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2012年5月2日水曜日

奈良多聞山城の守備

永禄10年春から翌年夏までの奈良多聞山城攻めに参加した池田勝正は、その守備をどのように考えていたのかが気になっていました。

永禄11年9月、遂に多聞山城は落ち、松永久秀は、そこから北に2里程の鹿背山城へ移ります。逃げる事ができたと言う事は、そういう縄張りになっていて、その領域は守備環境も整っていたということになろうかと思います。

それにしても、1年以上に渡って、多聞山城を目指して攻めています。相当な守りになっていた事と思います。

不退寺側からの関西本線の様子
多聞山城の立地を見ると、その南を流れる佐保川を守りに用い、大豆山なども重視していた事を考えると、要所に迎え城を作っていたように思えます。
現在の奈良県奈良市法蓮町にある不退寺は、多聞山城を守るためには重要な場所になったのではないかと思います。
 そのすぐ北側に山塊の突端部分があり、現在の国道24号線とJR関西本線の通るところは谷になります。そしてそのすぐ西には、「宇和奈辺・小奈辺」をはじめとする古墳群があります。これは城のようなものです。谷を挟んで東西の山に、何らかの施設を設置していたのではないかと思います。


一条橋東詰
というのは、不退寺あたりから一条通りを東進されると佐保川を境とした防御が難しくなるからです。多聞山城の裏手にも回り込みやすくなります。また、永禄12年10月に松永久秀は、法蓮郷(位置不明)に新しく市を立てていますので、このあたりを城下とする概念はあったのだろうと思われます。
 多聞山城が1年半もの間、持ちこたえたのは超昇寺城を含めた、この西側の守りと柳生街道などからの補給が確保できていたからだと思います。
 ちなみに、超昇寺城は永禄11年に落城したと伝わっているようですが、それは概ね正確で、時期としては5月の後半ではないかと思われます。
 その理由は、5月19日に15,000程の軍勢を率いて、篠原長房 や三好下野守が山城国木津方面から南下し、西ノ京へ陣取ります。これは軍勢を大挙動員し、守りの穴を空けて、事態の打開に動いたのではないかと思われいます。この道程に、超昇寺城はあります。
 この事で、河内国から大和国へ入る東西に走る道、清滝街道とそれに加えて南北の道を確保して、多聞山城との縁切りを行なって、孤立化を図ったのだろうと思われます。



眉間寺道跡の碑
また、興福寺や東大寺方面が長期に競り合いの場となり、三好三人衆方が中々佐保川を渡る事ができなかったのも、そういった状況を物語るのかもしれません。


多聞山城は狭義の意味では、聖武天皇陵から奈良地方気象台のある山を含んだ部分(その間は眉間寺道)まで城郭にし、最終防御のための堅固な構えを作り、更に広域の防御連携を行なっていたと思われます。  

摂津池田の個人的郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ) 


2011年8月10日水曜日

東大寺大仏殿の戦いに登場するマメ山とはどこ?

「東大寺大仏殿の戦い」などと呼称される永禄10年10月10日に至る、一連の奈良市街の戦いについてですが、これに池田勝正も参戦していました。この流れの中で気になるのが「マメ山」です。
Wikipediaなどには、戦国合戦大事典(新人物往来社)の記述を元にした、マメ山を多聞山城の北800メートル程のところとしているのが通説になっているようです。確かにここには今も奈良豆比古神社があり、その関係でマメ山と呼ばれていたのかもしれません。
※「戦国合戦大事典」は間違いが多く、個人的にはあまり参考にしていません。

また、近鉄奈良駅のすぐ北側に奈良女子大学があって、駅からその大学までの間に大豆山町があります。どちらに池田勝正は居たのでしょうか?


近日にまた、詳しく調べたいと思いますが、私は今のところ、池田勝正が多聞山城の北側800メートルの「マメ山」なる場所に永禄10年5月時点で陣を取る事は不可能だったのではないかと考えています。その頃の状況を見ると、佐保川をはさんで一進一退で、三好三人衆方が圧倒的優位で多聞山城を囲んでいたわけではありません。
また、奈良統治の拠点で、巨額をつぎ込んで築いた松永久秀自慢の堅城であった多聞山城から僅か800メートル(8町弱)の位置に、三好三人衆方がこの時点でやすやすと進めるとは考えられません。

この一連の動きについて記録が詳しい『多聞院日記』を見ると、5月28日になって筒井順慶方の大和国民秋山衆が多聞山城へ前進を強行し、24〜25間(約45メートル)に迫ったようでした。しかし、これは佐保川をはさんでの事と思われ、距離は近いですが要害性を決定的に砕いたものではありませんでした。
 一方、勝正も多聞山城を守る天然の要害である佐保川を越える事の重要性を理解しており、5月18日に松永方の宿院城に夜襲を敢行しますが、失敗。100名程の足軽を束ねる大将の下村重介を戦死させてしまいます。宿院城は佐保川を渡らせないために強力な守りの橋頭堡でした。城は現在の奈良女子大の場所にありました。
更に、雲井坂(柚留木町付近)にも城があり、街道から多聞山城へ進む事を阻んでいました。この城から、宿院城までは北西へ600〜700メートルの距離で、地形的にもマメ山の丘陵の南東縁です。

ですので、三好三人衆勢は、この時点で佐保川を渡る事ができていない筈です。当時の佐保川は現在よりも水量が多く、「堀」としての役割を十分に持っていたようです。ですので当然、本城である多聞山城にも接近する事はできませんし、その背後に回り込む事など不可能です。
更に、松永は守りをそんなに簡単に考えていません。多聞山城から北へ1里半程の間に木津城や鹿背山城などをつくり、木津川を防衛ラインとして一体化させた防衛概念を作り上げていたようです。近年の鹿背山城の発掘調査では、非常に堅固で大型の城である事がわかっており、松永久秀の手によるものであろうと考えられています。また更に多聞山城の西側の超昇寺城や信貴山城なども相互に防衛線を構築していました。連絡と連携のための様々な工夫も施されていたと考えられます。

状況的に、三好勢は木津川を超えて北から多聞山城に近づく事はこの時点では不可能であったと考えられます。それが、可能になったのは永禄11年も夏以降になってからで、永禄10年時点では、多聞山城に近づく事は無理で、堅牢さもまだまだ十分にあった筈です。当然、勝正も多聞山城の北800メートルの位置に陣を進める事もできなかったと思われます。
ということで、永禄10年5月23日に池田勝正が陣を取ったマメ山は、宿院城の押さえとしての策だったと考えられます。そして勝正の宿所は場所的に近い西方寺だったのでしょう。それは丘陵の西端です。ここからは飯盛山城方面も目視でき、狼煙などの連絡が可能です。
そして今も「大豆山町」との地名を残す場所もありますが、当時のその状況については不明です。

写真(1):佐保川の様子
写真(2):油留木町にある「雲井阪」の碑
写真(3):木津川市の鹿背山城跡登城口にある西念寺
写真(4):崇徳寺のある大豆山町の通り

2010年1月20日水曜日

奈良市油阪東町の草鞋山 西方寺

平成12年(2000)当時の表門
奈良市油阪東町に草鞋山西方寺というお寺があります。非常に古い由緒を持つお寺で、大変趣のある古刹です。
 その西方寺は、池田勝正に縁があるお寺で、松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。
 5月17日、久秀の居城奈良多聞城を攻めるため、三好三人衆方は、奈良の市街周縁部に陣を取ります。勝正はこの時多聞城の南にある砦、宿院城のすぐ西側一丁程のところにあった西方寺に陣を取りました。三好三人衆勢としては、最も敵に近い最前線でした。
 翌日の18日夜、勝正は宿院城に夜襲を敢行します。しかし、守備が堅く失敗します。この時、下村重介なる人物が戦死します。重介は、100人程を束ねる足軽大将であったと『多聞院日記』に、伝聞情報として記述されています。
 下村氏については詳しくは解らないのですが、今の池田市木部あたり出身の有力者なのかもしれません。この辺りには、館城のような施設があったとも伝わっています。

西方寺には、その当時からの山門などが残り、大変興味深いお寺です。付近には、東大寺はもちろん神社仏閣など多数の史跡があり、戦国ファンの方が訪れても楽しめるところだと思います。地形や空気感など、その場に立って始めて解る要素が沢山あります。
 もちろん、奈良のおいしいものも沢山ありますので、好奇心・触覚・お腹などなど、じっくりと楽しめます。

「奈良市油阪にある草鞋山西方寺と池田勝正 」と題して、新しい記事を掲載しました。どうぞご覧下さい。