2016年3月13日日曜日

浅井・朝倉攻めと池田勝正 -この戦いが池田家の分裂を招いた-(諸役負担、軍事負担、一部の権利返上)

池田衆のそれまでの経緯と実力から、「郡」単位の領知(本拠の豊嶋郡を中心に)を上位権力から認められるまでになっていた。
 そして池田衆は将軍義昭政権において、摂津守護職を任される事となった。この時、池田衆の郡単位での様々な役の経験と地域求心力は、他の地域でも有効だったと思われるが、実際には様々な困難に出くわす事となったのかもしれない。地域の最上位権力である国の守護となると、それまでとは全く異なる環境も多く、政治・軍事的に、政策を進めるも退くも、自分を守る術が身についていない。
 また一方で、将軍となった足利義昭は永年、僧として生活しており、その将軍就任については特異な例でもあった。そのため、政権を安定させる事ができず、敵対勢力との闘争や諸利権の整理が困難で、常に波乱であった。それからまた、敵対勢力や要地制圧のために、西は播磨・但馬国、北は越前国へ軍事動員され、中でも播磨国へは、夏と秋の連続で出陣している。
 更に、京都での将軍御所などの建設や禁裏の補修など、中央政治への奉仕に駆り出される役にも、守護職として義務を果たさねばならなかった。
 池田衆は将軍義昭政権を支えるべく、守護職という歴代最高の社会的地位を得たが、義務としての課役もこれまでとは比べものにならない量となった。軍事的負担や諸役負担はもとより、権益の一部返上なども行っており、池田家中では、それらの負担の増大に池田家中の人々は耐え難くなっていたように察せられる。

<参考史料>
1563年(永禄6)------------

3月30日  三好方池田勝正、摂津国箕面寺岩本坊へ宛てて音信
       ※箕面市史(資料編2)413頁など
1565年(永禄8)------------
10月15日 三好方三好方池田勝正、摂津国尼崎本興寺に禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世1)449頁など
11月23日   三好方池田勝正、京都東寺へ禁制を下す
       ※東寺百合文書(9編910册622頁)など
1567年(永禄10)------------
5月22日  三好三人衆方池田勝正、大和国薬師寺へ禁制を下す
       ※奈良県史18・408(薬師寺文書)頁など
1569年(永禄12)------------
正月     摂津守護池田勝正、播磨国鶴林寺並びに境内へ禁制を下す
       ※兵庫県史(史料編・中世2)432頁など
1月27日  京都二条武衛陣へ将軍邸の新造に着工
       ※言継卿記4・305頁など
4月15日  京都妙覚寺にて摂津衆など集い、公事について事務(打ち合わせ)を行う
       ※言継卿記4・326頁など
8月19日  幕府・織田信長方朝山日乗、播磨国庄山城より戦況等を毛利元就他へ音信
       ※龍野市史(史料編1)663頁など
10月23日 堺商人今井宗久、摂津守護池田勝正一族正詮などへ堺五箇荘押領について音信
       ※堺市史5(続編)914頁など
10月26日 摂津守護池田勝正など幕府勢、再度播磨国へ出陣
       ※池田市史(史料編1)81頁など
1570年(永禄13・元亀元)------------
3月15日  禁裏の紫宸殿の瓦工事がほぼ終わる
       ※言継卿記4・398頁など
3月18日  奈良興福寺多聞院英俊、将軍義昭の新第を見物する
       ※多聞院日記2(増補 続史料大成)174頁など






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