2015年10月8日木曜日

永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(その1:なぜこの上洛戦が永禄11年秋だったのか)

織田信長が、足利義昭の上洛要請に応じて京都を制した事は、多くの方々がご存知の事と思います。
 尾張国内の統一、また、美濃・伊勢・近江国内の要所の制圧、若しくは影響下に置き、その上で京都侵攻への具体的な絞り込みを行いました。同時に、京都周辺での協力勢力の連絡と取り込みも行い、信長は念入りに計画を進めています。

しかし、個人的に今もあまりピンと来ていないのですが、織田信長の「天下構想」というか、それへの意欲というのは、どんなものだったのでしょうか。最近の研究では、有名な「天下布武」というフレーズを使い始めたのは永禄10年(1567)頃からとされています。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏のように、自分の手で日本全国を束ねるような意欲というか、欲望のようなものが、信長の中にどれほどあったのでしょうか?
 信長と前者の違いは、信長自らが武士の棟梁としてそれを推し進めたのでは無く、足利義昭越しに天下を見ていた事でしょうか。また、「天下布武」を使い始めた時期は、足利義昭の動きと関係するのかもしれません。
 
まあ、その事は脇に置き、美濃国岐阜から京都へ至る道程では、それに敵対する意志を見せていた六角氏と京都を手中に収めていた三好三人衆の勢力がありました。
 永禄11年(1568)秋の時点では、当面の敵はこれらの勢力への対応に絞り込む事ができます。ですので、信長は足利義昭の権威も利用しながら、各方面への対応を行います。
 京都周辺で、三好三人衆方に対抗する勢力を利用しつつ、その三好三人衆の本拠地でもある阿波・讃岐国方面への圧力を加えるために信長は、毛利元就と連携します。
 同時に、龍野赤松氏や播磨国東部の別所氏とも通じ、三好三人衆に圧されて劣勢となった松永久秀、河内南半国守護を追われた畠山氏とも連絡を取ります。
 足利義昭を奉じた信長の進軍と、時を同じくして動くように手はずを整えていたのです。「信長方の軍勢五万」というのは、大ざっぱにこのあたりの事も入れた感覚だろうと思います。大軍であった事は間違い無いことですが、池田城攻めだけに「五万」を付けたという訳では無く、その周辺も含めての事(実際、池田氏の支配領域だけでも豊嶋郡とその周辺にも及ぶ。)だと思います。占領地域にも軍勢を割かないといけないので、全部を前線に集中させるわけにいきません。

信長は京都を囲み、その進軍エネルギーの導火線のように、大軍を用意して、京都を目指したというわけです。
 信長は更に万全を期します。近江守護六角氏の内情を調べ、六角氏の有力被官を離反させています。また、三好三人衆も長期間に渡り、松永久秀などと内ゲバ中でした。信長が軍勢を動かす前には殆ど、勝つための準備が出来ていたのです。相手の状況を探り、自軍が有利になる時期も見計らっていたのです。
 一方、大軍を迅速に動かす事で、相手に抵抗準備をさせず、心理的にも大きな圧力を与えられます。そしてその範囲も、京都占領後にその維持が必要な地域を対象としていたようです。実際にはそれが不十分ではあったようですが、山城・摂津・河内・大和(近江も)に及び、これはそれまでの上洛戦とは少し目の付けどころが違うように思います。

それから、この上洛戦がなぜ「秋」なのかというと、収穫の時期だからです。勝てば、それらを手に入れる事ができます。それを手中に収めるのと、手放すのとでは、意味が全く違ってきます。一度の行動で、大勢(たいせい)を手に入れる事ができます。
 ですので、負けられない一戦をこのタイミングに込めており、攻め方も考え抜かれた方法でした。また、一度手中に収めた資源(財力)を手放さない覚悟と方策も念入りに、「不退」を守り抜いて維持しようとしました。
 政治に必要な要素というものを、その核を理解し、行動の中心(求心力)としていたようです。平たく言うと、永禄11年秋の上洛戦は、京都中央政権の経済を手中に入れ、他者に取られないようにする事。それを室町将軍に就く正統な人物が、武士の棟梁として禁裏と京都を守るという事。それらの要素保持を死守し、中央政権としての信用を得る事を目標にしていたと考えられます。

そんな状況で迎えた三好三人衆方の池田勢でした。三好三人衆方は、信長の目論見通り、総崩れとなり、西へ後退していきます。池田城には、そういった人々も一時的に収容しつつ、抗戦の準備も行います。間もなくこれは、この上洛戦で最も激しい攻防戦となりました。

詳しくは 「その6:池田城攻めの様子と詳報」でお伝えしたいと思います。どうぞご期待下さい。





0 件のコメント:

コメントを投稿