2015年10月8日木曜日

永禄11年の足利義昭上洛戦と摂津池田城(その1:なぜこの上洛戦が永禄11年秋だったのか)

織田信長が、足利義昭の上洛要請に応じて京都を制した事は、多くの方々がご存知の事と思います。
 尾張国内の統一、また、美濃・伊勢・近江国内の要所の制圧、若しくは影響下に置き、その上で京都侵攻への具体的な絞り込みを行いました。同時に、京都周辺での協力勢力の連絡と取り込みも行い、信長は念入りに計画を進めています。

しかし、個人的に今もあまりピンと来ていないのですが、織田信長の「天下構想」というか、それへの意欲というのは、どんなものだったのでしょうか。最近の研究では、有名な「天下布武」というフレーズを使い始めたのは永禄10年(1567)頃からとされています。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏のように、自分の手で日本全国を束ねるような意欲というか、欲望のようなものが、信長の中にどれほどあったのでしょうか?
 信長と前者の違いは、信長自らが武士の棟梁としてそれを推し進めたのでは無く、足利義昭越しに天下を見ていた事でしょうか。また、「天下布武」を使い始めた時期は、足利義昭の動きと関係するのかもしれません。
 
まあ、その事は脇に置き、美濃国岐阜から京都へ至る道程では、それに敵対する意志を見せていた六角氏と京都を手中に収めていた三好三人衆の勢力がありました。
 永禄11年(1568)秋の時点では、当面の敵はこれらの勢力への対応に絞り込む事ができます。ですので、信長は足利義昭の権威も利用しながら、各方面への対応を行います。
 京都周辺で、三好三人衆方に対抗する勢力を利用しつつ、その三好三人衆の本拠地でもある阿波・讃岐国方面への圧力を加えるために信長は、毛利元就と連携します。
 同時に、龍野赤松氏や播磨国東部の別所氏とも通じ、三好三人衆に圧されて劣勢となった松永久秀、河内南半国守護を追われた畠山氏とも連絡を取ります。
 足利義昭を奉じた信長の進軍と、時を同じくして動くように手はずを整えていたのです。「信長方の軍勢五万」というのは、大ざっぱにこのあたりの事も入れた感覚だろうと思います。大軍であった事は間違い無いことですが、池田城攻めだけに「五万」を付けたという訳では無く、その周辺も含めての事(実際、池田氏の支配領域だけでも豊嶋郡とその周辺にも及ぶ。)だと思います。占領地域にも軍勢を割かないといけないので、全部を前線に集中させるわけにいきません。

信長は京都を囲み、その進軍エネルギーの導火線のように、大軍を用意して、京都を目指したというわけです。
 信長は更に万全を期します。近江守護六角氏の内情を調べ、六角氏の有力被官を離反させています。また、三好三人衆も長期間に渡り、松永久秀などと内ゲバ中でした。信長が軍勢を動かす前には殆ど、勝つための準備が出来ていたのです。相手の状況を探り、自軍が有利になる時期も見計らっていたのです。
 一方、大軍を迅速に動かす事で、相手に抵抗準備をさせず、心理的にも大きな圧力を与えられます。そしてその範囲も、京都占領後にその維持が必要な地域を対象としていたようです。実際にはそれが不十分ではあったようですが、山城・摂津・河内・大和(近江も)に及び、これはそれまでの上洛戦とは少し目の付けどころが違うように思います。

それから、この上洛戦がなぜ「秋」なのかというと、収穫の時期だからです。勝てば、それらを手に入れる事ができます。それを手中に収めるのと、手放すのとでは、意味が全く違ってきます。一度の行動で、大勢(たいせい)を手に入れる事ができます。
 ですので、負けられない一戦をこのタイミングに込めており、攻め方も考え抜かれた方法でした。また、一度手中に収めた資源(財力)を手放さない覚悟と方策も念入りに、「不退」を守り抜いて維持しようとしました。
 政治に必要な要素というものを、その核を理解し、行動の中心(求心力)としていたようです。平たく言うと、永禄11年秋の上洛戦は、京都中央政権の経済を手中に入れ、他者に取られないようにする事。それを室町将軍に就く正統な人物が、武士の棟梁として禁裏と京都を守るという事。それらの要素保持を死守し、中央政権としての信用を得る事を目標にしていたと考えられます。

そんな状況で迎えた三好三人衆方の池田勢でした。三好三人衆方は、信長の目論見通り、総崩れとなり、西へ後退していきます。池田城には、そういった人々も一時的に収容しつつ、抗戦の準備も行います。間もなくこれは、この上洛戦で最も激しい攻防戦となりました。

詳しくは 「その6:池田城攻めの様子と詳報」でお伝えしたいと思います。どうぞご期待下さい。





2015年9月2日水曜日

素人が歴史を学ぶ(見る)上で心がけたい事

近年、自国の歴史や他国と関わる歴史、特に明治時代以降の近代史について、関心が高まっているように思います。
 確かに、私自身の過去を振り返って、学校ではどのように教えられていたかというと、近代史に入る頃には年末年始頃の3学期で、学ぶ方も教える方も、非常に怠惰だったと思います。ですので、歴史に興味を持つ者は、耳学問で、自分の見聞きする範囲、また、実際にその時代を生きた人の経験談か、伝聞で主に知る事になっていたと感じます。

ですので、非常に主観的、且つ、憶測や不正確な環境の中で、近代史を「学んでいたつもり」になっていたと思います。
 これは私だけの経験では無く、割と多くの人がそういった環境だったのではないかと思います。それに加えて、メディアに関わる人々もそのような状況の中で番組を作り、それを見てまた、私たちが学ぶというサイクルになっていたように思います。
 一概にそうもいえない立派なコンテンツ(番組や映画、出版物)もあり、よく調べ、真実を伝えようとする視点もありますが、マスメディアとは少し性質が違うようにも思います。

しかし、歴史とは、個人の経験が全てでもなければ、組織の理由が全てでもない事もあります。また、その最中には見えず、後になって気付く事もあります。それから、立場によっても、性別、年齢によっても当然違ってきます。
 感情や感覚だけでは説明できない事が、特に近代史の難しいところだと思います。組織の単位、利益の単位、スピードなどが、近世以前とは比べものにならない規模になっているからです。
 同時にその環境の中で個人は豊かになり、自由が拡大した事も視点の中心に置かないといけないと思います。国民が同意していた要素も見なければいけません。それは、中央集権が成された近代という時代の中心であった「国家」の産物です。全ての国民は、その中に居たのです。
 よく決まり文句のように言われる、情報統制されていたとか、教育でそう思い込まされていた、だけでは説明の出来ない状況があります。これは思考と責任の放棄以外の何者でもありません。社会と人間は、民族自決の上で国家を立てるためには、共有しなければいけないものがあります。また、自国と国際社会の関係も視野に入れて考える必要がります。

さて、私は全くの素人から中世時代の摂津国豊嶋郡池田の、特にその城主であった池田勝正という人物について調べていますが、その中で学んだ事があります。歴史を調べる時には、

◎現代の感覚で過去を見ない。
◎織田信長のような史上の人物を特別視しない。
◎「if」を考えない。(結果が歴史であり、絶対にその他はあり得ない事だから。)
◎当時の感覚に近づくよう心がける。(環境を理解する。)
◎対象を、できるだけ多くの情報を元に見る。
◎自分の先入観を無くす。
◎見解は言葉を慎重に選び、客観性を心がける。
◎証拠(史料)が無ければ、結論は出さない。
◎推定をする時も、その根拠をできるだけ多く用意する。
◎反論は、史料を以て行う。
◎機会を見つけて、なるべく自分の考えを他に問うこと。
◎議論で喧嘩をしないこと。喧嘩になる相手は、相手にしないこと。

そういった心がけ(条件)が必要だと思っています。これは日常の生活でも、完璧では無くても、そういう心がけは要りますよね。
 私も最初は、主観的な思い込みが強く、あるべき事実が見えていなかったように思います。今も学びの途上で、いつ終わるのかわかりませんが、兎に角ひたすら、情報に接する、史料を読む事だけは心がけています。
 できるだけ、客観的な判断をするためにそれが必要で、その結果として、真実が見えるようになるのだと思います。見えないのは、自分自身でそれが出来ていないのだろうとも感じています。 


2015年7月22日水曜日

研究用資料を製本して、本棚もスッキリ!

郷土研究をするのに、色々とコピーを取る事が多く、本棚の多くの面積(容積)を占めるようになってきています。
 私のように、限られた時代と人物を研究するだけでも多方面の資料をコピーする必要があるのですから、もっと広範に視点を持つ必要がある研究は相当な量になると思います。

資料としての書籍は、ある程度収まりが良いのですが、コピーしたものを整理して保存しておくのは、数が多くなると収まりも悪いし、見た目も悪いし、本棚上のインデックスとしての一覧性も悪く、何とかならないかと、長い間の悩みでした。

ところが最近、お手頃な値段で、コピー用紙束であっても1冊から製本をしていただける製本・印刷屋さんを見つけて、大助かり! ←どっかのテレビショッピングみたいですが...。

この長年の悩みが解消しつつあります。


(1)製本前の資料の状態

(2)「無線綴じ」で製本した状態 ※文字も本格印刷

(3)製本した資料の背の部分 ※紙がシッカリついて頑丈です

バインダーで留めていた頃は、見開きの部分がどうしても奥まってしまい、文字が読みづらい事もあったのですが、無線綴じ製本すると、あまり接合面が奥深く干渉しないので、難なく読めるようになりました。
 また、製本屋さんのプロの技で、ページを何度めくろうが、外れたりしなさそうな堅牢さです。やはりそういう専用のボンドがあるのでしょうね。
※実はこれが一番心配だったのですが、そんな心配は無用でした。頑丈です。

まあ、何と言っても、本棚に収まり、背の文字で一発視認ができるようになり、持ち運びも便利で、言うことなしです。本当に良い会社を見つけました。

ただいま、資料を鋭意、製本依頼中です。本棚もスッキリすると思うと、楽しみです。


追伸:ちょっと個人的には、将来的に論文集を出そうと思っているのですが、そういった事も対応してもらえるので、良い関係を作っておきたいと思っています。

【会社データ】
社名:株式会社大友出版印刷
所在地:〒544-0002 大阪市生野区小路3-11-9
URL:http://www.ohtomops.jp
連絡先:TEL(06)6751-2377
サービス内容:自費出版・自分史・ミニコミ誌・サークル誌・同人誌・卒業文集・学校新聞・
       各種テキスト・論文・各種パンフレット・ポスター・チラシ等
事業内容:製版業務・印刷業務・製本業務・版下業務
参考:製本についての同社公式説明ページ http://digital-work.co.jp/sassi/




2015年7月4日土曜日

信長公記にも登場する、摂津武士池田紀伊守入道清貧斎(正秀)について

私の調べている期間内で、池田正秀なる人物は池田家政の中心的人物で、非常に重要です。
 池田家当主が信正(のぶまさ)の時代、時代の要請や池田家自身の繁栄で、当主だけでは手が足りなくなり、その補佐役として、信頼の置ける人物を一族の中から選抜して、その役に就かせたようです。
 江戸時代でいうと「家老」と同等の立場のようで、官僚のような役割ももっていたようです。ただ、あらゆる点で中世は、江戸時代のように固定化した概念はあまりなく、その範囲も限定されたものでもなく、割と不規則だったように見えます。人物本位といったところがあると思います。
 その家老のような人物を4人選んだらしく、「四人衆(よにんしゅう)」と呼ばれる集団が、当主を補佐しています。そらからまた、この家老集団を出現させた需要として、池田信正が京都の中央政権に重く取り立てられ、同所に屋敷などを持つようになった事から、国元の政治を取り仕切る機関が必要になったからだと考えられます。

この四人衆時代の変遷があり、3期に分かれます。最後には内部分裂を起こし、池田家が解体となりますが、その最後まで中心的な役割を果たしていたのが池田紀伊守正秀です。
 以下に1期から3期までの四人衆の構成をご紹介します。

<第一期> (順不同)
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗山城守基好
 ・同苗十郎次郎正朝
当主と四人衆のイメージ画

<第二期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・同苗周防守正詮
 ・同苗豊後守(正泰ヵ)

<第三期>
 ・池田勘右衛門尉正村
 ・同苗紀伊守正秀
 ・荒木信濃守村重

池田四人衆についての詳しくは「摂津池田四人衆の事」をご覧いただければと思いますが、この中心的な人物である池田紀伊守正秀については、生没年が不明です。私の守備範囲である年代の記録から判る範囲で、以下にご紹介します。
 ただ、没年については、1575年(天正3)以降、史料上に見られなくなりますので、その頃の可能性は高いと思います。この頃には随分と高齢だったとも想定されるため、その事も併せ考えると、没年の想定をこの頃に置くのも不自然では無いと思います。
 また近日に史料を上げて、詳しく正秀の行動をお知らせする事にしまして、ここではダイジェスト版でご紹介しようと思います。

◎池田家中政治の中心人物
当時の史料には「四人衆」との記述が多方面で現れる事から家政機関として、外部組織にも認知されていた事は確実です。
 そしてまた、その四人衆は「禁制」も多数発行しており、そこに4名の署名があって、正秀の名も見られます。それから『言継卿記』に、正秀が公家である山科言継の屋敷を訪ねて会談したりしており、外交の面でも広範囲に活動していたようです。
 池田家は、京都周辺の主要な重要都市に屋敷や拠点を持っていたいとようです。前記の京都を始め、和泉国の堺、摂津国平野にはあったようです。これは、正秀個人の所有なのか、池田家としての共同資産なのかわ分からないのですが、用件のある度にお寺などで宿泊するよりは、屋敷や拠点を持つことは便利ですし、重要です。その地域への出先機関ともなります。
 それからその他の地域でも、例えば、摂津国尼崎、同大坂、同冨田、同芥川城下、河内国飯森山城下など、大きな都市や軍事拠点には何らかの機関もあったと想定されます。本願寺宗が、各地に布教拠点を設けますが、これと同じような事は、宗教活動で無くても必要ですので、当時の通信事情を考えても、効率を考えればどうしても必要になって来ると思われます。
 
◎正秀の名前について
池田正秀の名前についてですが、中世と現代とでは社会的な慣習が異なります。個人は「家」を中心に活動し、生活しています。家は途切れずに続き、自分自身はその通過点であると考えているため、「生ききる」事に人生の価値を置いています。一方で、極まった時の「潔さ」という一面もあったと思います。どちらにしても、「後世」を意識しての価値観だと思います。
 さて、現代的に言うと、姓と名は、池田正秀です。しかし、その当時には社会的地位と現在の立場などが、名前の間に入ってきます。歌舞伎役者や落語家などの伝統芸能では、こういった習慣がまだ残っていますね。
 正秀は「紀伊守」という官途を名乗る家系だったようで、その官途を名乗ります。また、紀伊守を名乗る前段階の名前もあったりして、その時々の年齢や事情によって変わっていきますが、諱(いみな)はあまり変わりません。
 それから、跡継ぎが育ち、家の代表者を嫡男に譲る時が来れば、後見役となって入道(仏門に入るなど)となり、入道号を名乗ります。多分、「正行」は、正秀の嫡男で跡継ぎです。彼は父と同じく紀伊守を名乗っています。また、跡継ぎの事だけでは無く、何らかの理由で代表を退く場合にも入道となり、浮世から離れます。
 正秀の場合の入道号は「清貧斎」です。読みは多分、「せいひん」だと思います。「せいとん」という読み仮名を『言継卿記』に1箇所だけ書き込んであるのですが、せいとんの意味が分かりません。誤記ではないかとも思います。
 当時の史料を見ると「池田紀伊守入道」とあり、これは正秀を指します。時代によっては、同じ名乗りを記録していますが、その場合には諱(いみな)が重要な判断基準となります。
 それから、茶道や連歌に通じる場合、「斎号」というものを名乗ることがあります。正秀はその両方に秀でていた事から斎号も持っていたようで、「一狐」とも署名しています。これの意味はわからないのですが、狐(きつね)は、中国の伝説にも登場する妖怪だったり、イナリのような、神格化された信仰の要素など、日本には古くから身近な動物でした。正秀はそれらの要素の何かに注目して、斎号を取ったのだろうと思われます。
 ちなみに、正秀がいつ頃から入道号を名乗ったかというと、この長正が無くなった永禄6年初頭頃からでは無いかと考えています。対立はしましたが、当主長正は池田家のためによく働き、長正が亡くなる頃は、正秀が長正に心を寄せていて、その死亡を悼んだのではないかと思います。
 長正が死亡した直後と考えられる、永禄6年らしい2月27日付けの摂津国多田院僧衆へ宛てた音信では、勝正の書状に添えて四人衆が同内容の書状を発行しています。これに正秀は清貧斎と署名しています。

◎文化人としての活動
正秀は、連歌会にも出座し、多くの歌を残しています。織田信長が京都で政権を始動させる前、三好長慶がその座にありましたが、長慶は連歌を愛好しており、それらの歌会にも度々呼ばれています。
 一方で茶道にも通じ、様々な名物茶器も所有して、「清貧釜(せいひんがま)」など、彼の名を冠する茶道具もありました。堺商人の天王寺屋宗及などが記した茶席・茶道に関する史料『茶道古典全集』には、正秀の名が頻出しています。
 
◎武士・武人として
正秀など四人衆は、当主信正から勝正の代まで少なくとも3代に関わる活動をしていますので、その間に数多くの戦場を経験しています。その経験から後年には、戦場でも老練な作戦立案や目利きができたようです。
 『信長公記』によると、1569年(永禄12)正月の京都本圀寺・桂川合戦での機転の利いた手配りに正秀を褒めたと記述されています。これは池田衆の名代としての事だったのかもしれませんが、特記事項として取り上げられています。
 その2年後、1571年(元亀2)8月28日、今の茨木市で行われた大合戦「白井河原合戦」では、非常によく練られた作戦を成功させ、不利だった状況を見事に挽回しています。この時は三人衆時代で、その中心は正秀だったと見られます。

◎家中での発言力と求心力
1548年(天文17)5月6日、当主信正が、管領細川晴元から切腹を突然に命じられ、池田家中が混乱します。その時、四人衆が暫定的に当主の代行的役割を果たしますが、その時も家中の対立があって、暫く当主の一本化ができずにいました。その一方の当主を擁立していたのが四人衆でしたが、その四人衆が推す人物が病気などで死亡してしまい、結局は長正を当主にする事で決着します。
 四人衆は、当主格と対立もでき、「家」としての意思決定もできる機関であった事が、それを見てもわかります。
 当主の並存期間には、四人衆が独自に領内へ法度(禁制的なもの)を公布し、前当主信正に代わる、若しくは、同等の機関である事を公言しています。そこには四人衆を構成する正秀など4名の署名があり、地域社会に対する公権力を発動しています。

◎最期には幕臣に取り立てられる
数々の経験から、1573年(元亀4)初頭には、将軍義昭の近臣として、幕臣として取り立てられています。この頃には池田三人衆も分裂し、池田一族は幕府へ加担。対する荒木村重は小田信長へ加担して、それぞれの道を歩みます。
 皮肉な事に、両者は両陣営から重く取り立てられ、村重も将軍義昭方との交渉役として活動する事となります。実際に顔を合わす事もあったのかも知れません。
 この京都の中央政権内での将軍義昭と織田信長の分裂という極限状態で、両陣営から池田衆の取り組みが盛んに行われていた事が窺え、それは如何に池田家が地域ブランドを持っていたかを示す事実でもあります。
 その事を知る当時の記述があります。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記した報告書『耶蘇会士日本通信』には、内藤如安(丹波国人)の都に着きたる日(3月12日)、池田殿兵士2,000人を率いて公方様を訪問せり。此の兵士の来着に依り、都は少しく沈静せり。、とあります。
 これを率いる事ができたのはやはり、池田正秀を抜きにしては不可能で、池田衆が動いた事の京都市中の反応も、その当時の実力に相対するものだったと考えて、間違いは無いと思います。




2015年3月17日火曜日

戦国時代の影と闇(はじめに)

戦国時代とは、応仁の乱から徳川幕府の樹立で、争乱が一応沈静化するまでの期間を捉えてそう呼ばれています。
 基本的には話し合いで問題を解決をしようとはしますが、武力での解決も合法化させていた時代が戦国時代です。殺傷は日常的で、生きることは戦いでした。弱い者は生きていけません。
 現代と比べると野蛮で、危険な事も日常的に溢れていました。やはり、今の方が何においても優れており、平和で安全です。私は懐古主義でもなく、戦国時代好きでもありません。社会の歴史の発展を見る機会になればと、ちょっとコラムを考えてみました。過去を知り、今の社会の意味を実感する事にもつながればと思います。

(1)病気に苦しむ人々
(2)喧嘩から殺し合いになる事も日常的
(3)人質が串刺しになる時代
(4)海岸に生きたまま捨てられる赤ん坊
(5)海賊・盗賊に追いかけられる人々
(6)個人は組織に所属しなければ生きられない時代
(7)度々ある大火
(8)無政府状態となる争乱地域



2015年3月16日月曜日

キリシタンと摂津池田家(はじめに)

ポルトガル船が日本へ辿り着き、鉄砲の伝来となったとされる年が1543年。続いてキリスト教が日本へ上陸したとされる年が1549年。これらの経緯は学校でも教わり、日本人の多くが知るところです。しかし、その細かな地域との関わりまでは、知らない人が多いと思います。
 キリスト教伝道師は、地方での布教よりも、日本の首都での布教と地位の向上を企図し、京都とその周辺、堺などに拠点を設け、積極的に活動します。その為、年々京都とその周辺で信徒も増えていきます。その活動について、宣教師により克明に記録され、その中には池田氏についても記述が見られます。
 池田のヒト・モノ・コトとキリスト教について、以下の項目毎にご紹介してみたいと思います。

(1)摂津国余野殿の妻マリヤとその娘(高山)ジュスタ
(2)北摂地域とキリシタン
(3)荒木村重とキリスト教
(4)池田の都市とキリスト教



2015年3月15日日曜日

池田教正が関係していた可能性のある永禄10年2月の池田家内訌(はじめに)

池田丹後守教正は、「正」を持つその諱(いみな)、活動地域からして、摂津池田家出身の武将であろうとする説が有力なのですが、今のところ史料上の決め手が無く、結論が出ないまま、半ば放置状態です。
 私も個人的には、それらの説を概ね受け入れてはいますが、断定できる史料を見つけるに至っていません。1528年(大永8・享禄元)から1579年(天正7)までについて、私がこれまで見てきた中で池田教正に関する素材を集め、一旦整理をし、研究発展の今後に期待しつつ、多くのご意見を受けたいと思います。

(1)永禄10年2月の池田家内訌を見る
(2)三好義継・松永久秀の重臣だった池田教正
(3)キリシタンとしての池田教正
(4)茶の湯の記録に登場する池田教正
(5)荒木村重と池田教正
(6)河内国若江三人衆と池田教正



2015年3月14日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(備考:『荒尾市荒木家文書』天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状)

この史料については、写真があるので、許可や環境が整えば公開したいとも思っている。しかし、今のところ、文字のみをご覧頂く事にする。
 史料について、発表時の会報『村重』創刊号でも、若干の考証がされている。加えて、個人的にも専門家に聞いてみたが、「正文ではない」旨の回答だった。
 史料についての筆者の考えは論文にして述べた。もう少し補足するとすれば、この文書を受け継いだ人々の誰かが、重要な文書であるために、できるだけ復元しておこうと、朱印部分などを加えたりしたが故に、全体的な価値や判断を狂わせるような自体にせしめたのではないかと考えたりもした。

痕跡も無いものを作る事は困難だと思われる。何らかの端緒があって、また、そのものがあって、現存のカタチになっている事は間違いないと思う。それに、この一点だけが伝わっているのでは無く、村重に関する史料が数点(会報に掲載されているのは4点)、荒木家に伝わっているのである。

くどいようだが、筆者はこの史料の価値は、全く無いとは言えないと考えている。

以下、天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状の翻刻。

今度其の元忠節の事に依り、摂津国江(与?)河内之中相添え、都合四拾万石宛行われ候条、以後忠勤抽んずべく候也。

天正三年二月 (信長印)
    荒木摂津守殿





2015年3月13日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)

天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろうと思われる。
 天正3年2月当時、信長が「摂津・河内」という重要地域の一職知行を村重に約した意図は、それによる京都(政権)の安定と大坂本願寺への布石として期待しためと思われる。織田政権の基礎作りにおいて、土着性を持つ村重に対し、摂津国に加えて河内(半)国をも任せたのは、特別な理由があった。
 それは信長が、複雑な政治情勢を考慮して、元々基盤のない畿内で分国を持つ事に慎重だったのではないかともされており、摂津国大坂に本拠を置く本願寺宗と敵対するについては、早急に在地勢力を取り込んで体制作りを行う必要があったためと考えられる。
 しかしながら、荒尾市荒木家文書の内容の問題としては、天正3年11月頃から村重は「摂津守」を公(おおやけ)に名乗るが、それ以前に信長が、公文書に摂津守を明記するかどうかという点がある。
 ただ、これまでに述べたように、織田政権の領国統治概念と当時の状況から考えると、有望で実質的な一職者である村重に対する、正式な(若しくは、新たな加増分の支配者として)一職知行契約の提示と考えるならば、時期的にも矛盾は無いように思われる。実際にこういった形の一職提示は、浦上宗景・三村元親 *21・播磨国守護系赤松氏などへの対応で多く見られる。
 先にも述べたように、天正3年11月には確実に、村重は自ら摂津守を公に名乗っているが、それは信長からの条件を満たした事で承認され、公的に摂津守を叙任した背景があったからなのかもしれない。
 何れにしても村重のその行動を支えたのは、地域内の一職契約と守護的裏付けがあったためと考えられる *22。また、然るべき時期に契約が提示された事は、村重の織田政権に対する、将来への基礎的な信頼関係構築ともなり得たであろう。

拙いながらも筆者が述べたように、文書自体の真偽は別としても、荒尾市荒木家文書については、それを発行するに至る、当時の政治環境が整っていように思えるのである。学界での研究論文の一部ではあるが、それらに照らしても、同文書(史料)は、公的な文書として成立する背景が全く有り得ないとは言い切れず、その可能性について筆者は、再び多角的な検証を行っても良いのではないかと考えるのである。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(20)八木哲浩編『荒木村重史料』伊丹資料叢書四(66頁)。
(21)「織田信長が八月五日付けで三村元親へ宛てた音信」『黄微古簡集』岡山県地方史研究連絡協議会。
(22)前掲註(6)、「三 一職支配=一円知行の本質」(補論)。





2015年3月12日木曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:二 村重の河内国との関係)

摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16も多々あった。
 永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
 その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
 こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
 信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
 河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
 それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
 その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
 一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19
 このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。


【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。





2015年3月11日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:一 摂津国統一過程と周辺環境)

荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。
 天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
 そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
 同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
 そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
 このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15
 織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。





2015年3月10日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:二 柴田勝家の場合)

織田信長は将軍義昭の追放を決して以降、独自に「天下」を掌握しようとした頃から、一職支配・守護補任をし始める。長岡(細川)藤孝に山城国桂川西岸地域の一職を与え、塙(原田)直政に山城・大和国の守護を与えている。直政の両国守護は、当時でも前代未聞としている。
 天正3年9月、信長は重臣の柴田勝家を越前国に封じた。その際、信長により「越前国掟条々」との朱印状を与え、織田政権下の一職支配において、統一権力としての支配原則とそれを委ねられた武将の関係を規定している。
 その中では、大綱をいくつかに分けて記されているが、特に第六条に「大国を預置」とし、それに対し「越前国之儀、多分柴田令覚悟候」とある事に脇田氏は注目している。これは、信長にとって越前国を柴田に預けたのであり、いつでも返却の義務を負うとの意味であるとしている。また、信長はかかる家臣への支配を、より強力にするために「目付」を置いている。
 しかし、一方で信長は、そういった任免権を完全に掌握しつつ、地域采配での一定の裁量権を柴田に与えている。これにより柴田は検地を行った上で、実際に知行の宛行いを執行する事も、一職支配には含まれていたと分析されている *14
 このように、一職支配下の地域においても信長が掌握しており、信長は上級土地所有権を確保しながら、政策の徹底管理をし、更に、人間関係をも規定して、管理不行き届きによる離脱や変転を未然に防ぐ策を講じていた。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(14)前掲註(5)、「二 統一権力と一職支配」(第三章 第一節)。





2015年3月9日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:一 守護と一職支配の関係)

織田政権における一職支配がどのように成立したのか、脇田氏の分析 *13を見ておきたい。
 織田信長が尾張国の支配者となったのは、永禄2年(1559)春、同族で同苗の信賢を降した時であった。これを以て信長は直ちに上洛し、将軍義輝に参勤して御礼を述べている。
 これは、信長が実力で一国の支配者となった事に対し、その権力の裏付けのために将軍の承認を求めたのであった。永禄11年秋、信長の上洛直前までの名乗りは、一国支配権としての尾張守護権継承であって、尾張国の正統な支配者としての地位を示すものであった。地域支配権としての一職は、守護ないし、守護に准ずるものと捉えられている事が明白であると分析されている。
 それから後、信長が京都において独自に政権を築く中でも、それと同様の概念が存続していたと考えられる。『信長公記』に「惣別、荒木ハ雖一僕之身に候、一年公方様御敵之砌、忠節申候に付て、摂津国一職に被仰付」とあり、荒木村重が「摂津守」を名乗り、摂津国を支配した事は明らかであるから、一職支配と守護の関係は密接であった。織田政権の一円知行は一職支配として記載され、それが守護権の継承である事も明らかである、と述べられている。
 また、実質的に村重が摂津国内を切り従える過程で、在地における複雑な土地所有、権利関係、領主・農民の階級関係は、領主からすれば安定的とは言えず、村重としては、より上級の強力な権力の保証が必須であり、織田政権による一職を必要としたとも考えられている。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(13)前掲註(6)、「一 一職支配と守護権」(第三章 第一節)。





2015年3月8日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:三 家数改め)

織田信長は、指出・検地と共に領国内で家数改めを行った。この家数改めは、直接百姓を人身的に把握しようと試みたものとされている *12。夫役(役務)徴発は、家数改めを基礎に行われた。
 家数改めは、支配領域拡大と共に順次実施され、近江国では永禄11年頃から数年かけて、河内国では天正4年頃に高屋城を中心とした南部方面で、また越前国等でも行われていたらしい。
 このような織田政権の領内の人身把握によって、様々な夫役が課せられた。出陣時の陣夫(兵としても)・建設用務や日常用務、竹・藁・縄などの供出があった。
 信長は、この家数改めについて一定基準を作りつつ領内の把握を行い、必要な要素を速やかに徴集した。また、地域を一職支配している柴田勝家などの武将もそれと同様に管理していた。



【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(12)前掲註(6)、「四 夫役徴収の実態」(第五章 第二節)。





2015年3月7日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:二 指出と検地)

脇田氏によると「戦国大名織田政権も領域内において、指出・検地を実施し、土地所有関係を整備したことは明らかである。」としている *10。その中で荒木村重が、織田政権に属していた頃のものを見てみたい。
 「指出」については、永禄11年に近江国安吉郷等、翌年に堺周辺地域、天正3年及び翌年に山城国狛氏所領等で行われている。「検地」は、元亀2年頃に伊勢国の神戸氏所領等、天正5年に越前国で行われた。
 そしてこの時の高表示は、貫高が伊勢国、石高が近江・山城・越前国となっている。因みに摂津国垂水西牧南郷の年貢についての記録 *11では、基本的には石高で、それを貫高換算して並記もしてある。
 さて、「指出」とはその名の通り、所有者・給人・一職者等により年貢高を指出し、織田政権としてこれを把握した後に再確認し、支配を行なっていた。これは、同時に複数関わっていた権利の錯綜を整理し、一元的に権力と結び付ける意図もあった。対して「検地」とは、縄打ち・竿入れ等といわれ、現地にて土地丈量を行うものである。随って、強権により在地に臨む事となる。
 両者はいわば、自己申告と強制調査のような感覚であるが、何れにしても収入を権力者に把握されるのだから、当事者にとってはかなりの抵抗感がある。中でも検地は、よほど時期を見極めなければならない、大変な政治事業である。
 しかしながら、この指出・検地は、富の収奪という面もあるが、権利の整理と把握が一体化した目的であり、是非とも行わなければならない政策であった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(10)前掲註(6)、「一 検地・指出の実施状況」(第三章 第二節)。
(11)「南都代官方算用状」等。『豊中市史』史料編 二。





2015年3月6日金曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:一 中世の石高と近世の石高の違い)

「石高」とはどんな定儀なのか、少し考えてみたい。石高制の一般的な把握は、米納年貢を基本とした「総生産」高で、これはまた正確な土地の測量と把握によって成されており、太閤検地を経た、徳川幕府による完成された政策という事が通念化しているように思われる。それがいわゆる近世と中世の特徴的な違いとして理解されているのであるが、その石高の概念は突然現れたものではない。時代により、意味合いを変えて存在したのである。
 当然、石高は中世にも概念はあり、それについて脇田氏は「則ち石高は米作を行わない畑、屋敷を含めて算定され、また農村・都市を問わず実施されている。その際、石高は米の生産高といいながら、現実の生産高ではなくて、町場における石高は、純農村部より高く、大坂では反当り4石2斗となっている。随って石高は、米の生産高に一定の社会的富を考慮して決定されたものといわれるのである。」と述べている *9。また、同氏は「つまり石高自体が米の生産高を基準としつつも、社会的富の表現であり、使用価値としてのみではなく、商品価値を有するものとして実現していたのではないか。」ともしている。
 この事は勿論、近世においても同様の理解と算定がなされていた部分もあると思うが、中世から近世への過渡期、織田信長の登場で、その複雑な富の権利関係を権力側にひき寄せる試みがなされ、それが軍事・経済的優位をも生み、中世的世界を抱える戦国大名を圧倒していった。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(9)前掲註(5)、「第一節 石高制における石の性格」(第一章)。





2015年3月5日木曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:四 軍事政策)

「兵農分離」という言葉と織田信長という人物名は、親密でもある。兵農分離とは単に、兵と農との職種を分けるためではなく、上位への権力集中の意図があり、その事は命令行動の効率化や速応体制の構築をも目的としていたらしい *8。これは数だけの軍事力では無い、体質強化への改革でもあった。
 それは封建社会においての基底的な関係でもある土地所有関係、一職権利関係、人身的従属が錯綜し、常に動揺していた事に対する身分社会の再構築でもあった。それからまた、それまでの動揺の中で常に見られた、領主層の一揆への加担やそのための分裂等について、それらの関係性を断ち、上級権力へ軍事力を集中させる試みが、兵農分離の根本概念であったとされている。
 それ故に、あらゆる階級層・身分で、規定の再編・厳格化が進められ、所有関係・役負担体系の再編となり、兵農の他、商農などの分離も行われた。これは、軍と非軍の正確な把握となり、全体の価値、いわば国力の把握にもなり、やがて個別政策によって全体の効率化にも繋がった。
 信長は、そうやって編成された軍を持つ家臣団を城下町に集住させ、統制によって効果的な武力利用を行っていた訳である。同時代には日本各地で同様の傾向にはあったと思われるが、その本質は、織田領国内のそれと大きく違っていた。
 後に信長の領国は急拡大するが、基本方針を守りながら情況に応じて変化・拡大させ、再編を繰り返し行った。そして地域の担当武将などによって、諸施策を忠実に実行させる独自の仕組みを構築した。信長は、その管理者としても独創的であった。



【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(8)前掲註(5)、「第一節 兵農分離の実現」(第三章)。





2015年3月4日水曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)

織田政権の支配地域では、国毎に貫や石の高表示が存在していた。これは、当時の市場と地域の事情もあり、それを容認していた事にもなる。
 中世においては、荘園年貢の代銭納が発達しており、それは遠隔地からの現物輪送の困難さにも起因していた。また、室町中期以降、畿内近国は首都市場圏ともいわれる巨大なマーケットとなっており、全国の市場の中心的地位を占めていた。
 例えば、応永14年(1407)と翌年の山科家財政状況が分析 *5されている。この年貢の大部分は代銭納であるが、美濃・紀伊・丹波・播磨など畿内近国は現物納が行われている。このように遠隔地からは代銭納を行わせ、畿内・近国からは現物で収納させているのは、京都での年貢物販売と交換による、地域差からの利潤も含める仕組みができ上がっていたためでもある。こういった流通経済の情況を前提として、自己の所領を統一的に表し、「高」の掌握を行った。
 織田政権は、尾張・美濃・伊勢において、貫高を採用していた。これに対し、石高を採用していたのは、京都を中心とする首都市場圏で、それは米を主とする高表示となっていた *6
 それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した *7
 この政令のため京都へ米が入らず、市場が混乱。この事は、米に内包された商品価値による「貨幣」的性格を現していると考えられている。また、信長の本拠であった岐阜では、この撰銭令が特に厳格に行われた事もあって悪銭が集中、商売が停止してしまう事態ともなっていた。
 信長による撰銭令は、金銀銭の規定など経済政策を多面的に展開して、問題解決を図ろうとしたが、流通経済においては混乱を招いただけに終った。
 随って、この撰銭令は貫徹されず、結局、米による取引がなされるようになり、織田政権はこれを容認せざるを得なくなる。その伝統的・社会的に安定した価値は、確実な流通手段となっていたのである。元々首都市場圏の発達において、米の商品化は進んでおり、それが畿内近国における「石」高の基盤になったと考えられている。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(7)前掲註(5)、「二 銭と米の流通」(第一章 第一節)。





2015年3月3日火曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:二 信長の社会的地位)

永禄11年秋の入洛後、信長は、幕府・朝廷からの役職・官位授与を固辞し続けていたが、元亀4年(天正元)に将軍義昭が京都を落ちた後、その方針を変える事となった。
 信長は、義昭の子息義尋(よしひろ)を庇護・推戴しつつ、天正2年3月18日に参議・従三位となり、以後、年毎に昇進する。翌年11月、権大納言・右大将に任官し、この時点で自ら開幕可能な地位(元亀4年7月時点の義昭は、権大納言・征夷大将軍・従三位。)に就いた。これにより、室町幕府から自立する土台ができ、公にもその事を喧伝する事となった *3
 因みに、信長はこの年7月、官位昇進の勅諚を一旦辞退したが、一方で勅許を願い出、主立った家臣へ惟任・惟住・原田等九州の名族の称を各々に与えている *4。もしかすると村重の「摂津守」の正式な名乗りも、これに関係したものかもしれない。
 また、同年に信長は、家督を嫡男信忠に譲ってもおり、この年は織田政権にとっての画期であった。そして同6年正月、信長は正二位に昇った。
 この信長の、将軍義昭追放後からの積極的な任官は、京都という全国市場の中枢支配において、有利な現実があったためと考えられている。また、次第に信長は、武家としての強力な政権を築いたが、その決定的な力を持ちつつも公家や寺社の否認に使わず、保護を行った。このために用いるべく術(方法)として、任官も大きく役立ったらしい。



【註】
(3)藤田達生「室町幕府体制との決別」『本能寺の変の群像(中世と近世の相克)』雄山閣出版(第一章 4)。
(4)前掲註(1)、「一 薩摩下向の目的」(第一部 第三章)。





2015年3月2日月曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:一 基本政策)

最近の研究では「天下布武」の印を使用するようになったのは永禄10年とされ、織田信長はその頃から、領国の外側にも意識の概念を形成するようになったようである。
 その2年前、京都では13代室町将軍義輝が、三好義継等によって殺害される政変が起きていた。そして間もなく、互いに足利の後継たる正統を掲げて、義栄と義昭が家督を争った。
 中でも義昭は、義輝の実弟でありながらも思うように事が運ばなかったが、その実現が危ぶまれたところで信長と出合い、一気に入洛を果した。そしてまた信長も義昭との出合いの中で、自らの構想に現実性を帯び、直ちに実行した。
 更に、この信長の行動を支えたもう一つの要素として、織田家の朝廷との関係もあげられている。この二大要素が、信長への強力な求心力となり、天下布武印の使用も含めて「侍」結集の論理となったようである。
 信長は、永禄11年秋の入洛について、朝廷から奉書を受けた事も理由に含めており、元々複数の大義を一体化させていた。彼は上洛途上、近江国内に入ると、それまでの名乗りである「尾張守」という地域覇者から「弾正忠」という、朝廷をより意識した位階に変えている。これは社会的身分を下げてまでも自らの想いを実行 *1しているのである。
 また、将軍義昭政権を樹立直後、直ちに禁中修理と将軍の新第を築造する工事に取りかかった。これについて信長は、21カ国の諸大名・諸将に宛てて触れ状を発給し、従わなければ公武の命に背くものとして討伐する意を示した。
 橋本氏によるとこれは、永禄12年1月14日に、信長から将軍義昭へ提出された「室町幕府殿中掟」とその追加条項とも連動しており、諸大名には将軍義昭へ臣従させながらも、その将軍義昭には朝廷への忠勤を疎かにさせないよう特に規定する事で、諸大名の将軍への一極的従属性に制限をも設けるという、信長権力の位置と威勢を示したものであるとしている *2
 後に天下統一について信長は、手法の違い等から将軍義昭と対立したが、結局は打ち勝って、朝廷との関係を更に深めて行く事となった。やがて、自らの天下の構想について信長は、厳格に規定して制度をも作り上げていった。


【註】
(1)橋本政宣「二 織豊政権と朝廷」『近世公家社会の研究』吉川弘文館(終章)。
(2)前掲註(1)、「一 信長の禁中修理と二つの文書」(第二部 第一章)。




2015年3月1日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(序文)

個人的に本会会員のM.A.氏と親しく、色々と意見交換する中で、会報『村重』創刊号の「熊本県荒尾市の荒木氏系図」の話題となり、お手持ち分から該当項を送って頂いた。
 その中の史料で、織田信長が天正3年11月付けで、摂津・河内国内に都合40万石を荒木村重へ宛て行うとした朱印状(以下、荒尾市荒木家文書と表記)に興味を持った。但し、同じくM.A.氏提供の同文書の写真を見ると、月付けは11月では無く、2月である事が判明した。
 そしてまたこの伝承文書については、同文中で見解が示されており、「これは朱印が薄くはっきりしなかった。もうひとつは宛行状の文面にある「四十万石」が、当時のものとしては問題がありそうだということであった。これはそうであろうと思われる。つまり、この頃は近世のように検地による正確な測量が行われていないので、小規模な丈量はしても、大規模な領知を石高によってあらわすことはしなかったと考えられる。」とある。
 しかしながら、「このような問題はあるが、荒木氏に関する文書が同家に伝わった事については、何らかの大きな意味があるはずである。」と完全に否定できない背景や、何らかの可能性があるとの考えも添えられている。

信長文書としての真偽の吟味は別として、筆者もまた、この荒尾市荒木家文書について、内容の成立環境が整っていた可能性があり、人間的信用や当時の社会的契約としても、妥当な事実が存在した痕跡ではないかと考えてみた。
 また、今回はこれまでのように個人研究の中から探求する方法に加え、既に専門家の詳細な研究が存在する事から、それらを組み合わせて紹介する事で、限られた字数によって大きなテーマを考察するには効果的であると考えた。以下、脇田修氏や橋本政信氏の論文を中心に取り上げながら、その根拠を述べてみたい。






2015年2月28日土曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(はじめに)

当時、私が会員であった荒木村重研究会会報に載せるべく、荒木村重が摂津国及び河内北半国も領有(40万石)した事について「荒尾市荒木家に伝わる信長朱印状の一考察」と題して書いた原稿です。結局この原稿はボツになりましたので、多くの皆様の批評を受けたく思い、ネット上に公開する事に致しました。平成22年(2010)秋頃に発行された10号会報用になる筈だった原稿です。また、その後に調べのついた事柄なども若干補足して公開した行く思います。
※今は村重研究会に所属していません。

以下の項目で論を展開しています。

序文
◎第一章 天正三年頃までの織田信長の政治
 一 基本政策
 二 信長の社会的地位
 三 経済政策
 四 軍事政策
◎第二章 検地について
 一 中世の石高と近世の石高の違い
 二 指出と検地
 三 家数改め
◎第三章 信長の領国統治体制
 一 守護と一職支配の関係
 二 柴田勝家の場合
◎第四章 織田政権での荒木村重
 一 摂津国統一過程と周辺環境
 二 村重の河内国との関係
おわりに
◎備考
 『荒尾市荒木家』の翻刻




2015年2月27日金曜日

永禄12年の但馬山名氏攻めと播磨国攻め従軍(はじめに)

永禄11年秋、足利義昭の要請に応じた織田信長を伴って入京し、第十五代室町将軍に任ぜられると、翌年から早速、政権の基盤作りを精力的に行います。
 摂津国内最有力の勢力であった池田衆は、京畿政治の中でも中心的役割を担うに足る実力を持ち、幕府からも頼りにされていました。
 正式に義昭政権が発足すると、様々な依頼も幕府に寄せられるようになり、幕府自体は決して安定しているとは言えない中でも、政権支持勢力をできるだけ取り込む、繋ぎ止めるためにもそれらに応える必要がありました。とりわけ、西国方面は常に乱れ、安定しませんでした。
 これに対応するために、街道でつながり、播磨方面とも決して浅くない関係を持つ池田家をその任に就かせたようです。池田家は守護家ですので、幕府の播磨への窓口ともいえるかもしれません。
 それらについて、以下の項目を上げ、考えてみたいと思います。
 

(1)池田勝正の播磨国担当
(2)但馬国山名氏攻めへの池田衆従軍
(3)幕府方と毛利氏との協力関係
(4)龍野赤松氏救援作戦従軍
(5)瀬戸内海北岸の三好三人衆勢力の掃討
(6)幕府による第一・第二次播磨国侵攻作戦について




2015年2月22日日曜日

永禄10年の大仏焼失と池田勝正の奈良出陣(はじめに)

永禄10年(1566)10月10日、奈良の大仏が、松永久秀と三好三人衆との闘争(戦争)の只中に焼け落ちます。これは多くの人が知る事実です。また、この大仏の焼失について、久秀が焼いたとする説も今に伝わっています。これも有名な逸話です。
 この時、大仏のある回廊に陣を取り、その焼け落ちる様を池田勝正は見ていました。しかし、この事実はあまり伝えられていません。
 大仏焼失に至るまでの動き、また、その当日の詳しい動きを、池田勝正を中心にご紹介したいと思います。以下の項目に分けてご案内します。


(1)三好長慶の死後に家中が分裂
(2)池田勝正の三好三人衆方への加勢
(3)三好三人衆勢、河内国を制して大和国へ侵攻
(4)奈良多聞山城の攻防戦
(5)大仏焼失と松永方にとっての一時的な戦況好転
(6)堅城多聞山城落城



2015年2月20日金曜日

荒木村重も関わった、当主池田筑後守勝正追放のクーデター(その7.1:池田勝正追放後に別の当主を立てたか「続報」)

同テーマ内のその7「池田勝正追放後に別の当主を立てたか」でも提起した概念ですが、その続報です。
 その7での記事中でご紹介しました、史料3から5までの署名者である民部丞某は、同一人物である事が、判明しました。それら全ての花押が一致しました。再度、以下にその史料を掲示します。

-(参考史料1)-------------------------
◎史料3:元亀元年7月付けで、民部丞某が山城国大山崎惣中へ宛てた禁制
※島本町史(史料編)P443など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料4:元亀元年9月付けで、民部丞某が摂津国多田院へ宛てた禁制
※川西市史4(資料編1)P456など
一、当手軍勢甲乙人等乱坊狼藉事、一、山林竹木剪り採りの事、一、矢銭・兵糧米相懸くる事、一、門前並びに寺領分放火の事、一、寺家中陣取りの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩之在る於者、速やかに厳科に処すべく者也。仍て件の如し。

◎史料5:元亀元年11月5日付けで、民部丞が摂津国箕面寺に宛てた禁制
※箕面市史(資料編2)P414
一、山林剪り採り之事、付きたり所々散在の者盗み剪り事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の漁猟制する事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨に背く輩於者、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定むる所件の如し。
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それで、同じく、その7の記事でご紹介しました史料1に登場する民部丞ですが、この人物と既出の参考史料3から5で署名している民部丞なる人物とは、同一ではないかとの可能性は高くなるように思います。

-(参考史料2)-------------------------
◎史料1:元亀3年らしき11月6日付け、将軍義昭の上野中務大輔秀政へ宛てた御内書
※高知県史(古代中世史料)P652、戦国期三好政権の研究P98
今度池田民部丞召し出し候上者、(同苗筑後守)勝正身上事一切許容能わず匆(而?)詠歎に及ぶの由沙汰の限りと驚き思し召し候。曽ち以て表裏無き事之候エバ、右偽るに於いて者、八幡大菩薩・春日大明神照鑑有りて、其の罰遁るべからず候。此の通り慥かに申し聞かすべき者也。
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ただ、それらの史料の人物を、同一として完全一致させる断定的証拠も今のところ無いため、慎重に扱う必要はありますが、史料3から5の民部丞の署名が一致した事で、その可能性としては極めて高くなったといえます。
 それからちなみに、この民部丞の禁制に関する副状も見当たらない事から、自立的な強い権力保持者だったかもしれません。

元亀3年冬の時点で、池田一族衆が民部丞を当主に再び立て、将軍義昭へ加担する事を申し出たとすれば、その後の池田衆としての動きは、民部丞に焦点をあてて行く事になります。
 将軍義昭と織田信長が不和となり、双方は京都で争います。この時の記録に摂津池田衆の動きが様々な史料に頻出します。これについては、追々詳しくご紹介するつもりです。
 史料上で、民部丞のある程度の行動が明らかになった事で、それまでバラバラに存在していた要素が繋がって、道筋がつけられるようになったのは、一歩前進です。
 
ただ、克服すべき課題もまだあります。以下に箇条書きにしてみます。

◎民部丞の元亀2〜3年夏までの史料上の動きが見られない。
◎池田一族が、上記参考史料2の中で将軍義昭に伝えた民部丞なる人物と同参考史料1の資料群に署名している民部丞なる人物との一致は、完全に結びつける史料は今のところ無い。
◎民部丞の池田家中での地位や活動が不明である。
◎民部丞と池田知正との関係が、否定も肯定もできない。

これらの課題を抱えていますので、花押の一致が先入観にならないよう、慎重に民部丞の行動をこれからも史料で追いたいと思います。
 一方で、民部丞が池田家に関連すると見られる状況証拠もあります。禁制の内容を見比べてみます。池田家と関係の深い箕面寺に対して下した、歴代池田当主とその後に摂津守護格となった荒木村重の禁制を見てみます。
 先ずは、天文20年5月付け、池田(右)兵衛尉長正が下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P411

-(史料1)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、内の河持ち制するの事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯の輩於者、制す物取られるべく候。尚以て是非及はば、成敗加え罪科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
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続いて池田八郎三郎勝正が、永禄7年2月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P413

-(史料2)-------------------------
一、山林伐り事に付き所々散在者盗み剪る事、一、参詣衆地下山内於役所取る事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若し此の旨背き輩あ、則ち成敗加え厳科に処すべく者也。仍て定め所件の如し。
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時代が代わって、ここから以下は荒木摂津守村重が、天正3年11月付けで下した禁制です。
※箕面市史(資料編2)P414

-(史料3)-------------------------
一、山林竹木剪り取り事付き所々散在盗み剪り事、一、寺家寺領於新儀非例申し懸け事、一、制内漁猟事、右条々堅く停止せしめ了ぬ。若しこの旨相背き輩在り之於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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上記史料3についての副状です。荒木村重一族同苗平大夫重堅が、天正3年11月26日付けで当郡中所々散在に宛てた音信(折紙)です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料4)-------------------------
箕面寺山林盗み取りの者、所々散在言語道断状事候。先規筋目を以って彼の寺へ村重御制札出し置かれの間、堅く停止為すべくの旨候。万一異儀於者成敗加えるべく由候也。仍て件の如し。
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同じく村重の、天正3年11月26日付け音信です。
※箕面市史(資料編2)P414、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料5)-------------------------
一、当寺両座の間、先規の如く仰せ付けられるべく事、一、寺役等同前為すべく事、一、諸事寺法堅固に仰せ付けられるべき事、右条々寺家法度に任せ申し付けられるべく候。若し、相背かれ族之在る於者、堅く寺中仰せ付け為されるべく候。仍て件の如し。
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上記史料5についての副状です。荒木重堅が、天正3年11月26日付けで箕面寺年預御坊参御同宿中に宛てた音信です。
※箕面市史(資料編2)P415、伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P28

-(史料6)-------------------------
御寺家御法度儀に付きて摂津守一書相調え入れせしめ候。各有様為に仰せ付けられるべく候。万一異儀申され仁之在り於者、この方へ仰せ越されるべく候。堅く申すべく候。恐々謹言。
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この箕面寺は、池田家とも縁の深い寺で、政治的な画期では必ず音信し、確認事項を交わすなどしています。また、禁制は全て直状形式です。直状は、当主自らが発行する形式で、文末が「仍て件の如し」となっています。
 池田一族が没落すると、代わって台頭してきた荒木村重が音信しています。村重と箕面寺は村重の池田家中時代から既知の仲でしたので、再確認とった音信といえます。基本的な事は踏襲し、もし不都合があれば調整するともいっています。
 それから内容では、箕面寺の自治権も認めているようです。それ以前と少し違う感じがするのは、「摂津守(村重)統治下での」といったところが明らかにされているところです。
 
さて、話しを池田家統治下に戻します。

そのように箕面寺へ宛てて下された禁制の内容は、前例を踏襲されていて、それを発行できる事自体が、権限の継承と考えられますので、長正から民部丞までは、そういった流れがあったと考えられます。
 そこで視点を少し変えて、江戸時代に書かれた『荒木略記』という伝承資料を見てみます。
※伊丹資料叢書4(荒木村重史料)P2

-(伝承資料1)-------------------------
「荒木略記」荒木信濃守条:
(前略)。然る所に池田勝正作法悪しく、武勇も優れ申さず。右に申し候桂川合戦の時も家来は手柄共仕り候に打ち捨て、丹波路を一人落ち申され候。か様の体にては、池田を和田伊賀守・伊丹兵庫頭に取られ申すべく事治定に候間、勝正を牢人させ、その子息直正と申し候を取り立て、大将に仕るべくとて、勝正の侍大将仕り候池田久左衛門尉(後に備後守と申し候)を取り入れ、荒木一家中川瀬兵衛尉清秀相談にて勝正を追い出し、直正を取り立て候所に、直正猶以て悪人に候に付き、此の上は大将に仕るべく者無く候間、荒木一家瀬兵衛尉清秀・池田備後守申し合わせ、(後略)。
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続いて、『陰徳太平記』という伝承資料を見てみます。
※陰徳太平記4-P53 (米原正義校注)

-(伝承資料2)-------------------------
「陰徳太平記」三好勢摂州渡海之事:
(前略)。かかりける所に、池田勝正は、元亀元年6月18日、同名豊後守、同周防守2人を生害させて、其の身は何国(いずくに)共なく出奔せり。さるに因りて跡に残る池田の一門、並びに家老諸士等十方(とほう)に暗(く)れて居たりければ、為方(せんかた)なうして頓(やが)て阿波国へ使いを遣わし、御味方に参るべく候間、不日に御渡海候へと云い送る。(後略)。
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こういった伝承にも元亀元年6月の池田家内訌の事が取り上げられているのですが、『荒木略記』には、勝正を追放した後に、別の当主を立てたとあります。
 これまで(というか今でも)、伝承資料は信用性が低いとして、始めから相手にされない傾向にありますが、その割には都合よく引用される事が多々あります。
 しかし、平成の世である今、そんな事をいつまでも続けてよいとは、個人的には考えていません。どの程度正確に伝えているのかも測るべきだと思います。自分で調べてみて感じる事は、何よりも、現に、ある程度の方向性は正しい場合が多いです。これらの事を現代風に例えるなら、伝承資料とは「証言」と捉えてもいいのではないかと思います。

この元亀元年6月の池田家内訌について、上記の2つの伝承資料は、正確に伝えています。細部に若干の「狂い」はありますが、現存している他の史料を丹念に見れば、それらしき動きをしている人物が確認できました。それが「民部丞」に関する史料群です。

今のところ、完全一致という訳ではありませんが、手掛かりとするには非常に有力な要素と思います。ですので、始めに少し触れました、元亀4年の将軍義昭と織田信長の京都での闘争について、池田衆の動きの輪郭を示す事ができるようになります。
 私自身も、その頃の池田家中の核がどこにあるのかが掴めなかった事から、理解が混乱していたのですが、上記の想定の下で、再度見直していきたいと思います。
 
結論としては、元亀元年6月の池田家内訌で、勝正を追放した直後、伝承資料通りに池田家中は、一旦、新たな当主を立てたと考えられます。






2015年2月13日金曜日

白井河原合戦についての研究

白井河原合戦は、京都の中央政権を研究する上でも非常に重要な出来事だと思いますが、地方豪族の私闘のように概念付けされ、どちらかというと、歴史的な位置付けとしては軽んじられている現状にあるかと思います。
 白井河原合戦の何が重要で、どんな事が起きていたかという事を以下にご紹介していきたいと思います。シリーズで書いたものや随筆として書いたものもありますが、それらを以下にまとめます。ご興味のある方は、是非ご一読下さい。
 
<シリーズでの研究>
白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)
白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)
白井河原合戦に至るまで(その3:合戦の頃の周辺戦況と関連性)
白井河原合戦に至るまで(その4 完結:合戦の意味を考える)

キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その1:日本側に残る資料群)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その2:ルイス・フロイスの残した資料について)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その3:ルイス・フロイスが残した記録の誤訳部分を確認する)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その4:完結)
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その5:補遺1 (和田惟政が鉄砲隊に銃撃されたのは、宿久庄村付近か))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その6:補遺2 (最近の研究結果から白井河原合戦に関する情報を拾い上げてみる))
キリシタン武将高山右近と白井河原合戦(その7:補遺3 (幣久良山とその周辺の要害性について))


<別シリーズで取り上げた一項目として>
三好為三と三好下野守と摂津池田家の関係(その5:白井河原合戦と三好為三を巡る動き)
摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)


<随筆>
元亀2年の白井河原合戦について
和田惟政、決戦のため幣久良山に陣を取る
白井河原合戦前夜
元亀2年8月28日の白井河原合戦の事
8月29日の白井河原合戦
宣教師ルイス・フロイスの記述に登場する、河内国讃良郡の三箇城
441年前の今日、池田衆が3,000の兵を率いて白井河原へ出陣
旧暦8月28日は、現在のカレンダーでいうと10月13日です。
白井河原合戦にも従軍した藤井加賀守について



2015年2月11日水曜日

戦国時代の交通・流通(はじめに)

私は、摂津守護池田筑後守勝正について研究していますが、彼が活動した室町時代末期には流通もかなり発達していました。
 そのため、様々な交通手段やそれに関わる組織、経済、手段、規制(法)、整備、管理、地形などなど様々な要素が社会の中で概念化されていました。

人間(個人)は社会に属し、生きるために活動しますので、当然、移動を伴います。陸路・海(川)路を使います。それらがどうなっていて、当時利用され、認知されていたのかを知りたいと思い、これらの分野についても調べたりしています。
 気付いたり、見えてきた事を少しずつ記事にしていきたいと思います。特に近畿周辺の事になると思いますが、ご興味のある方はどうぞご参照下さい。


追伸:この分野に興味を持って、現地の見学に行ったりすると、皇太子殿下が訪ねられた時の写真が飾ってあったり、記念碑が建てられていたりすることが多いので、現地の人に聞いてみました。
 すると、皇太子殿下は歴代の皇族の方々の研究分野は植物系が多いけども、皇太子殿下については、中世の水運や交通についてご研究されているとの事でした。それを聞くと、急に皇室が身近になったような気もしました。なんだか、ちょっと嬉しくなるような感情もあり、思わぬ新発見でした。


河内(枚方)街道について



摂津池田家の領域支配(元亀2年の白井河原合戦についての動きから見る)

今も戦国時代も「お金」です。それのみで社会は構成されていませんが、やっぱりお金は、生活する上で重要な要素である事は、現代社会と同じです。ただ、戦国時代と現代との違いは、問題解決に武力行使を含めて解決するかどうか、です。
 そんなお金の事について、摂津池田家が、どのように収入を得ていたのかを考えてみたいと思います。ちょっとした経済学みたいなものですので、全てを網羅するのは難しいですが、少しずつ記事にしてご紹介するつもりです。

元亀2年(1571)の8月28日に、摂津池田家と和田伊賀守惟政が白井河原合戦(現茨木市郡付近)を行います。これに関連して興味深い動きがあります。
 白井河原合戦に至るまでには伏線があり、幕府方の和田惟政が同伊丹忠親と共に池田領へ侵攻します。特に和田勢は幕府からの支援も得て(というか幕府として)、千里丘陵の南北から攻め込んでいます。5月から8月上旬にかけて、特に南に力を割いて侵攻し、豊嶋郡の中南部を占領し、瀬川の南側辺りまで進みます。
豊中市小曽根に残る今西家
豊嶋郡中南部には、春日社の目代今西家があり、その管理地がある所です。ここは摂津池田家にとっても代官請けを任されている場所であり、重要な収入源のひとつです。
 元亀2年5月から8月の動きは、攻められる三好三人衆方池田家にとっては、重要な地域が切り取られる深刻な事態です。これは解りやすい明確な状況です。
 しかし一方で、元の摂津池田家当主で、幕府方武将としての池田勝正が、7月から8月にかけて、この地域に入っている事は明らかです。細川藤孝・三淵藤英と共に池田城周辺をも攻撃しています。
 そんな中、三淵藤英が春日社目代今西家へ宛てて禁制を下しています。永年の池田家との関係がありながらも、前年まで池田家当主であった池田勝正に禁制を求める事なく、南郷社家目代(今西家)は、7月26日付けで三淵から禁制を受けています。
※新修豊中市史(古文書・古記録)P273、豊中市史(史料編1)P122

-(史料1)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱妨狼藉之事、一、竹木剪り採り之事、付き立ち毛(農作物)苅り取り事、一、非分課役相懸け事、付き寄宿免除事、放火事、右堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯之輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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そして、それには副状というか、附則のような補足の約束が付けられ、今西家に対して特別な配慮がされています。今西氏も判断に迷い、護るべきものへの憂慮を深めて、苦渋した事でしょう。7月26日付けで、三淵が春日社目代へ宛てて判物を下しています。
※豊中市史(史料編1)P123

-(史料2)-------------------------
御土居屋敷(今西屋敷)の儀、往古従り陣無きの由候。只今の儀者日暮れの間、向後之引き懸け成すべからず候。恐々謹言。
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三淵が、禁制と判物を今西家に下す前、和田惟政が「摂州豊嶋郡桜塚善光寺内牛頭天王(現原田神社)」に宛てて、禁制を6月23日付けで下しています。今西家への禁制と内容(項目)は同じです。
 ちなみに、和田から三淵にこの地域の主将が変わっているのは、和田は大和方面への対応も行っていたためで、7月頃は奈良へも出陣して、筒井順慶などの支援を行っています。
※豊中市史(史料編1)P122、高槻市史3(史料編1)P432

-(史料3)-------------------------
一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉事、一、陣取り放火事、一、山林竹木剪り採り事、右條々堅く停止せしめ了ぬ。若し違犯輩於者、厳科に処すべく者也。仍って件の如し。
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現在の原田神社
さてしかし、これらの規範概念に附則を加えて、三淵は今西家に配慮している訳です。今西家にとっては、これまで永い間に渡って代官請の契約をしていた池田家が分裂し、敵味方となって争っているのですから、判断に迷うのは当然でしょう。しかも、それが自分の管理地内で起きている訳です。
 そして三淵が7月26日に禁制を発行した僅か6日後の8月1日付けで、新項目を加えて、三淵が新たな禁制を摂津豊嶋郡牛頭天王(現原田神社:大阪府豊中市中桜塚)へ宛てて発行しています。
 陣取りについての不測の事態を警戒しているようで、これらを正式に条文に入れるよう、今西家の周辺地域からも要望が出されていた事が判ります。
※豊中市史(史料編1)P122、新修豊中市史(古文書・古記録)P273

-(史料4)-------------------------
一、軍勢甲乙人乱入、一、狼藉事、一、竹木剪り採り事、一、陣取りに付き殺生の事、一、矢銭・兵糧米相懸け以下非分課役事、一、国質・所質請け取り沙汰事、一、敵味方選らずべく事、右条々堅く停止され了ぬ。若し違犯の輩於者、厳科に処すべく者也。仍て件の如し。
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史料4の最後の条文、一、敵味方選らずべく事、とは、戦争に巻き込まれる事を何としても避けたいとの意思が伝わってきます。

一方、この場に確実に居た池田勝正についてですが、今西家はなぜ勝正に禁制を求めなかったかというと、一般的には、実効性が低いと見たためという方向性で考えるでしょう。
 しかし、その一番の原因は、この時の幕府(織田信長)による、地域利権の整理(経済政策)の動きが大きく作用しているとも考えられます。多分これは、幕府が一旦、池田家の領地を接収したものと考えられます。
 幕府が制圧し、その地域を欠所として接収し、その後に幕府が認めた権利というカタチで給分を然るべき者に下します。これは複雑で不安定な権利の整理を行い、中央集権的に管理を強化する政策です。

もし、白井河原合戦が和田惟政の勝利となり、垂水庄が幕府方に占領されていれば、勝正が再びこの地を幕府より与えられていた事でしょう。
 8月2日、池田城に対する相城(原田城などを再利用か)へ池田勝正が入ったのは、そういう意味があったと思われます。
※大日本史料10編之6-P701(元亀2年記)

-(史料5)-------------------------
『元亀2年記』8月2日条:
晴、晩雨、細川兵部大輔藤孝帰陣、池田表相働き押し詰め放火云々。相城原田表に付けられ、池田筑後守勝正入城。
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明治時代頃の原田城跡の様子
原田地域は、伊丹・吹田との連絡のために非常に重要な場所で、伊丹城へは手旗や光(鏡)、狼煙などで連絡が可能です。目視も十分にでき、戦前の軍事演習では、原田の丘陵から手旗で伊丹方面の友軍に連絡をしていたようです。幕府方は地縁のある勝正がここを守るのは適任と考えたのでしょう。もちろん、原田地域の有力者であった、原田氏とその関係者もそこには多く居ます。
 勝正と行動を共にしていた細川藤孝は、事態を楽観的に捉えていたようで、勝正と別れて勝龍寺城に戻り、翌日には歌会に出座したりしています。史料を見ても、確かに幕府方が有利で、そういう判断をしたのも無理はありません。
 しかし、三好三人衆方池田家は、この頃に着々と反撃の準備を行っていた事もまた、事実です。
 
さて、この時期の池田家は、どちらにしても、上位権力の体制内での勢力となってしまいますから、その上位政権の政策や意思に従う事になります。
 将軍義昭・織田信長政権についての政策研究は、脇田修氏や橋本政信氏の研究をお読み頂ければと思います。大変詳細に分析されていて、興味深い概念提示がされています。私はその説に大いに影響を受けています。

摂津池田家に対する領地の接収は、この時が始めてではありません。それらは追々ご紹介しますが、池田家が将軍義昭政権下に入ってから度々あり、それに耐えきれなくなった池田家中が、当主勝正に不満を抱き、内訌に至ったものと考えられます。
 尤も、その一点では無く、いくつかの要素があっての内訌理由ですが、不満の火種は経済問題であった割合が大きかったと思われます。生活が圧迫される、景気が悪くなる事は、解りやすい大きな問題である事は、今も昔も変わりませんから。





2015年1月13日火曜日

摂津池田家についての発表会 続報

来月の8日に予定されています、私の摂津池田家についての研究発表会ですが、会場が決まりましたのでお知らせします。 ご興味のある方は、是非お越し下さい。
※私も会員なのですが、池田郷土史学会様では、会員も募集中です。年会費3,000円です。

とき:平成27年2月8日 13:30〜15:00
ところ:池田コミュニティーセンター 栄本町 2皆
テーマ:「池田氏の内紛と白井河原合戦」
主催: 池田郷土史学会様 第629会例会
費用:一般 700円 会員 500円 (レジュメあり)