2016年1月25日月曜日

ミニシンポジウム「天下人三好長慶と飯盛城」を聴講して、城について考えた事

去る平成28年1月24日、大東市で「天下人三好長慶と飯盛城」についてのミニシンポジウムがあり、学術的な見地から、以下の項目でお話しがありました。

◎天下人三好長慶と飯盛城 (天野 忠幸氏)
◎飯盛城跡を国史跡に (中西 裕樹氏)

飯盛山山頂から南西方面を望む
今回は私にとって特に中西氏のお話しに興味を持ちました。中西氏は、プレゼンテーションソフトのパワーポイントを使って、ビジュアル的に説明され、一般市民向けに理解しやすいように工夫されていました。
 内容は、飯盛城を中心として、それに関する近隣の城などの比較を含めて、特徴を説明し、その存在意義を説明されていました。また、レジュメには、三好長慶の永禄4年頃の支配領域図と共に、その域内にある城と、その外周にある重要な城が載せられていて、その図を元に城の説明が進んでいきました。

個人的には、こういった城の配置や大きさについて、それぞれ単体で存立しているものでは無く、連携機能を元に考えられたものだろうと感じています。また、誰(地域)と敵対するかによって、組み合わせが変わっていくものとも思います。
野崎観音寺(城跡)から北西を望む
いわゆる、本支城関係がこれにあたり、敵の居る方向によって城の配置と、本城を置く場所も変わり、それに相対して支城の連携も変わると思います。

例えば、永禄4年頃には、南河内の畠山氏勢力が、三好長慶に敵対していましたので、それに向かうための人員配置と城の置き方となります。加えて、畠山氏に連動勢力が、紀伊・大和・近江国などにあり、その後背勢力にも対応するために飯盛城・信貴山城(高安城・二上山城・立野城含む)・多聞城・鹿背山城が拠点となり、その周囲の支城と連携した地域防衛(攻撃も)体制を構築するといった感じではないかと感じています。
 他方、拠点には重要(政権中枢)人物が入っていますので、それぞれが連絡・連携できる状態で、相互補完もできるようになっていたのだろうと思います。「面」で防御するイメージというと判りやすいでしょうか。
北条集落から飯盛城跡を望む
飛行機の無い時代の戦争は、「後詰め」が非常に大きな役割を果たします。これは、「将棋」のやり方をイメージをすると判りやすいと思いますが、駒1つだけを意識しても、攻めも守りもできません。駒同士が、如何に連携しているかが駒を動かす理由になります。何重にも関連した手を打てば、相手は崩しようがありません。

私は城の配置や機能(役割分担)も、基本的にはそのように考えられていると思います。ですので、連絡を取り合うための施設が必ず城内や隣接して存在しと考えています。例えば、狼煙や鉦、鏡の光を使う、旗などを使った方法で周辺の城と連絡を取るような施設があったと思います。ですので、そういった城から視界が利く方向は、連絡を取る必要があった城と、敵を見張る事ができる方角(仮想敵の方向へ開けている)だったと思います。

それから街道は、敵の流れを止めつつ、物や人の移動など、自軍に都合良く使うために工夫をしておかないといけません。そういった事も考慮された本支城の構築だったろうし、軍勢が集まる拠点としても、本城というのは、重要であったのではないでしょうか。
個人的に考える本支城の関係と広域地域ネットワーク
戦国時代も後期になると、人の数、物資の量も飛躍的に多くなりますし、それに加えて迅速に移動させる必要が出てきます。

ですので、私の考える城の配置は、政権中枢の人物が、地域支配を行う本城を持ち、地域支配のためのグループ化が行われた人物がそれぞれの支城を持つ。そしてそれらのグループ同士が、互いに連携して、広域のネットワークを持ちながら、より広い面の軍事支援補完を行うというカタチになっていると思います。
 ですので、人の立場と役割が、そのまま城の機能と大きさになっていくのだろうと考えています。まあ、ある意味、それが自然な成り行きだとも思います。重要なところに重要人物が居て、その城も大きいというのは...。

この頃の城については、そのように考えたりしているのですが、シンポジウムの質問の時間には、それについて訊いてみなかったのですが、またいつか、専門家でもある中西氏などに訊いてみようと思います。



2016年1月24日日曜日

池田四人衆の事について(はじめに)

摂津国人池田氏が、近年概念化されつつある郡単位を支配する戦国領主となる成長過程で、当主を補佐するための官僚機構を創設した事は、非常に大きな意義があったと思われます。池田家は他の国人と違ってこの点が大きく異なり、これが成長のスピードを高め、勝正が当主となる頃には、近隣勢力とは比較にならない程の差になったと考えられます。

池田四人衆とは、守護職家でいえば、守護代のような、近世大名の組織体制でいうところの家老のような、当主と同等の権力を持つ執政機構といえるのだろうと思います。
 四人衆は、勝正が当主の時代から見ると先々代の信正の代に創設されたと考えられます。これは信正が、管領である細川晴元の重臣で、その側に仕えるために京都の屋敷に居住していた事から、本拠である池田城に当主の分身を置くために考え出された体制のようです。
 四人衆はその名の通り4名で構成され、個人的には、その内の2名は京都で当主の補佐を行い、一方の2名は池田に居て、本拠地の管理を行ったものと考えています。

その後、池田家が大きな勢力に成長して行く過程で、離合集散を引き起こしながら、管領機構である四人衆自体が当主と対立する程の「権力体」になってしまいます。皮肉な事に、池田家を成長させた官僚機構が、滅亡の原因となってしまったとも言えます。

以下、池田四人衆について書いた項目をまとめてみました。また、少しずつ記事を増やしていきたいと思います。論文的に、体系的な書き方もできていけたらと考えています。



2016年1月23日土曜日

1570年(元亀元)の幕府による阿波三好氏討伐計画(はじめに)

元亀元年(1570)の幕府による越前守護朝倉義景攻めは有名ですが、実は阿波国三好氏攻めをも計画しており、検討の結果、朝倉攻めになった事は、あまり知られていないような気がします。

永禄12年(1569)時点で幕府は、阿波か越前のどちらを攻めるか、決めかねていたようです。しかし、結果的に越前朝倉討伐となりましたが、これは、この年に織田信長との同盟勢力であった近江国人浅井氏が、「離反する」との噂が出た事。加えて、永禄11年8月に朝倉氏が、隣国の若狭守護家の武田家内紛に介入して、若狭への影響力を強めいていた事もあって、後者に決まったようです。
 当時の政治的・軍事的深刻度合いから、越前攻めを優先させたようで、阿波攻めも同時並行で準備はされていました。

その幕府方の動きについて、関連する要素をご紹介していきたいと思います。

(1)将軍義昭政権始動時の幕府の状況
(2)幕府が当面行うべき事
(3)当初から阿波か越前を討伐する計画があった
(4)越前朝倉氏攻めに決まった理由
(5)西国の情報を集めていた堺商人今井宗久
(6)阿波国攻めの準備の状況
(7)永禄12年(1569)の播磨国攻めは、阿波国攻めの準備



2016年1月18日月曜日

乱世を駆け抜けた城「若江城を探る」シンポジウムを聴講して

去る1月16日、先週の土曜日なのですが、東大阪市立男女共同参画センター・イコーラムホールで開催(主催:近畿大学 文芸学部文化・歴史学科)されたシンポジウムに参加してきました。当日は盛況で、立ち見も出る程でした。プログラムは、
  • 問題提起-歴史的拠点としての若江 網 伸也氏(近畿大学文芸学部)
  • 落葉 若江城と三好氏 -調査結果から- 菅原 章太氏(東大阪市教育委員会)
  • 城郭史から見た若江城の再評価 -戦国から織田への転換点- 中西 裕樹氏(高槻市立しろあと歴史館)
  • 若江城はどのようにイメージされてきたか 小谷 利明氏(八尾市立歴史民俗資料館)
  • シンポジウム:網、菅原、中西、小谷各氏
の内容で行われましたが、私はちょっと先約があって、シンポジウムは聴くことができず、講演会のみの参加だったのですが、内容は大変興味深かいものがありました。

個人的には、会場の参加者の様子を見ると、専門的に研究している風でも無く、興味レベルの市民が参加していたようでしたので、もう少し判りやすい比較やビジュアルを多用して説明した方が良かったのではないかと思いました。つまり、説明が詳し過ぎたように感じました。
 私自身は面白かったのですが、内容が結構アカデミックで、学術レベルが高すぎた感はあったかもしれません。難しいところですね。

さて、その中で興味があったのは、以下の要素です。
  • 重要な地域(若江地域について)は、時代が変わっても同じ。
  • 若江城の成立環境後期は、守護方としての動きの可能性がある事。
  • 三好義継は始め、河内守護職として飯盛山城に入り、永禄13年始め頃には若江城に移ったとの考えを再認識した。
これらの要素は、私の関心分野にも大きな影響があり、もう一度考え直さないといけない所も出てきました。

そう言われてみると、もう一度、自分の研究ノートを見直した時、同じ要素を載せてはあるのですが、その意味や可能性を考えずに通り過ぎて、通年や一般論を思い込んでいる所があるのです。そういった事が一カ所でもあると、それに関連する場所や出来事もつながって理解します。
 「思い込み」は禁物ですね。怖いですね。全ての前提が摂理(真実)とは全く違う方向に進んでしまいます。
 
シンポジウムに参加して良かったです。これを機に、私の研究も、該当部分を見直していきたいと思います。全体の研究も、より摂理に近付けるようになっていけばと思います。



2016年1月9日土曜日

摂津池田家の支配体制(はじめに)

応仁・文明の乱以降、京都中央政治の混乱もあり、日本全国の地方都市は独自に権力を形成するようになったとも言えます。
 それは、更なる混乱を招き、戦国時代とも言われる、動乱の時代になりました。そんな環境の中で、首都京都に近い摂津国の有力武士であった池田家も成長していきます。将軍義栄・義昭の時代には、同国内でも数郡を支配下に持つ最有力の勢力に成長し、池田家が戦国領主の概念を超える程の規模となっています。
 実質上の池田家最後の領主であった勝正の時代を目安に、池田家周辺の支配体制を考察してみたいと思います。
 
(1)摂津国川辺郡久代村の支配
(2)同国原田郷との関係
(3)摂津国垂水西牧南郷目代今西家との関係
(4)池田一族の代官請け
(5)池田家被官について
(6)池田周辺の政所
(7)摂津国豊嶋郡箕面寺
(8)池田氏が下した禁制及び定め
参考:摂津池田家の領域支配(1571年(元亀2)の白井河原合戦についての動きから見る)



2016年1月7日木曜日

永禄年間末期の三好義継の居城は、河内国の飯盛山城か!?


飯盛山城跡から京都方面を望む
近年、河内国飯盛山城を国指定の史跡にしようと、大東市や四條畷市で盛り上がっているようで、学術的な再検証も行われているようです。
 それにともなって、様々な出版物も出ていて、その理由について書かれています。三好義継は、池田勝正とも深く関係していますので、大変興味深く見ているのですが、自分でも思い込みがあったので、それを補正しようと、自分でまとめている資料を見直しています。
 最近の飯盛山城の捉え方にによると、足利義昭が第15代室町将軍に就いた永禄11年秋には、三好義継は飯盛山城を本拠にしており、若江城に移ったのは翌々年の同13年頃との推定がされています。
 本城と支城の関係や人物についてなど、こまごまとした要素を詳しく検討した論文のようなものも追々出てくると思いますが、今のところ、この新たな見解に納得のいく所も多くあり、受け入れています。
 ただ、永禄12年正月に、三好三人衆方の軍勢が将軍義昭の居所となっていた京都六条本圀寺を襲った時、その行軍行程は河内国の淀川東岸及び東高野街道を進んだと思われますので、これと飯盛山城との関係について興味を持っているところです。
石垣の様子
三好三人衆の軍勢が、飯盛山城下を通過をしたのであれば、敵方である飯盛山城に、どのような対処をしたのでしょうか。何もせず北上すれば、背後から襲われます。やはり、ここに軍勢を割くなどして、後衛としなければいけないはずです。
※歴史資料では、この時の三好三人衆方の軍勢は、義継方の村などの拠点を放火するなど打ち廻りつつ進んだようです。
 そうすると、三好義継は塞がれた道を使えませんので、田原方面から交野などを経由するか、奈良多聞山城の松永久秀と合流し、南山城方面を北上するなどして京都に入ったか、ちょっと再考の余地が出てきます。
 義継が一番敵に近かった割には、京都に入るのが遅いようにも思いますので、敵方勢力に阻まれたり、迂回の必要があったりして、時間がかかったのかもしれません。飯盛山城からの普通の行軍であれば、半日から1日もあれば、十分に京都に入れるはずです。
 義継の河内(北)半国守護としての最初の居城が、若江城では無く、飯盛山城であったとすれば、そういったところの出来事との整合性も補正する必要があり、これに関係する勝正との動きも修正の必要がありそうです。

また、今後の詳しい調査に期待しています。