2011年9月10日土曜日

白井河原合戦に至るまで(その2:和田惟政の池田領侵攻の動き)

元亀2年(1571)8月28日、三好三人衆方である摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。その過程について、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、そこに至るまでの環境を確認したいと思います。

千里丘陵の南側も重要な場所です。吹田は要地であり、池田衆の影響力もある場所で、また、本願寺宗とも関係がある地域です。ですので、元亀2年当時は何らかの恊働関係があったようです。そして、ここには城がありました。どうやら平地と丘段上に城があったと考えられます。
 更に、吹田の北東1里以内の山田という場所に市場がありました。市場では様々な物品が取引され、米も銭に換金される場所です。ここも池田衆と関係があるようです。
 このように千里丘陵の周縁部は、交通や経済的要素が多く有り、池田方と幕府方の激しい攻防が繰り拡げられる必然がありました。

6月10日、京都へ通じる水上交通・流通を確保するため、和田惟政は吹田を攻撃して落とします。この時に和田方は57の主たる人物の首を取ったとあります。幕府方は吹田方面を重要視し、占領した吹田の支配体制を固めるべく直ぐに手も打っていたようです。
 同月23日、惟政は吹田から北西方向に直線距離で1里程(4〜5キロメートル)のところにある、摂津豊島郡桜塚善光寺内牛頭天王(現豊中市原田神社)へ宛てて禁制を下しています。
 しかし、翌月12日、惟政は三淵藤英と共に大和国へ出陣させられるなどし、幕府方は東奔西走しなければいけない状況だったたようです。ちなみに、この時の和田・三淵勢の状況は不利だったようです。
 この機を見て、三好三人衆方で大和国奈良に本拠を持つ松永久秀は攻勢に出、河内国若江城の三好義継と共に、高槻方面へ出陣します。摂津池田衆とも連携していたのかもしれません。
 しかし、同月22日、一週間程で久秀は撤退します。『多聞院日記』では、これについて準備不足であった旨を聞いた、としています。
 一方、惟政は松永方と交戦中の21日夜に京都へ入り、将軍と何かの打ち合わせを行ったようです。惟政は翌日、高槻へ戻ります。
 23日、幕府は早速惟政の要請に応じて、三淵藤英・細川藤孝を摂津国方面へ出陣させています。また、これに池田勝正が関わっていた可能性は高いです。
 26日、三淵は、南郷奈良春日社家目代へ宛てて禁制を下しています。ここに幕府が禁制を下したのは、池田衆にとって、大きな意味がありました。南郷社家目代の今西家と池田衆は、永年に渡り深い関係にあり、池田衆の収入の一部の中でも大きな要素を占めていました。
 ここに池田衆以外の勢力が禁制を下した事は、池田家中にも強い危機意識を抱かせた事と思われます。同時にこれの意味するところは、実効支配の勢力範囲であるからです。今西氏が地域情勢として幕府優位と判断した事となります。
 間もなく、池田勝正を含む幕府勢は、池田を数日間に渡り攻撃するまでになります。26日頃には既に池田を攻撃していたのかもしれません。
 しかし、池田方面は堅固であったのか、幕府勢は兵を退き、8月2日、池田勝正は原田城に入ります。これは池田の付城的役割と、吹田への備え、同じ幕府勢力の伊丹城との連携など複合的な意味があったと考えられます。
 さて、そんな中、松永久秀が大和国辰市にて大敗してしまいます。8月4日には、その松永方の主要な人物の首240程が京都に届けられます。これを見て、大和国や山城との国境の有力者が幕府方に寝返るようになります。

摂津国内へ視点を移します。

8月18日、和田惟政は千里丘陵から見ると西側の友軍伊丹忠親勢と合同で、池田方を攻めましたが、和田・伊丹勢は200名余りの戦死者を出して後退します。
 この頃池田衆は、大規模な反撃体制を整えつつあり、和田・伊丹勢は想定外の状況に出くわしたのだろうと思われます。200名余りが戦死するとは、小さくない規模です。
 また、この場所としては、幕府方がつながった勢力圏を維持していたのは、千里丘陵の南側です。和田方は吹田を経由して西へ進み、伊丹方は猪名川を渡って東へ進み、原田城あたりで合流。和田・伊丹方の幕府勢は、そのまま北上して、箕面川付近で交戦となっていたのかもしれません。ちなみにこの領域には、西市場城跡今在家城跡中之島砦跡豊島冠者故居などと伝わる城館跡があります。
 池田衆は、この頃には大挙して反撃する方針を決しており、体制を整えていたと考えられます。

大和国方面では松永方が一進一退であり、河内国南部方面でも三好三人衆勢力の戦線は膠着状態で、時間が経つ程池田方が不利になると考えた可能性もあります。もちろん、何らかの恊働方針の上での行動であったとも思われます。

8月22日早朝、池田衆は和田方へ決戦を挑むべく、東へ向けて総勢3,000の兵を出陣させます。


池田市郷土研究サイト:呉江舎(ごこうしゃ)




2011年9月7日水曜日

白井河原合戦に至るまで(その1:合戦中の戦況とその直前の摂津中部地域の状況)

元亀2年(1571)8月28日、摂津池田家は幕府方和田勢に対し、摂津国郡山付近にて決戦(白井河原合戦)を挑んで見事に勝利を納めます。総大将である和田伊賀守惟政は、この合戦で戦死し、池田衆にその首を取られてしまいます。惟政の首は彼の拠点である高槻城に晒され、池田衆は勝利に歓喜しました。
 しかし、この戦いに至るには、その前段階があります。実は池田衆は幕府方から当面の集中的攻撃対象となっており、長期の攻防で池田衆が劣勢に立たされていました。
 この池田衆は、三好三人衆方で、元亀2年5月頃に幕府方から離れて、同じく三好方へ復帰した松永久秀・三好義継と恊働関係にありました。加えて、大坂本願寺勢、和泉国衆の一部が三好三人衆方で、淡路国方面などからも本国と連なる三好勢が、随時五畿内に軍事的侵攻を行っていました。その目的は京都の奪還、則ち織田信長・将軍義昭の駆逐です。
この過程については、いくつかに分けてご紹介しますが、白井河原合戦を中心として、それをひも解いて行きたいと思います。
 『フロイス日本史』や『耶蘇会士日本通信』では、池田領の境近くに2つの城を築いたと記述があります。同書では、これが白井河原合戦の原因であるとの見解が示されていますが、私はこの事だけが和田方と決戦を行う直接的な理由になったのでは無く、それらの城の築造が、複数の要素の重なりの発火点になったのだと考えています。
 それから同書は、記憶違いだとは思うのですが、若干の矛盾があるように思います。外国人である事と、連続した状況を全て把握している訳ではありませんので、当然の事です。この点に注意しながら、記述を理解する必要があると思います。

さて、この池田領境界近くに築いた2つの城の場所とはどこなのか。フロイスの記述中の距離の単位には、「レグワ」とあるのですが、どうも1レグワとは、1里(約4キロメートル)にあたるようで、その事から推察すると、城の1つは、今の萱野(現箕面市萱野)あたりではないかと考えられます。
 仮に池田領を、同方面の西国街道と勝尾寺川の交差するあたりから西側と考えるなら、様々な池田方に関する構成要素と符合するように思います。この事は、今解っている事実と矛盾しないように思います。

8月22日、池田衆は3,000の兵を率いて池田城を出陣します。この頃、和田方の築いた新城を守っていた高山飛騨守が、3里離れたところに居た和田惟政に急報した、とあります。実は、フロイスはこれについて「高槻」とは書いていません。
 他の史料を見ると、この時の惟政は高槻から離れ、出陣中でした。ですので高山飛騨守は、萱野の新城からその場所に急報した事になります。
 それを考慮に入れてみると、もう一つの城があった場所とは、千里丘陵の南側の池田・和田領の境を想定できるのかもしれません。そこであれば、他の史料等からわかる池田衆の動きとフロイスの記述要素、そしてそれらの時間との一致が見られて、矛盾しません。
ちょっとフロイスの記述からは判断しがたいところもあるのですが、7月(下旬頃か)に白井河原合戦につながる一連の闘争で、高山飛騨守の息子(三男で右近の弟)が戦死しているようです。この葬儀のために、フロイスが摂津国に入っている事を記述しています。
 その高山飛騨守の息子、則ち右近の兄弟が、池田衆との一連の闘争で戦死した7月頃とは、千里丘陵の北側で話しを組み立てると、矛盾があるように思えます。更に、同丘陵の南側にこだわってみると、7月中頃から三好義継・松永久秀が軍勢を仕立てて、河内国から淀川を渡って、高槻方面に進んで、交戦しています。高槻から吹田へ繋がる線を切って、勢力の弱体化を図った行動と思われます。また、それによる、吹田などの淀川縁の確保も視野に入れていたのでしょう。
 更に同月23日、幕府衆三淵藤英・細川藤孝は、高槻方面から吹田を経て、池田の南側へ進んできます。

さて、こういった軍事行動の場合、攻める敵に対しては必ず最低2つの方向から攻めます。その事を考慮に入れると、千里丘陵の北側と南側に1ヶ所ずつ池田領との境に、和田惟政が橋頭堡的な新城を築いたのかもしれません。
 この頃、茨木・郡山は和田方として機能していましたので、千里丘陵の南北に新城を築けば補完関係も強固に維持できますし、補給も十分です。同時に、防禦的体制も兼ねる事ができます。

この事から、7月に行われた千里丘陵の南側の攻防戦で、高山飛騨守の息子が戦死したために、一旦、東へ後退。その後、池田衆が出陣する8月22日には、萱野付近の城に入っていたものと思われます。
 それから間もなく、高山衆は東進してくる池田衆と対峙しながら、東へ後退(時間稼ぎもしていたのだろう)していったものと思われます。この時池田衆は『多聞院日記』『尋憲記』にある、池田方が落とした4つの城(里(佐保)・宿久・茨木・高槻)の内、里や宿久を落とすか、攻囲して進んだのかもしれません。
 そしてまた、フロイスの記述をよく読んでみると、和田惟政が突撃前に陣を取ったらしき場所は、高山衆の入る城の近くだったと思われ、それは多分「福井」辺りの城に入っていたと考えられます。

さて、白井河原方面へ進んだ惟政は、幣久良山(てくらやま:現茨木市耳原)に陣を置きました。ここは山の直ぐ西側に佐保川がある天然の要害で、また、その北側半里(2キロメートル)程のところには、幕府衆である安威氏の本拠があります。そして南にも郡山・茨木の城があります。
 一説には、8月27日に惟政は、幣久良山(糠塚)に入ったとあります。白井河原合戦は、28日の午前中に行われたようですので、惟政が前日に入って状況を把握していたとすれば、それは史料と照合しても矛盾しません。ここは適度に広い平地もありますが、基本的には丘陵地帯で小さな丘や山が多く、しかも切り立った起伏のある地形ですので、伏兵を置くにも適した場所でした。当然、草木も茂っていた事でしょう。また、夜明けと同時に戦いを始める準備をしていたのでしょう。
 フロイスが記したように、和田方が兵を進めようと決断した環境を考えると、池田衆は和田方にそうさせるように、おびき寄せるための隙を態と作っていたと考えられます。
 この時池田衆は、下井付近に陣を取ったようです。今の郡小学校付近に2ヶ所、その跡とされる場所がありますが、どちらも陣跡だったのではないかと思います。

少し話しが前後しますが、高山飛騨守と和田惟政の動きをまとめておきたいと思います。

千里丘陵の南側の和田方新城で高山飛騨守は、交戦により息子を戦死させたために、東へ一旦後退。それが7月(下旬か)頃だったのではないかと思われます。その後、幕府勢は吹田方面を経て、池田を攻めるようになります。また、原田城に池田勝正が入る等、拠点も置き始めます。
 幕府方は三好三人衆方の拠点ともなっている池田城を制圧するため、積極的に攻め、伊丹と和田は池田を挟撃しようと出陣しましたが、8月18日の交戦で、伊丹と和田は、200余名を戦死させる敗北を喫します。そして、この時の合戦に惟政も出陣し、高槻を離れていたと考えられます。

これに合わせて高山衆は、西国街道を通す千里丘陵の北側の押さえとして、萱野に入っていたと考えられます。
 池田衆は、惟政が考える以上に力を蓄えており、8月18日の交戦では、200余名の戦死者を出すとされる、小さくない被害を受けています。重要な家臣も失ったのではないかと思います。
 その日から数日間、和田惟政は猪名川を渡って川辺郡(猪名寺・尼崎方面など)や吹田方面(庄内や江坂など)にとどまって、立て直しを図っていたと考えられます。
 一方、池田衆は池田周辺の交戦で勝利を得た事で勢いがつき、間髪を入れずに高槻を陥れるべく東進を始めたのでしょう。そして間もなく、萱野で池田衆の東進を確認した高山飛騨守は、そこから3里の距離に居た(尼崎・庄内あたりなら萱野から約3里の距離です)惟政に急報。惟政は急遽、高槻に戻り、出せるだけの兵をまとめて郡山方面に向かったのではないかと考えられます。

8月22日、池田を出陣した池田衆に対し高山衆は、郡山付近での決戦体制を整えるまでに5日間の時間を稼ぎ、要害性の高い郡山辺りで和田惟政と合流。そこで決戦し、事態を打開しようとしていたのでしょう。
 同時に惟政は兵を増強しようと各地に連絡もしていたと思われます。フロイスの記述に「惟政の家臣は高槻から3〜5里乃至8里の場所に居た」との旨の下りがありますが、その要素の指向性は、家臣の招集(動員)を描くものだったのではなかと思います。
 惟政が陣を取った場所を考えても、その事を感じさせる絶妙な場所です。幣久良山の北側には佐保・泉原・忍頂寺・千提寺・車作・音羽などに通じる街道があり、その方面の家臣の白井河原方面への着陣を予定していたのでしょうが、実際には8月28日に間に合わなかったようです。
 フロイスの記述にある、「惟政とその重臣が戦死したとの報が伝わると、家臣が散々に逃げてしまった」の旨の記述は、その事も指しているのだろうと思います。

フロイスの記述した内容の文字の間を観るならば、そのような想定もできるのではないかと思います。




2011年9月3日土曜日

郷土史を勉強して見えてきた現代の日本

郷土史という人間の歴史を勉強して、見えてきた今の日本社会があるのですが、皆さんが思うように、やっぱり私も将来が不安です。
 私が勉強している摂津池田家も地域権力として滅んだ一族ですが、権力の統合過程で、同じように滅んでしまった家も無数にあります。最近は織田信長とか豊臣・徳川などの権力構造研究が学会でも盛んに行われるようになって、少しずつ解き明かされつつあり興味深く読んでいます。
 しかし、権力になじめず、不合理に滅びた勢力もあるのかも知れませんが、その多くは滅びる理由がありました。池田家もそうです。

 私は、今も昔も変わらない、不変の真理があるように思います。それは、権利とお金の問題を調節できなくなった政治主体は斃れ、滅びるという事です。それが家であれ、何であれ、その集団は内紛や戦争という感情に頼る手段に訴えるしかなくなり、最後には尽きてしまいます。

「追跡!AtoZ 動画 「過熱する日本人技術者争奪戦」」←もし宜しければ、このワードを検索して、動画をご覧下さい。表示されたページの中ほどに動画が表示されています。何度も繰り返す大企業の主導者たちの体たらくに、怒りを覚える一つの事実です。
※現在は平成23年9月3日です。あまり時間が経つとリンクが切れるかもしれません。お早めに。