、日本史上あまりにも有名な織田信長の中央政権への登場で、三好政権が大きく動揺します。それについての三好方の対応の拙さもあったのですが、池田氏は家の保全のため、一旦三好家から離れざるを得ない状況となります。

直ぐさま三好三人衆は、京都奪還の軍勢を起こし、将軍義昭の居所である京都六条本圀寺を目指して侵攻しました。永禄12年正月の本圀寺・桂川の合戦です。
 三好下野守は、幕府方となった池田勝正などと桂川で対戦しますが、利あらず、三好三人衆の軍勢は敗走します。三好下野守は、この時重傷を負ったのか、その年の5月3日に死亡します。『二條宴乗記』にある記述です。
※ビブリア52号P78 (二條宴乗記)
 
-(史料8)------------------------------
三好下野守入道釣閑斎、当月三日に遠行由。あわ(阿波)於、言語道断之事也。
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記録に直接的な死因が記されている訳ではないので、病気や高齢による死亡かもしれませんが、当時の史料には「遠行」とあり、則ち死亡した事が記されています。
 しかし、本圀寺・桂川の合戦に関する当時の記述には、三好下野守が戦死したとの噂が記されており、かなりの激闘であった事と、死んだとの噂が出たくらい、三好方の負けが込んでいたようですので、これらの情報を鑑みると、下野守は合戦で深手を負ったのではないかと考えられます。


復活した福島の野田藤
それから、取扱いには注意を要しますが、元亀元年の夏、三好三人衆が大挙、摂津国野田・福嶋城へ入り、幕府・織田方へ攻勢を展開した時の、興味深い資料があります。
 同地野田の春日社の名物「藤」を詠んだ和歌を武将達が納めたようです。その中に、三好下野守の歌があります。
※なにわのみやび野田の藤(藤三郎氏著)P170

-(史料9)------------------------------
 難波江の、流れは音に聞え来て、野田の松枝に、かかる藤浪
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これは、三好家中の沢田式部少某が編んだ、和歌集らしく、そこに名を連ねる人物の顔ぶれを見ても、同時期にはあり得ない内容ですので、時期の違うものを同じテーマで纏めたものと考えられます。
 元亀元年では、三好下野守も死亡していたと考えられますので、顔ぶれに矛盾があります。この時敵であった松永久秀も「松永弾正」として名を連ねていますが、この時は山城守を名乗っています。敵を入れるとは思われませんので、ここに名を連ねる人物が皆味方であった時期に詠んだ歌なのかもしれませんが、今のところハッキリした事は判りません。

しかし、非常に興味深い資料です。

長くなってしまいました。他にも色々あるのですが、下野守については、やはりこれだけに集中して論文を書いた方が良さそうですね。そう遠く無い内に実現したいと思います。

次は、三好政勝為三について考えてみたいと思います。