2016年10月1日土曜日

戦国時代に河内国河内郡へ移住した信州の人々(大和川付け替え前の地形を探る)

筆者の住んでいるすぐ近くに、「中新開(なかしんかい)」というところがあります。そこは、古くからある村で、村には諏訪神社が祀られています。
 諏訪神社があるという事からも判るように、この中新開村は信濃の国の諏訪大社とつながりがあります。この村は信州から移ってきた人々が開いた土地です。神社の本殿に残されていた古文書により、天文元年(1532)に人々が移ってきた事が伝えられています。
 それは戦国時代です。神社と村の由来が、東大阪市(教育委員会)により案内されていましたので、ご紹介します。
 
(資料1)-------------
諏訪神社は、本殿内に残されていた古文書によって、天文元年(1532)信濃国諏原(すはら)之庄の住人諏訪連(すわのむらじ)の子孫らが当地に村を開き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三柱を勧請したとされています。
 現在はその中で諏訪大明神をまつる一社だけが残され、覆屋の中に大切に保存されています。この本殿は一間社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎(もや)の四周には写実的な花鳥彫刻をもつ蟇股(かえるまた)をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在するという特色を持っています。
 この本殿は、海老虹梁に江戸時代の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものと見られる事などから、室町時代に建立されたのち、江戸初期に大改修が行われたと考えられますが、建立年代が明らかで、市内に現存する最古の建築であるとともに、中新開の歴史を伝える貴重な記念物であることから、昭和49年(1974)3月25日に市の文化財(建造物)に指定されました。
平成16年3月 東大阪市
-------------(資料1終わり)

東大阪市中新開にある諏訪神社
秋になると祭りがあり、周辺各村(集落)から「地車(だんじり)」が繰り出し、賑やかに祝いますが、中新開村からももちろん地車が出されます。やはり由来が信州という事もあってか、その衣装が少し違います。浴衣のような衣装で、近隣の村とは一線を画す文化があります。
 さて、河内国の中部は、江戸時代中期に行われた大和川付け替え工事で、それまでとは大きく地形が異なります。
 現在出回っている大和川付け替え以前の地形をある程度精密に描いた地図がないかと色々探してみましたが、細かなところは省略してあるものが多く、復元レベルの地図は未だにありません。ですので、大和川の付け替えが完了した、宝永元年(1704)以前から存在する村を頼りに地形から推定して、細かな部分を再現させるしかありません。
 そういう意味では、中新開村の歴史というのはとても参考になります。大和川が開かれる172年前に、信州から今の中新開地域へ人々が移ってきているのですから、ここはその頃も陸地だった事が判明します。
 以下、『大阪府の地名2(平凡社)』東大阪市の項目から中新開村に関する記述を抜粋してみます。

(資料2)-------------
◎中新開村
河内郡に属し、吉原村の南にある。大和川付け替えまでは東方を吉田川、西方を菱江川が流れ、両川の氾濫原に立地したため、低湿地が多かった。正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では高215石余、幕府領、小物成として葭年貢銀7匁2分。寛文2年(1662)からは大坂城代青山宗俊領があり、延宝年間(1673-81)の河内国支配帳では大坂城代太田資次領で215石余、天和元年(1681)の河州各郡御給人村高付帳も同じ。貞享元年(1684)大坂城代土屋政直領となり同4年まで土屋領(「土屋政直領知目録」国立史料館蔵)。元文2年(1737)河内国高帳では幕府領で218石余。慶応元年(1865)より京都守護職領(役知)、文政8年(1825)には菜種1.7石を芝村に売っている(額田家文書)。

◎新開庄
中新開一帯にあった庄園。「明月記」嘉禎元年(1235)正月9日条に「暁更禅室被下向河内新開庄(金吾供奉)」とみえる。弘安4年(1281)3月21日、鎌倉幕府は関東祈願所である高野山金剛三昧院に「河州新開庄」を寄進し、同院観音堂領としてこれを安堵した(「関東御教書」金剛三昧院文書)。同6年5月日の金剛峯寺衆徒愁状案(高野山文書)によると、悪党が金剛三昧院の寺庫を破って兵粮に充てようとしたので、同院は河内国新開庄・紀伊国由良庄の庄官らを招集して寺庫を守護させたという。鎌倉後期、西園寺家領であったようであるが(「公衡公記」正和4年3月25日条、建武2年7月21日「後醍醐天皇綸旨」古文書纂)、建武新政のもとで楠木正成が当庄を領有しており、湊川合戦で正成が討死した直後、足利尊氏は「河内国新開庄(正成跡)」を御祈祷料所として東寺に寄進した(建武3年6月15日「足利尊氏寄進状」東寺百合文書)。尊氏は続いて当庄に対する狼藉の停止を命じ(同年12月19日「足利尊氏御教書」同文書)、これを受けた河内国守護細川顕氏が当庄における兵粮米の徴収を止めるよう下知したが(同4年6月11日「細川顕氏下知状」同文書)、もとの領主西園寺家の愁訴により同家に返付され、改めて東寺に備後国因島と摂津国美作庄が寄進されている(東宝記)。
-------------(資料2終わり)

それから、この中新開村が属していた河内郡についての資料を以下にあげてみます。出典は、中新開村と同じです。

(資料3)-------------
◎河内郡
「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良(さらら)郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野池などの湖沼・湿地が存在し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しき■(呂?)かも」とある日下江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串川(吉田川)が若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)と八尾市の一部。

【古代】
(略)「大阪府の地名2」の「河内郡」の項目をご覧下さい。

【中世】
大江御厨に関係し、当地方の代表的中世領主として活躍するのが水走(みずはや)氏である。水走氏は平安時代末頃、当郡域の水走(現東大阪市)を開発した季忠を祖とし、当郡五条に屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、当郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに、枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、当郡一帯を支配した。源平争乱時には当主康忠は鎌倉御家人となり本領を安堵されている。
 また日下(草香)を本拠地とする武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わっている。鎌倉時代郡内に奈良興福寺領法通寺庄(現東大阪市)、高野山金剛三昧院領新開庄があり、南北朝期には足代庄(現東大阪市・生野区)も史料に登場する。
 新開庄は弘元の乱の功によって、一時楠木正成の所領となったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、祈祷料所として京都東寺に寄進された。しかしその後も楠木氏の本拠に近い当郡には南朝の勢力が及び、正平5年(1350)北畠親房は足代庄を教興寺(現八尾市)の祈祷料所としている。
 延文4年(1359)新将軍足利義詮が南朝方に侵攻した時、南朝軍の水走氏らは北朝軍に降伏、続く南朝軍の反撃では、河内守護代椙原入道が水走の城に籠もって戦った。
 このように当郡は南北朝両勢力拮抗の地域として度々戦場となった。室町時代から戦国時代にかけても戦乱の場となる事が多かったが、これは隣接する若江郡の若江城(現東大阪市)が、河内守護所として河内の政治的中心地であったことによる。

【近世】
豊臣秀吉によついわゆる太閤検地は、文禄3年(1594)に行われ、同年の日付を有する日下村・横小路村などの検地帳が伝わる。
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳によれば、当郡は21村・石高14,616石5斗5升、うち田方17,013石2斗4升1合・畑方3,872石4斗3升6合、山・葭年貢高30石9斗3合、ほかに小物成として山年貢銀787匁4分4厘・山年貢米8石8斗6升・葭年貢銀192匁3分・「作相」麦41石4斗・枚岡明神領京銭20貫文。
 同控帳によると所領構成は、幕府領6,117石余・大坂町奉行曽我古祐領4,016石余・大和小泉藩片桐領2,039石余・旗本石河勝政領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が多い。元禄郷帳によれば26村・15,229石余。
 宝永元年(1704)秋に大和川の付け替えが終わると、翌2年から深野池の池床や大和川諸流の川床・堤敷などの干拓・開墾が始まり、当郡内にも河内屋南新田・川中新田(現東大阪市)が成立、これらは幕府領に組み入れられた。元文2年(1737)の河内国高帳では、25村・高約16,025石。内訳は幕府領約7,724石・小泉藩領約1,868石・旗本石川領1,000石・旗本彦坂領1,000石、他は1,000石以下の旗本領が散在。天保郷帳では29村・高16,077石5斗。

【近代】
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。
 同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村・東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。
 同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
-------------(資料3終わり)

それらの要素の関係性から、中新開村付近を流れていた流域を推定してみると以下のようになるのではないかと思います。
 ただし、どうも、時代による自然環境の違いで水際の位置が変わったり、小規模な開発などで、いくつかの段階があるようです。図は、大和川付け替え後に行われた大規模な開発の領域と、それ以前の水際を分けてあります。大和川付け替え以前の開発は、明確な資料無く、個人推定です。
<図の変化概要>
古い新田開発(紫色)→大和川付け替え後の開発(青色)→中世の水際推定→現代の地図

明治後期から現在の地図へ変化(紫色は前の開発)

大和川付け替え後の新田開発については、詳しく判っていますので、判断に迷う事はありません。しかし今のところ、それ以前の開発と思われる川田村のあたりがよく判らず、水際が読めていません。この川田村のあたりからもう少し東側に水が入り込んで、水際が東にあった可能性もあります。
 また、地図の右上にある「加納村」は、西加納、下加納と分かれていて、川田村は後年に独立したのかもしれません。それと、加納村は、地形的に素直に区分けするなら河内郡になろうかと思いますが、若江郡に所属しています。
 吉原村あたりの水際と湿地が加納村との境を分断するような環境であったため、そのような郡境であったのだろうと思います。もしかすると加納村は島のようになっていたのかもしれません。
 現在の栗原神社(式内社で鎮座地は動いてないらしい)付近から東側は、殆ど平坦地で、新開池と考えられる地域と海抜もほぼ同じです。ここには府道168号線が通りますが、その道を東方向に進むと「今米2丁目交差点」あたりから「川中北口交差点」にかけて、緩やかに地形が高くなり、「焼肉いちばん」のあたりでピークになっています。そこから更に東に進むと若干、下りつつ、300メートルほど先に恩智川があります。
 ただ、新開池や深野池へ流れ込む川は、天井川が多く、周囲より2〜3メートル程高くなっているようで、海抜が低いから川の跡という訳でもないところがあるようで、そこは判断が難しいところです。

大和川付け替え後の新田開発図
さて、そういう現在の状況も鑑みると、吉原村から東側は新開池からの水が入り込み、池状、または湿地になっていたのではないかと思われます。
 なおかつ、その高さより高い位置に川筋がある、恩智川が氾濫すると西側へ流れ込んで来るような環境にあったのではないかと思います。
 少し、参考に中野村についての解説をご紹介しておきます。
※大阪府の地名2(平凡社)P976

(資料4)-------------
 若江郡に属し、南は菱江村、西は本庄村・横枕村。村の形は「く」の字形で、自然堤防上に位置する。この事から考えて、かつて横枕西方を流れる菱江川から分かれて、新開池に流入する川があり、当村はその川床を開発して成立した可能性がある
 正保郷帳の写しとみられる河内国一国村高控帳では、高380石余、幕府領。享保15年(1730)大坂城代土岐頼稔領となり、寛保2年(1742)頼稔の上野沼田入封以降同藩領。
 元文2年(1737)河内国高帳では407石余で以降高の変化なし。元禄14年(1701)の諸色覚帳(西村家文書)によると10年間の平均免二ツ六分八厘。家数60・寺1、人数324。余業は、男は木綿糸・日用稼ぎ、女は木綿稼ぎ。産土神は山王権現宮(現存せず)であった。天保12年(1841)には木綿寄屋が2軒あった(大阪木綿業誌)。真宗大谷派西善寺がある。
【追伸:東大阪市公式サイト「歴史散策:C地区:荒本〜吉田」
中野村の日吉神社は、江戸時代以前には現在の高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと大山咋命(おおやまくいのみこと)をまつっています。安産の御守札を出していて、村中で難産する人はなかったということです。
-------------(資料4終わり)

『大阪府の地名』でも、上記の地図の紫色部分に川があった可能性を示唆しています。やはり自然地形として、ここに川があっために、若江郡と河内郡との境にしたと考える方が自然だと思います。
 また、想像を少し逞しくすると、地形の高低差はそれほど極端ではありませんので、この川は浅く、葦や葭が生い茂る湿地のような感じだったかもしれません。
 
それから、常に移動を必要とする現代生活からは、このような環境は不便に思えますが、戦国時代には寧ろ、その逆の感覚で、外敵を寄せ付けない環境を村の周囲に持つ方が、財産や村の防御の面で、都合が良かったのです。また、水辺や湿地から受ける自然の恩恵は、生活を支えるためには好都合でもあったのです。もちろん、水辺は舟での交通や輸送という意味では、それも村にとっては恩恵といえる要素です。ただ、水害は困りますよね。
【出典】大和川付け替え後の新田開発図:国史跡・重要文化財 鴻池新田会所HPより

筆者は特に戦国時代の後期の五畿内地域(山城・大和・摂津・河内・和泉国)周辺を専門にしていますので、そのあたりの時代に興味があります。その当時の河内中部地域の地形についても調べています。
【参考サイト】
付け替えられた大和川
300年、人・ゆめ・未来 大和川
国史跡・重要文化財 鴻池新田会所

今も旧集落地域を歩くと、興味深い立地や水害への備えが家の造りから解ります。地形そのものやそういった歴史的な痕跡が手がかりとなって、川の跡が判ったりするのも感慨深いです。
 それから、これらの川が境になって郡が分かれてもいます。菱江川の東が河内郡で、西側は若江郡です。戦国時代には、郡が違うと領主も違うので、共有している利益・利害も違ったりします。そういう何か、川を挟んで睨み合うような、不幸な出来事も長い歴史の中で何度かあったかもしれません。

今年放映されている「真田丸」の時代にも河内国はこういう状況にありました。地図の下(南側)にある 暗峠奈良街道は、大坂の陣の合戦でも徳川家康が通った道です。また、大坂城の攻防戦では、若江郡も戦場になって、合戦が行われていますので、隣接する河内郡も巻き込まれたものと思われます。




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