2013年8月29日木曜日

1571年(元亀2)8月29日の白井河原合戦

前日の28日、白井河原での合戦で、大将の和田伊賀守惟政が戦死し、勝敗が決まりました。その様子をルイス・フロイスの『日本史』-和田殿が司祭とキリシタンに示した寵愛、ならびにその不運な死去について-から抜粋してみましょう。要素を箇条書きにしてみます。

  • 和田殿の息子(惟長)は、父の破局に接しますと、後戻りをし、僅かばかりの家臣を率い、急遽高槻城に帰ってしまいました。なぜなら、残りの兵卒達は、奉行、並びにもっとも身分の高い人々が彼と共に戦死した事を耳にすると、早速あちらこちらへ分散してしまい、彼に伴った者達も同じく分散してしまいました。
  • (フロイスが遣わした都からの家僕が)、高槻城に達した時には、そこに奉行の息子が敗北し、退去して入城していた事を私達に報告しました。
  • ミサが終わった時、私達はそこから(河内国讃良郡三箇)銃声を聞き、1〜2時間程の間、高槻辺り一帯が燃え上がるのを見ましたが、私達はそれが何であるかは知る由もありませんでした。
  • 奉行(惟政)の首級は、すべての他の殿達の首級と共に、直ちに彼の高槻城下にもたらされました。そしてそこへは各地から和田殿の敵達が挙って駆けつけ、大きな歓声を上げて、この度の(私達にとっての)不幸な出来事を祝いました。2日2晩に渡って、彼らは和田殿領内の、ほとんどすべての町村を焼却・破壊し、そして高槻城を包囲し始めました。

高槻城跡公園
これらの記述を見ると、合戦は28日午後には大方の勝敗がつき、和田惟政の息子惟長は高槻城に戻っていたようです。
 勝ちに乗じた池田勢は、そのまま東進をはじめ、周辺の和田方の城や集落を攻め始めたようです。白井河原のあたりには、福井・安威・太田・茨木などの城が半里(2キロメートル)程の距離にあります。広い範囲で戦が行われていましたので、記録では、西河原合戦とか、郡山合戦などと記されたものを見かけます。伝承記録は特に、バラツキがあります。

そして間もなく池田勢は、安威川・女瀬川・芥川を越えて進み、高槻城まで攻めるようになります。実際のところ、高槻城に至るまでには、「2日2晩」など数日かかったようです。
 池田勢は、高槻の城下で、討ち捕った和田惟政や主立った人物の首を掲げます。確かに死んだという事実を相手に見せた訳です。

さて、白井河原合戦に関する別の記録を見てみると、興味深い記述があります。この内『言継卿記』8月28日条を見てみましょう。

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戌午、天晴、時正、(前略)。摂津国於郡山於(衍?)軍之有り。和田伊賀守討死云々。武家辺り以て外の騒動云々。茨木兄弟以下300人討死。池田衆数多討死云々。三淵大和守藤英夜半に入り■■城云々。(後略)。
※■=欠字
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高槻城石碑
公卿山科言継の日記には、京都の様子も記録されています。また、天気も書かれていて、京都の天気と高槻辺りは大体同じと思われるので、参考になります。27日〜29日まで、「天晴」とあり、高槻方面も晴れていたと思われます。
 それから記述中の武家辺りとは、将軍義昭と幕府・織田信長や武士を指すのですが、和田惟政戦死の報が伝わり相当に動揺していた事が判ります。幕府は、三淵藤英を出す事を決め、藤英は28日の夜半に高槻城へ入っています。

池田勢は月末頃に高槻城下に達していたようですので、城から惟長と三淵は、惟政やその重臣達の、討ち取られた首を見た事でしょう。また、戦況に応じて、次々と勝ち側に寝返りますので、日に日に池田方の人数は増え、和田方は減って行きます。

441年前の8月29日は、そんな日でした。和田惟政やそれに関係する人々の墓と供養塔が白井河原周辺に沢山あります。近くを通る時、また、見学の時は手を合わせてあげて下さい。想う事、知る事が、一番の供養だと思います。





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