2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



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