2016年3月15日火曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(金ヶ崎の退き口から第二次浅井・朝倉攻め(姉川合戦)に至るまで)

越前国の南西の防衛は、敦賀郡にある天筒山が最も重要と考えられている。そのため、天筒山を要塞化し、更に木ノ芽峠までも要塞化して防衛に力を注いでいたらしい。その天筒山から海側に伸びた尾根の先端に有名な金ヶ崎城がある。
 この要塞を池田勝正を含む幕府・織田信長の軍勢は、海と陸から攻め、遂に落とした。同時に、天筒山城と補完関係にある疋壇城も攻囲(交通の遮断も)して落した。

筆者が考えるように、地元の研究者も、敦賀郡へ幕府勢が入る時、2つのルートを進軍しただろうと考えられている。敦賀平野を攻めるには、いくつかの口の一つから侵攻するのでは、大軍であっても難しい。また要所で、必要な軍勢を分割して充てるためにも、大軍の用意は不可欠であったと考えられる。
 他方、この時の幕府軍(織田信長)の動きを詳しく見ると非常に慎重で、用意も周到である。京都や岐阜にも控えの兵を多数用意もしている。更に、信長の陣中に飛鳥井氏や日野氏などの公家も同行していた。しかも飛鳥井家は、若狭守護武田家と伝統的に親密な間柄にあり、人選も考え抜かれて決められているらしい。
 それらの事から、信長は噂通りに浅井氏の離反が確認できると、すぐに退却したのだと思われる。この時は状況不利とも見て、体制を立て直す事を決め、殿軍として池田勝正などを置いて一旦退いたが、同方面の勢力と「決戦」を行う用意は、始めから想定されていた事と考えられる。またその事は、官軍に弓を引いた既成事実を作らせる事ともなっただろう。
 故に、それら各々を別の要素と捉えるよりも、一連の動きとして見る方が、実際の動きに合致しているように思われる。その意味で「姉川の合戦」は、第二次浅井・朝倉攻め、と捉える事が可能だと考えられる。
 
<参考史料>
1569年(永禄12)------------

4月    三好三人衆方越前守護朝倉義景、若狭・越前国境の金ケ崎城などを改修する
      ※越州軍記(朝倉義景のすべて)など
1570年(永禄13・元亀元)------------
4月26日 幕府・織田信長の軍勢、越前国天筒山・金ヶ崎城などを落とす
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月28日 幕府衆諏訪俊郷など、山城国人革島一宣へ兵船徴用などについて音信(奉書)
      ※福井県史(資料編2)45頁など
4月28日 幕府・織田信長の軍勢、越前国金ヶ崎からの撤退始まる
      ※信長公記(新人物往来社)103頁など
4月30日 将軍義昭側近一色藤長、織田信長衆蜂屋頼隆などへ音信
      ※大日本史料10・4(武家雲箋)400頁など
5月1日  公卿山科言継、日野輝資などへ帰洛の労いを伝える
      ※言継卿記4・412頁など
5月4日  将軍義昭側近一色藤長、丹波国人波多野秀信へ朝倉氏攻めなどについて音信
      ※大日本史料10・4・358+401頁など
5月9日  織田信長、兵を率いて京都を出陣
      ※言継卿記4・414頁、信長公記(新人物往来社)104頁など
6月4日  幕府・織田信長勢、近江国野洲にて交戦
      ※言継卿記4・420頁など
6月6日  織田信長、若狭守護武田氏一族同苗信方へ音信
      ※福井県史(資料編2)722頁など
6月17日 将軍義昭、近江国人佐々木(田中)下野守へ御内書を下す
      ※大日本史料10・4・526頁など
6月19日 将軍義昭、池田家内訌の深刻化で再び近江国出陣を延期
      ※言継卿記4・424頁
6月27日 将軍義昭、近江国出陣を延期(実質的中止)
      ※言継卿記4・425頁など
6月28日 近江国姉川合戦







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