2010年12月29日水曜日

元亀元年の越前朝倉攻めでの幕府・織田軍道程

また、ちょっと元亀元年越前朝倉攻めについて考えてみます。この時、摂津守護格として、池田勝正が三千の兵を率いたとの記述から、幕府方武力の中核的な存在であったと考えられます。これ程の数を一家で出せるのは、畿内地域でも、そう多くはありません。この時、明智光秀も幕府衆として従軍していますが、単独で兵を多数率いていたわけでは無いようです。
 そういった状況の中で、池田勝正は元亀元年越前朝倉攻めに従軍する訳ですが、近江国高島郡から北への道程がはっきりしないところがあります。この高島郡は肥沃な土地で、様々な権利関係がある複雑な状況だったようです。
 西島太郎氏は朽木氏をはじめとした、この地域の研究者ですが、その論文を読むと非常に深く分析されています。大変勉強になります。宮島敬一氏は浅井氏を主に素材として研究されていて、こちらも勉強になります。
 永禄4年頃から、浅井氏が高島郡に影響力を行使しはじめ、幕府、六角、浅井氏の想いが錯綜する複雑な関係になっていったようです。
 この地域は、西佐々木七家と言われた勢力があり、佐々木越中家を筆頭に、田中、朽木、永田、能登、横山、山崎の各氏が構成していたようです。この惣領家が佐々木越中家であったと考えられています。その佐々木越中家の居城が、清水山城で、安曇川の北側にあります。
 さて、元亀元年越前朝倉攻めの時、織田信長は、高島郡に入ると、その地域筆頭の佐々木越中家の居城では無く、田中氏の居城である田中城に宿泊(本営)しています。これは、少し違和感を感じる事です。
 やはり、幕府・朝廷公式の軍勢である、引率者織田信長が高嶋郡に入ったなら、地域の筆頭である佐々木越中家がこれを迎える筈です。
※清水山城については発掘などの物理的検証が始まったばかりですし、文献史料の発掘も西島氏によってやっとはじまったところですから、史料がないだけだとは思います。

 個人的に、この時に信長が田中城に入ったのは、この地域の勢力分断があったためではないかと今のところ考えています。そのため、軍事的・政治的に重要であった高嶋郡で、敵対する動きを見定め、各地域勢力の軍勢集結地にし、物資や港の確保などといっ事も同時に行うところであったようにも考えています。

 そして信長は、そこから山手へ入り、朽木方面を経由して熊川へ。そしてもう一隊は、西近江街道を北へ進んだのではないかと考えています。
 一方、浅井氏は、既述のように湖北地域の勢力拡大の野心は持ち続けており、永禄11年12月12日の段階でも、高島郡の朽木氏に領知についての起請文を発行しています。そしてまた、翌年正月の本圀寺の戦いを経て、同年6月下旬には、六角氏の牢人が奈良方面へ現れるとも噂とともに、浅井氏が信長から離れる噂が立っています。高嶋方面の利権関係が更に緊迫していた事が想定できるように思います。

 こういった事を背景にして、元亀元年越前朝倉攻めは行われ、浅井方の影響力の強い高島郡から北へも敢えて、幕府・織田方は軍勢を進ませた可能性もあると思います。一応、公的には友好関係ですから、浅井氏は拒む事ができません。この行動にどう反応するか、幕府・織田方は確認しなければならなかったのかもしれません。

 それが、信長の田中城宿泊だったのではないかと、個人的に考えています。安曇川から北は浅井方の影響地であったのかもしれません。




2010年12月22日水曜日

元亀元年越前朝倉攻めでの池田勝正の行軍経路

元亀元年の越前朝倉攻めの折、池田勝正はどんな行軍経路を取ったのか気になります。
 この事を取り上げた色々な記事を見ますが、織田信長を含めた一団が一つのルートを使って越前一乗谷を目指したとなっています。
 しかし古今東西、軍事行動の正当的には、決戦を挑む直前まで、警戒態勢と敵の前衛拠点制圧を目的として、最低二筋に分かれて決戦地点まで進みます。

ですので、22日に近江国高島郡田中城に入った後は、ここから二手に分かれて進軍したと個人的に想定しています。
 というのは、元々浅井方の動きを知るためのもので、高島郡から西近江街道を進めば、越前国境まで浅井領内を進みます。この行動に対して反応するかどうかを試したのではないかとも考えています。また、浅井勢が北上した時にこれを察知して食い止める必要も有り、西近江街道に軍勢を入れておく必要もあったと思われます。
 もちろん、疋田城ほか、抵抗する拠点を制圧・攻囲する必要もあります。また、湖北は、今津・海津など要港があり、これも視野に入れつつ、実際的に補給の事も考えておかなければいけません。

さて、池田勝正はこの二つの内、どちらを進んだかです。

現在もそうなのですが、軍隊は地域性を帯び、やはり織田信長の軍勢の最小単位もやはり、一族衆単位です。この当時の軍隊はそういう編成になっているようで、池田衆は幕府から出した軍勢として位置づけられています。摂津守護職を受けている家ですから当然でしょう。
 この時、池田衆は3,000の兵を出しているのは、当時の史料からもわかりますので、それは中核といっても良い勢力です。また、信長にとっても尤も信頼の置ける部隊のひとつでしたので、そばに置いたか、敢えて、幕府衆として西近江街道を進ませたかは、今も判断に悩むところです。
 しかし、この時の事に関する若桜国方面での記述では、信長や徳川家康についての記述が多いように見えますので、勝正など幕府衆は信長に随伴していなかったかもしれません。

それからまた、高島郡で陣を取った時、この地域は浅井方の勢力も入り込み、幕府方などの勢力と拮抗していた地域であったよです。
 元亀元年早々の諸国大名宛てに公武参内を促す触れ状に、「西佐々木七家」とありますが、この西佐々木七家の惣領家とされる佐々木越中家の本拠と考えられる清水山城を宿泊場所に選んでいません。ちなみに田中城は、割と大きな安曇川を境として南側にあります。
 今後、調査が進めば田中城と清水山城との関係がはっきりするのかもしれませんが、しかし、こういった環境やその行動から見て、この安曇川が勢力の境だったのでは無いかとも考えられます。

広い平野となっている高島郡安曇川で軍勢と物資を集めたと思われます。ここで敵と味方の政治的な判断を行い、信長は若狭方面へ進みます。また、若狭でも軍勢を集めており、伝わるところによると、ここで兵の総数が50,000(全体を合わせてだと思います)になったとしています。
 さて、それを見越して、安曇川の平野に控えを置き、途中の補給が無い、西近江街道を進む一隊に半分以上を預け、大軍を維持させて示威行動を取らせたのではないでしょうか。
 途中に人数を割く計算もあると思いますが、信長は常に大軍を準備し、その圧倒的な数で敵の戦意を削ぎ、交渉に持ち込む事が常套手段です。ですので、この時もその常套手段を用いて目的遂行を続けたと思われます。
 西近江街道を進む一隊は、疋田城を囲みます。ここを攻める必要は無く、釘付けにさえしておけば良いところで、その事で、浅井勢が塩津街道から北上すれば、ここで食い止める事と、動きがいち早く察知できます。ちなみに、北国街道もありますが、この時は浅井勢がこれを使っても意味はありません。

史料を見ると信長は、用意周到に準備を行い、行動しています。カケのような事はほとんどしません。カケのように見える行動は、永禄12年正月の三好三人衆勢力による京都本圀寺攻めの時や天正4年の本願寺合戦の折に原田直政が戦死した戦いなどがありますが、数としては少ないです。
 それは大抵、守りの戦いで、全体がひっくり返る程の状況ではありません。手当を間違えば、大きな損害になると考えた場合には、自ら迅速果敢に行動しています。そういった事は全て、政権主導者として必要な事を行っているのであって、時と場所を機敏に捉えて、信長は過不足無く周到に行動しています。

よって、この元亀元年の越前朝倉攻めは、後年にドラマチックに描かれていますが、こういった信長による用意周到な計画と行動によって、相手の行動も当然ながら想定されており、勝正の行動もそれに沿ったものだったと考えられます。

まだ、調べ足りないところもあるのですが、今のところそういった状況も想定できるのではないかと考えています。



2010年12月10日金曜日

池田勝正も従軍した、元亀元年の金ヶ崎の退き口について考える

私の思考がそっちに向いているついでに、再度「金ヶ崎の退き口」について考えてみました。

ちょっと、攻める側の幕府・織田信長方と、攻められる側の朝倉・浅井方の立場で各々考えてみてたいと思います。
 『言継卿記』を見ると、いわゆる「金ヶ崎の退き口」が開始された直後の4月29日、六角承禎などの勢力が、近江国内に内に入って放火などの打ち廻りを行っています。その後も大規模に攻勢を続けている事から、準備の上での行動だったようです。この六角氏の行動は、朝倉・浅井方とも連動した行動だったと思われ、意思統一ができていたのでしょう。

城趾から見た敦賀湾と市街地
となれば、朝倉・浅井方にとっては、幕府・織田勢が、木ノ芽峠を越えて嶺北地域に入ったところで「挟撃する事」を計画していたと考える方が自然だと思います。金ヶ崎の退き口での朝倉方の動きは、遅れた動きのように見えますが、それを予定していたために、後世に誤解されているかもしれません。

一方、幕府・織田方は、木ノ芽峠を越えてしまうと、挟撃される恐れがあり、これを十二分に注意して警戒していたはずです。疋田城や天筒山・金ヶ崎城で朝倉方が抵抗している以上、構えの姿勢をみせており、幕府・織田方に対して開戦準備をしていた事も明らかです。
 天筒山での交戦では、朝倉方に1,000名以上もの犠牲を出しているらしい事から、全体としては相当数人数を用意していた事がわかります。それは数十、数百では比べものにならない組織力と準備が必要な数です。

中池見湿地
前の項目でも触れたように、永禄12年時点で浅井方に不穏な動き(将軍義昭(幕府)からの離反)のある事が噂されており、幕府・織田方はこれを十分に警戒して、浅井方の動きを探っていたと考えるべきだと考えています。信長が引き返す決断をした、位置とタイミングが絶妙過ぎます。偶然では無理でしょう。
 また、信長は、4月23日に若狭国佐柿の国吉城に入ると、ここに2日間留まって戦況を分析し、準備が整うのを待って、関峠を経て越前国敦賀へ入っています。近江国西岸・若狭国での行動とは違って、越前国侵攻が開始されると、非常に慎重な行動を取っています。更に、国吉城という非常に堅固で安全な城を本営に選んでもいます。

要するに、「金ヶ崎の退き口」は、朝倉・浅井方の意図が、警戒していた幕府・織田方に事前に発覚しまい、朝倉・浅井方の予定が狂ってしまった戦いであったのだろうと見られます。
 ですので、現在伝わっているところの「金ヶ崎の退き口」という退却戦は、幕府・織田方にとっては、危ないのは危ないと思いますが、窮地という程のものでは無く、冷静・沈着に予定通りの行動で撤退した事でしょう。
 朝倉・浅井方が深追いしなかったのも、こういった状況から、事実上、「できなかった」というのが正確なところではないかと思います。




2010年12月8日水曜日

元亀元年の幕府・織田信長の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めについて

金ヶ崎の退き口で有名な元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、これに池田勝正が幕府守護格として3,000を率いて参陣しています。これは幕府方としては、主力を成す軍勢です。
 しかし実は、この遠征は周到に用意され、敵か味方かを知る事が主要目的であり、それを見越した手配がされていた事がわかります。
 永禄12年段階で、浅井方の不穏な動きが伝わっており、これを確認するためであったと考えられます。撤退は折り込み済みの行動だったというわけです。信長は、浅井に動きがあった場合に備えて、京都に軍勢の控えを置き、岐阜方面などでも準備をしていた事が各種資料からわかります。また、将軍の近江出陣も予定されていました。信長はイメージとは違い、非常に慎重で、用意もしっかり整えなければ、大規模な行動は起こしません。

想定外だったのは、むしろ摂津池田の幕府からの離反でした。

さて、元亀元年の若狭武藤氏及び越前朝倉攻めですが、若狭守護武田家の救援を大儀として、この軍事行動を起こしたようですが、武田家に背く勢力の背景は朝倉氏でした。最終的にこの繋がりを辿って、朝倉氏領内への軍事侵攻を企んでいましたが、やはり事が進むに連れ、想定通りの動きが見られました。それがいわゆる「金ヶ崎の退き口」となったわけです。
 ですので、撤退も幕臣である朽木氏の領内に入り、朽木から京都への街道を使わず、より安全な丹波国を経由して京都へ入っています。撤退ルートも予め設定されており、波多野氏などの友好的な勢力下の領内を通って京都へ戻っているのです。
 戻ると今度は、本願寺や一揆の動向を暫く観察し、同時に兵糧等の物資を運び込んで京都での会戦準備を行っています。この時、将軍の居所を兼ねた城が落成したばかりです。ここからも信長の周到さが窺われます。
 それを見届けた信長は、5月9日になって、岐阜へ戻るため、数万の軍勢を率いて京都を出発しています。

 さて、話しを戻します。若狭武藤氏及び越前朝倉攻めのため、信長は3万程の軍勢を率いて4月20日に京都を出陣します。これに勝正も同じく軍勢を率いて京都を出たようです。軍勢は和爾を経由して、高島郡田中の田中城に到着。ここで宿泊します。
 補給や安全確保のためにも軍勢は、ここから二手に分かれたと思われ、二方向から敦賀へ向けて進んだのだと思います。であれば、高島郡の平野部に軍勢を更に招集していたと考えられます。信長は、示威も兼ね、また、独自の戦術からも常に大軍を動かしています。また、この平野には田中の城を初め、多数の城や寺社があり、宿営も容易です。ここで、味方か敵かを確認できる、政治的な行動を示す場所でもあったと考えられます。

 そして信長は熊川を経由して、若狭国へ入るルートを使い、別の一隊を西近江路から進ませ、海津経由で途中、疋田城を囲んで孤立化させて、敦賀に入ったと思われます。









2010年11月24日水曜日

勝正のエピソードは色々あります

○キリシタンとの関わりがあり、記述にも頻出する。
○阿波足利政権を支える。
○三好三人衆方に加担し、大和国の松永久秀を攻めた時、東大寺大仏の焼失を目撃す。
○番替で兵を交代制として編成。
○動員兵力は三千から四千くらいまで可能だった。
○鉄砲の組織的運用の可能性。
○四人衆は実在するも、二十一人衆は実際には存在せず。
○播磨国鶴林寺へ禁制を掲げる。
○播磨国竜野方面へ遠征。
○但馬国此隅山城へ遠征。
○三千の兵を率いて越前朝倉氏討伐に従軍し、金ヶ崎退き口でも活躍す。
○摂津国原田城を守る。
○四人衆が分裂し、荒木村重と対立するも、四人衆は勝正を迎えず。
○荒木村重は、旧池田家臣を不登用の方針を採る。
○天正二年に摂津池田家は完全に壊滅したと考えられる。この年以後、勝正の史料上の記述は見られず。
○天正三年五月十五日に池田四人衆の一人池田正秀の史料上の実在を確認するも、この後は途絶える。

2010年1月30日土曜日

大和信貴山城について


 現在の大阪府と奈良県の境目として、南北に横たわる生駒山地の頂上部が設定されています。
 中世の頃もこれと同じく、生駒山地が河内国と大和国の国境でした。室町末期の戦国時代、国境は軍事的にも非常に重要な意味を持っていました。
 そのため、その付近には多くの城が作られ、近世概念が芽生え始める頃には、それらがネットワーク関係を以って構成されていたようです。
 永禄年間には、大和領有を目論む三好長慶勢の最前線となり、生駒山地の北端部に飯盛山城を大城郭に変貌させます。
 それに先立って、松永久秀が生駒山地の南端付近に信貴山城を根拠地として、大規模に改修を行っていました。
 この事は、京都と大阪、和泉方面から大和国への流通について監視や管理が可能となり、三好勢にとっては、大和への進攻のための補給をその西側の大坂湾から安定的に受ける事ができます。
 また、生駒山地の頂上部はほぼ平坦で、道を通して南北の移動が可能です。そのことは、生駒山地を東西に貫く、いくつかの街道管理のためにも必要な事でもあります。要するに、生駒山地を利用すると非常に迅速に大和・河内両国の有事に対応する事が可能になります。
 この事から、飯盛山城信貴山城は、生駒山地を利用して、相互関係を保持していたと考えてもいいように思います。両城ともに、兵や物資を大規模に備蓄が可能なつくりとなっていますし、有事への機動性を確保する意図があったと考えてもいいように思います。
 また、生駒山地(津田城・二上山城)や摂津国北部の山地(池田城・芥川山城)を支配する事は、大阪平野を取り囲む広域の情報ネットワークを活用する事が十分可能で、実際にそれぞれの山城に登ってみると、その事が考慮されていたと考えざるを得ません。
 それぞれの城は目視が可能な位置にあり、それぞれを伝えば、京都へも奈良へも神戸へも簡単な伝達が可能になっていますし、交通の拠点にあたる位置には、大規模な城が存在している点から考えても、連絡を迅速に行い、素早く行動できるようにできるネットワークと仕組みになっていたと考えられます。

2010年1月20日水曜日

奈良県北葛城郡箸尾にあった城

奈良県北葛城郡箸尾の箸尾城は、同郡長河荘荘官であった箸尾氏の本拠であったところに城はありました。こちらは、中世の堀や道が今も残っており、すばらしい史跡です。街そのものが資料館のようです。奈良県には環濠集落が多数あり、近年では急激にその数を減らしているとはいえ、今も箸尾のように面影をしっかり残しているところもあります。
 さて、摂津池田氏の系図での記述に、この箸尾に池田宗伯なる人物が三好三人衆により知行を得ていたとあります。真偽の程はわかりませんが、全く完全否定もできるほど、荒唐無稽でも無いのです。
 永禄10年に池田勝正が奈良へ進攻して活躍していますので、それに関係する可能性はあります。
 今後とも研究を続けたいと思います。

奈良市油阪東町の草鞋山 西方寺


奈良市油阪東町に草鞋山西方寺というお寺があります。非常に古い由緒を持つお寺で、大変趣のある古刹です。
 その西方寺は、池田勝正に縁があるお寺で、松永久秀と三好三人衆が激しく争った永禄10年、勝正は三好三人衆方として、松永久秀の本拠地である奈良へ進攻します。
 5月17日、久秀の居城奈良多聞城を攻めるため、三好三人衆方は、奈良の市街周縁部に陣を取ります。勝正はこの時多聞城の南にある砦、宿院城のすぐ西側一丁程のところにあった西方寺に陣を取りました。三好三人衆勢としては、最も敵に近い最前線でした。
 翌日の18日夜、勝正は宿院城に夜襲を敢行します。しかし、守備が堅く失敗します。この時、下村重介なる人物が戦死します。重介は、100人程を束ねる足軽大将であったと『多聞院日記』に、伝聞情報として記述されています。
 下村氏については詳しくは解らないのですが、今の池田市木部あたり出身の有力者なのかもしれません。この辺りには、館城のような施設があったとも伝わっています。


西方寺には、その当時からの山門などが残り、大変興味深いお寺です。付近には、東大寺はもちろん神社仏閣など多数の史跡があり、戦国ファンの方が訪れても楽しめるところだと思います。地形や空気感など、その場に立って始めて解る要素が沢山あります。
 もちろん、奈良のおいしいものも沢山ありますので、好奇心・触覚・お腹などなど、じっくりと楽しめます。

戦国時代の史料に現れる森河内村(現東大阪市)と左専道村(現大阪市城東区諏訪1-2丁目)について

明治時代中頃の地図
東大阪市森河内(現西・東の長瀬川沿い)というところは、今や都会の一部ではありますが、このあたりは非常に昔の面影の残る貴重な地域です。
 この「森河内」は、前近代時代頃まで交通の要衝で、陸路・水運が交差する地域でした。また、戦国時代末期には大坂石山本願寺(城)にも近く、本願寺宗の影響力の強いところでした。そんな立地から、戦国時代には度々この森河内が拠点として利用され、争奪戦も繰り広げられています。

摂津国の戦国大名荒木摂津守村重も三好義継が自刃した天正元年(1573)以降、中河内地域から北側を領有している事から、村重と森河内地域も村重と何らかの関連を持っているかもしれません。

さて、いつものように、先ずは、大阪府の地名2(平凡社)にある「東大阪市」の森河内村の記述を抜粋してみます。
※大阪府の地名2-P981

(資料1)-------------------------------
森河内村(現東大阪市森河内:本通1-3丁目、西1-2丁目、東1-2丁目、森河内、古川町、島町)
森河内村域東部に見られる旧家
河内国若江郡に属し、東は稲田村・川俣村。大和川付替えまでは、新開池から西流してきた流れに村の北東で楠根川が、北西部で長瀬川が各々合流していた。「私心記」の天文3年(1534)3月10日条に「御厨・杜河内セメ落候」とある。同年10月11日条には「河内(丹下備後)森河内へ陣取候」とみえ、同月20日条によると細川晴元方と石山本願寺(跡地は現中央区)との合戦が「森河内之南」で行われている
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣した(譜牒余録)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(1673-81)河内国支配帳・天和元年(1681)河州各郡御給人村高付帳いずれも高582石余で幕府領。
 宝永2年(1705)から、大和川付替えで水量の減少した長瀬川の川床に新喜多新田が開発され、村域が二分された。元文2年(1737)河内国高帳では高438石余、幕府領。宝暦10年(1760)には幕府領(瀬川家文書)。幕末にも幕府領。
 楠根川の在郷剣先船を元禄5年(1692)には1艘所有していたが、享保5年(1720)には既に手放していた(布施市史)。産土神は八幡神社、真宗仏光寺派竜華山称光寺・同派宝樹山法林寺・融通念仏宗寿量山圓通寺がある。
-------------------------------(資料1おわり)

それから、森河内村の産土神は八幡神社のようですが、その社伝によると、本殿は室町時代末期まで遡るとの事で、村人は勿論、村に陣取った明智光秀など、武将も武運を祈願して詣でたかもしれません。
 また、上記(資料1)に見られる「私心記(ししんき)」とは、本願寺宗の中核的な寺であった順興寺(じゅんきょうじ:現枚方市)の実従(さねみち)の日記で、その実従は、蓮如上人の末子にあたる人物です。
この私心記に、森河内方面であった合戦の様子が記述されているのですが、天文年間(1532-55)の始めの頃は、時の管領(将軍の執政職)細川晴元が、法華宗徒や本願寺宗徒と戦いを繰り広げ、「天文法華の乱」などとも呼ばれる、京都とその周辺で政治と宗教の集団が武力で争い合うという、大変な混乱があった時期でした。
 軍事的劣勢を補うために、管領細川晴元が本願寺宗を味方につけて、敵を制圧したのですが、今度はその本願寺宗と晴元が対立し、それに対抗するために晴元は、法華宗と手を結んで制圧しようとします。
 そして何と、それから間もなく、その法華宗とも晴元は対立し、弾圧するという、もの凄い歴史です。

そんな中、森河内方面の記述が「私心記」に見られます。それらは天文3年(1534)の記事として記録してあります。
※石山本願寺日記-下-P227、232

(史料1)-------------------------------
3月10日:
御厨屋・森河内攻め落とし候。又、やがて摂津国天王寺へ廻り候。(同国)高津展渡辺焼き候。
10月11日:
河内(註:丹下備後守)森河内へ陣取り候。早々也。見物する也。
10月20日:
早々より河内国へ敵出張候。此の方より民部少輔打ち出し候。玄蕃頭同前。仍って森河内之南方於合戦。利運也。敵数輩打ち取り候也。(後略)。
-------------------------------(史料1おわり)

森河内村の東側に通る南北の道
また、同じ頃、森河内に接するようにある摂津国欠郡(東成郡)左専道村の記述も見られます。天文3年(1534)の10月13日の事として記録してあります。この時、左専道は河内国に属すような記述になっていますが、勘違いや書き間違いかもしれません。
 ただ、戦国時代は国境や郡境が、勢力の強弱などにより動きますので、もしかするとこの頃の左専道は河内国に含まれていたかもしれません。天王寺領新開庄に含まれ、一体化していれば、国境の判断は迷うところですね。
※石山本願寺日記-下-P232

(史料2)-------------------------------
上野玄蕃頭・太融寺より河内サセ堂(左専道)へ陣取。薬師寺二郎左衛門(下文中断)。同朝、周防主計汁振る舞い。
-------------------------------(史料2おわり)

左専道村を東西に走る道
実は、筆者はこの左専道村に生まれ育ち(父の代で移り住んだ)、母方の祖母が森河内の新地に住んでいましたので、このあたりの地理には詳しいのです。
 しかしながら、『地名』にある、詳しい歴史の流れについて、小さな頃から知っていた訳でもありませんので、近年になって知り得た事もあります。
 私が聞いた話しとして、両親が結婚した昭和39年(1964)頃、上記にある明治時代の地図のように、まだ多くが田畑だったようです。その後の経済成長で、この地域も急速に街の様子が変わった事が窺えます。

さて、上記の古地図からも判るように、森河内村と左専道村は接するように集落があるのですが、その間を割るように街道があり、それが中高野街道(放出街道)で、この道が摂津・河内の国境にあたります。
中高野街道(放出街道)
地図は北を上にして、西側が摂津国で、その東側が河内国です。大和川付替え以前は、長瀬川の水量が多く、森河内村の新地は大和川開削後の開発で開かれたりして、様子が変わったようです。

ちなみに、森河内村と関係が深い左専道村についても『大阪府の地名1(平凡社)』の「大阪市城東区」にある記述を紹介しておきます。
※大阪府の地名1-P630
 
(資料2)-------------------------------
左専道村(大阪市城東区諏訪1-4丁目、永田2-3丁目、東中浜5-6丁目、同8-9丁目)
天王田村の東、長瀬川左岸にあり、東は河内国森河内村(現東大阪市)。深江村(現東成区)で奈良街道(暗峠越)から分かれた摂河国境沿いの道が、村の東端を通って剣道へと続く。集落は村域北東隅に位置し、南方にある12間四方の墓地は行基が開いたと伝える。また延喜元年(901)太宰権師として筑紫へ左遷された菅原道真が、途中立ち寄ったのが当村諏訪明神の森といい、村名の由来説話がある(大阪府全志)。中世は四天王寺(現天王寺区)領新開庄(現東成区)に含まれたとみられる。
大阪市指定の保存樹
文禄3年(1594)の欠郡内佐専道御検地帳写(諏訪神社文書)によると、村高448石(うち12石余荒地)・反別33町4反余。元和元年(1615)から同5年まで大坂藩松平忠明領。その後幕府領となったが、寛文5年(1665)村高の内400石が旗本稲富領となり幕末に至る。稲富領を東組と称し、残る幕府領を西組とよんだが、西組は幕末には京都所司代領(役知)。
 元禄11年(1698)治水のため村域大和川の外島(中州)が取り払われ(大阪市史)、宝永元年(1704)の大和川付替えで川は水量が減少して大部分の川床は開発された
 享保20年(1735)以降成立の村明細帳(諏訪神社文書)は、特定年の村明細帳ではなく書式・類例を記したものであるが、寛永-正保期(1624-48)の摂津国高帳と同じ451石余が記され、稲富領400石のうち下田93石余・畑299石余・永荒7石余、幕府領51石余のうち田50石余・永荒1石余とある。また宝永5年、永田村と共同で笹関新田(現鶴見区)のうち1畝8歩の地を銀101匁余で布屋九右衛門より、幅2間半・長さ52間半の用水路を銀188匁余で鴻池新七より購入したこと、当村は砂交じりの水損場で麦は不作であること、年貢の津出しは剣先船を利用したこと、村保有の小船は14艘で下肥の運搬や農通いに使用したことなどがわかる。主要井路に橋本・西河原・高野田の各井路があった。享保20年の摂河泉石高調で、村高464石余のうち6石余が新田とされるのは、購入した笹関分か。
 諏訪神社は建御名刀美命・八坂刀売命を祀る。前掲村明細帳に引く元禄5年の寺社相改帳によると宮座65人、うち年長の9人が社務をつかさどり、禰宜・神子はいない。古来武家の尊崇厚く、豊臣秀吉奉納と伝える獅子頭一対が残る。
後藤山不動寺
後藤山不動寺は真言宗山科派。慶長7年(1602)宗寛により木野(この)村(現生野区)に創建されたが、水害のため宝暦9年(1759)当地に移転、のち友三寺(ゆうさんじ)と改称したが昭和17年(1942)現寺号に復した。
不動明王を本尊としたので左専道不動とよばれ、正月28日は初不動といって参詣人が多く(浪華の賑ひ)、桃の名所としても知られた(浪花のながめ)。大阪では「そうはさせない」というとき、語呂合わせに「ドッコイそうは左専道の不動」ということがあった(大阪府全志)。
 万峯山大通寺は融通念仏宗。ほかに慶長7年頃左専道惣道場として創建されたという真宗大谷派林照寺、浄土宗地蔵庵がある。
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上記(資料2)の文中にある、「南方にある12間四方の墓地は」とある部分、左専道の旧村域の南側にはそのような墓地は見たことがなく、「北方」の間違いではないかと思います。明治時代の地図にも集落の北西端に墓地の地図記号が見られ、南にはありません。

そして、これら両村の歴史を見ると、重要な街道を接し、また、大河にも接していた事で、水路の利用もしていたとの事で、水陸の要衝であった事がわかります。また、江戸時代を通じてほぼ幕府領で、時代が変わっても要地として把握されていた事がわかります。

時代は降って、織田信長の時代。この時の本願寺宗は、自衛的戦争を織田方(室町幕府が機能していた頃に始まった。)に対して起こします。この戦争は、その勃発から10年の長期戦になりますが、その時も森河内は重要な拠点となり、両者の争奪戦となっています。
 ちなみに、森河内は本願寺宗の本拠である大坂を守るための支城としての機能を果していました。その時の史料を一部、ご紹介します。天正5年と考えられる、10月20日付けで、織田信長から筒井順慶に送った音信です。
※織田信長文書の研究-下-P324、(新)大阪市史5(史料編)P196
 
(史料3)-------------------------------
(明智)惟任日向守光秀用所申し付け、自余(他所、丹波国)へ差し遣わし候。一途(いちず:決着する)之間、森・河内城之方に自身相越し、用心等堅固に覚悟せしめ、摂津国大坂へ通路並びに夜待ち以下の事、聊かも油断あるべからず也。
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融通念仏宗寿量山圓通寺
(史料3)は、奈良興福寺の衆徒から戦国大名化した筒井順慶についての史料です。文中には、「森」「河内」と分けて記されているのですが、この頃、森口(現守口市)と森河内に陣を構築しており、両所の事を同時に言っているのかもしれませんが、単純に「森河内」かもしれません。いずれにしても森河内は、この頃までには織田方の配下ですので、そのように理解しても差し支えは無いと思います。

次ぎにまた、関連史料をご紹介します。天正6年(1576)と思われる11月3日付けで、明智光秀が、所属不明の佐竹出羽守某宿所へ宛てて出した音信です。
※亀岡市史(資料編2)P28

(史料4)-------------------------------
来る12日、南方に至り御出馬されるべく候由、仰せ出され候之間、丹波国亀山之普請相延べ候。然者油断無く陣用意専用候頃、鉄砲・楯・柵・縄・俵之儀、10日以前に河内国森河内に相着かれるべく候。我等は11日に彼の地へ罷り越すべく候条、其の意を得られるべく候。恐々謹言。
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この頃には森河内に、更なる強固な陣を構築しようとしている様子がわかります。柵を巡らせ、俵や楯を並べた陣地を作ろうとしていた事がわかります。また、鉄砲も配備していたようです。
 光秀は、佐竹出羽守某にそれらを11月10日までに森河内に運び入れるよう指示し、光秀自身が翌11日に着いたら、作業を始められるように、段取りを組んでいたようです。

現在の長瀬川(東向)
戦国武将として有名な明智光秀や筒井順慶も森河内村に入っていたことは、これらの当時に書かれた手紙(史料)から確実です。やはり前述のように、ここは重要な街道を通し、水運も押さえる必要から、名だたる人物を入れて管理しています。
 また、私の研究の領域外ではありますが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では徳川方の本多忠朝が布陣しているようですね。

この森河内・左専道あたりは最近、住宅の建設も盛んになりつつありますので、急速に町並みを変えつつあります。景色が一変する前に、ご興味のある方は、散策されてもそういう中世の面影を楽しめると思います。