2013年5月4日土曜日

奈良多聞山城の城門遺構

伝多聞山城城門の構造
前からちょっと気になっていた、多聞山城の城門遺構と伝わっている石田家住宅の門を見学に行ってきました。この門は、国指定の重要文化財である中家住宅に隣接して今も残っています。石田家住宅は今は無住で、外観だけを見る事ができるのですが、無住のせいか、随分荒れ果てています。

奈良の多聞山城は、池田勝正も3,000程の兵を率いて攻めています。 随分と難航しながらも、城そのものは落します。しかし、戦略的な意味は果たす事ができず、闘争そのものの決着をつけるには至りませんでした。

この石田家住宅の門は、あくまでも伝承で、多聞山城の遺構かどうかは不明なのだそうですが、見た所、庄屋さん宅の門としては頑丈すぎる構造のように思えます。門柱は、幅45センチはあろうかという太さです。


伝多聞山城城門全景
石田家住宅に隣接して中家住宅があり、同家は大庄屋を務めた家柄だったそうですが、確かに徳川幕府統治の重要拠点であったとはいえ、これ程の門とその構造はちょっとアンバランスで、様式を重んじる時代にしては、不自然なように思います。

また、近江坂本城の遺構と長い間伝わっていた「西教寺総門」が、最近の調査で伝承通り、坂本城の遺構である事が確認されたりしていますので、伝承は結構正確である可能性も指摘されています。
※個人的な経験で、そうでない事もありますが、そういう場合は、時代が合わないし、後世に造られたりしているものも多いので、ちょっと調べると直ぐに判ります。

さて、この多聞山城の城門遺構が、もし本物だったら、全国版ニュースに取り上げられる規模の大ニュースでしょうし、城郭史分野、建築分野にも大きな波紋を投げかけるとともに、研究も大きく発展する遺構になるでしょう。

重要文化財 中家住宅
お話しでは、中家住宅が重要文化財になる時の調査で、石田家住宅のこの門も一応調べられたし、その後、平成12年くらいに移築保存の話しも上がっていたそうですが、何れも確固たる立証に至らず、認定は見送りになったとの事でした。

しかし、専門家が見ても意見の分かれる事も多いですし、また、文化財の持ち主との関係等から、うまく事が進まないケースも多いため、本質を見失って、本願を遂げられない事も少なくありません。
  それ故に、真偽の程はグレーなまま、この遺構の扱いが曖昧になり、現物は日増しに朽ちているという状況です。

文化財は、この先新たな環境を迎える事が必定で、今、文化財についてしっかりと見つめておかなければ、日本固有、地域固有の文化財は急速に朽ちて行く事は明らかです。
※最近では、大東市の平野屋会所保存についての問題、大阪市の渡邊家住宅の保存に関する問題などがありました。いずれも取り壊しとなり、大変貴重な文化財が破壊されてしまいました。双方共に相続に関する金銭的な問題です。

自分達の共有してきたものを残し、伝える事は、国の豊かさや強さに繋がっていると感じています。「国(日本)のまほろば」といわれる奈良県は、特に事を他の地域よりも真剣に考えていただければと願っています。

奈良県は、東大寺や春日大社だけではない、すばらしい文化財が沢山あります。是非、機会をみつけて見学にお出かけ下さい。


追伸:文が長くなり過ぎましたので、重要文化財の中家住宅については、また、改めて紹介します。中家住宅もすばらしい文化財でした。


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