2011年5月24日火曜日

金魚の稚魚の続報

今年の1月下旬に生まれた金魚の稚魚の続報です。

あれから、4ヶ月。20疋程が生き残り、元気に泳いでいます。けっこう、個体差があって、小さなものは1センチ程、大きなものは金魚すくいの金魚くらいの大きさになっています。色もバラバラで、フナの様な色のもの、黄色い色、透明のような色と色々あって、それぞれ時間が経つと変化していきます。赤になっている金魚はまだですね。
 この調子でいくと、先に黄色になり、後から赤い色が出てくるようですが、始めての事なので興味津々で観察しています。
 やっぱり、餌をよく食べるヤツは早く大きくなりますね。それから、小さい間は、季節の変わり目で病気になりやすく、よく観察して、おかしいなと思ったら、薬の用意をしておいた方が良いです。1疋病気になると、2〜3日ですぐに広がります。
 よくかかるのは、ヒレに白い点がつく病気で、放っておくと全身が真っ白になってエラもやられてしまい、呼吸ができなくなって死んでしまいます。
 でも適切に薬を使えば、治ります。ペットショップで色々と相談すると適切な処置も教えてもらえますので、しっかり観察して、相談してみて下さい。
 私の場合、もうまともに泳ぐ事もできず、転覆して、体は真っ白の瀕死の状態でしたが、薬でもとに戻りました。今もその金魚は元気に泳いでいます。

 しっかり観察して、それなりに気を使ってあげると、金魚を飼う事は難しく有りません。
 自然環境では、金魚たちは自由に泳いで一番良い環境を探して生きています。人間の都合で金魚たちの生きる環境を固定してしまうのですから、彼らの一番よい環境を維持してあげる事を基本にしていれば、良いのだと思います。特に、清潔にしてあげる事には気を使っています。

 これから、夏に向かってまた、成長するようですので、楽しみです。また、レポートします。

2011年5月19日木曜日

福井県一乗谷遺跡で、鎧兜を着用してみました!

ちょっと取材に、福井県の一乗谷を訪ねました。平成17年に水害があって、どうなってしなったのか心配もあったのですが、しっかりと復興されていました。安心しました。また、研究と発掘も進んでいるようで、大変見応えのある名所になっていました。
 平成13年(2001)にもこちらを訪ねたのですが、その時は冬で、雪も積もっていたので、ひっそりとしていたのですが、今回は気候の良い5月ということもあり、観光客も見られて賑やかでした。
 復元された町並みを見学していると、室町時代の鎧兜や旅装束などを着用できるお店があって、ちょっと悩んだのですが思い切って着てみました。

写真は、着せてもらっているところから、嬉しくなってはじけている一連の写真です。やはり、ちょっと照れくさいです。最近、太ったのもあるのですが、被りモノは似合いません。小顔がいいですね。
 時代劇でも同じ様なものを使っているようです。素材は、金属のところと樹脂みたいなところがあって、鎧の胴は、樹脂のような素材なのですが、それでもずっしりと重いです。両手の篭手も小さな鎖が表面に施されていますので、ずっしりと重く、生地も分厚いので、真夏に鎧兜は大変だと思います。

意外と気づかないのが、足下です。上体が重いのに足は草履や足袋のようなものしかありませんので、歩くと痛いです。今の靴のように分厚い底や柔らかいクッションもありませんので、かかとに直接重さがかかって、石や凸凹等があると痛いのです。


下半身、特に足は力のかかるところですから、耐久力のある適当な素材がなかったのか、長い間足回りは進化していないように思います。昔の人は大変だっただろうなと思います。
 あまり、鎧兜を着用する機会には巡り会えませんので大変貴重な体験でした。しかも何と、500円(税込)という破格値です。

みなさんも一乗谷を訪ねられた時はどうぞご体験下さい。良い記念になりますし、オススメです。

2011年5月12日木曜日

池田家中の荒木村重

最近は、荒木村重の知名度が上がってきたようです。インターネット上の検索では、それについての記述が非常に増えています。
 しかし、現実的には、知らない人も多多いようですね。やはり、謎の部分が多いため、正式な取り上げられ方があまりされないからなのかもしれません。
 織田信長関係の何かのストーリーに取り上げられたとしても、「ちょい出」程度の露出です。

村重は、池田勝正を研究する上では、重要な人物で、村重の史料の中に解明のヒントが多くあります。というか、それも含めて観て行かないと地域的な動きが解らないのが実際のところです。

史料から見ると、村重が勝正の重臣であった事は間違いありません。家中政治の中で、その始動期から勝正政権とも言える勢力を支えていたと思われます。また、よく村重について流布される「下克上」とのニュアンスは、個人的にそれに当たらないと思っています。
 下克上とは、「成り上がり」や「成金」のように、あまりいい意味では無い印象を受けるのですが、詳しくその経緯を見ると村重は、家政の対立に競り勝っただけです。それも、その出世過程では、合意もあって組織の幹部となっていきます。要するに中枢から起用されて、正当な出世をします。ですので、「交代」といった言葉の方が、ふさわしいように思います。

個人的には、言葉の持つ意味とは別に持つイメージで、違和感を持つものがいくつかあるのですが、「下克上」という言葉もその一つです。使用する側の意図や偏見、悪意を込めた時に使う傾向があるように思います。その意味では、「蜜月」という言葉もキライです。

脱線しました。また追々、荒木村重の事もご紹介していきたいと思います。

2011年5月10日火曜日

元亀元年の浅井氏謀反は、織田信長に「突然」の認識が本当にあったのか。

最近、元亀元年の織田信長(幕府)による、朝倉攻めの事が気になって、色々と調べています。

ふと思ったのですが、永禄13年(元亀元)の1月23日に発行した、諸大名への触れ状を見ると、そこに朝倉氏の名前は無く、また、朝倉氏に連れ去られた若狭守護家筋の武田孫犬丸元明の名がそこに記されています。
 これは、呼び出しの意味も有る内容の書状ですが、武田孫犬丸元明の禁裏及び将軍への参候は事実上不可能です。
 その上で、浅井父子と京極高吉へも同じ旨通達されているようです。京極氏は室町幕府の四職の一家の名族です。また、その高吉の娘は武田元明に嫁しているようです。

そんな関係でもある人々を幕府の命で行動させるのですから、政治的な意味合いも重くなる筈で、これについてどのような行動を取るか、織田信長は初めから難題を相手に課していたと考えられます。
 この幕府命令について、『言継卿記』3月16日条に、河内守護三好左京大夫義継、松永山城守久秀、豊後の大名大友左衛門督義鎮(宗麟)使者、但馬国山名祐豊重臣大田垣兄弟、備前国大名宇喜多氏などが参洛して、幕府などへ挨拶に訪ねたとあります。

さて、その1ヶ月後に越前守護朝倉攻めの軍勢が京都を発つのですが、1月に発行した触れ状にもある浅井氏は、この軍事行動に参加した形跡がないように思われます。西近江街道の途中、高嶋郡あたりで合流したのかとも思いましたが、その形跡も無いようです。
 ですので、天皇からも公認されたこの官軍の征伐ともいえる軍事行動に浅井氏は、はじめから参加しておらず、その時点で、噂通りに官軍に弓を弾くかどうかの確認を取った行動であったと思われます。
 浅井氏の政権離脱は、はじめから予想された事だったのだと思います。もう少し、踏み込んだ表現ができるとするなら、信長は「この期に及んで朝倉に付きやがった!」と考えたように思います。
 「元々少身の浅井に、近江国北部一円を認めたやったのに、天下の中心に近い俺よりも、朝倉を撰ぶとはどういう了簡だ。一旦退くが、しっかり準備を調えてから、武力で決着をつけるとする。」という感じだったのかもしれません。

丹波・播磨・但馬・丹後・伊勢国と軍事行動を行って、越前を攻める前に準備を進め、更に官軍としての軍事行動を取ると言う用意周到な織田信長の行動に対して、浅井長政の行動だけが、「突然」であるのは、不自然なように思います。


また、幕府・織田信長政権が越前の朝倉氏を攻めたのは、朝倉氏の関与を止めさせて、若狭国内乱への介入と整理、そしてまた権門や禁裏への対応を行なう意図があったように思います。
 また、浅井氏にとっても、日本海側の小浜や敦賀など良港からの物流が、近江国北部を経由して京都・奈良・大坂へも通じてもおり、朝倉氏との関係を絶つ訳にいかなかったのだろうとも思います。この権利は、当時でも莫大な額に上っていたようです。

今も昔もやっぱり「お金」の問題だと思います。